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ダンスが伝える、ヴァナキュラー・モダン

新国立劇場・Rain

雨に支配される人々

雨がしとしと降るどんよりとした風景が、写真のような舞台装置で場面に応じて様々なかたちでセットされていた。その"雨"の元にダンサーが踊る様子が、雨が、言葉や論理で表せない見えない大きな力で登場人物を支配していた。


ずっしりとしている!

雨の音をあらわす音楽は大音量だった。わたしは原作のサマセット・モームの短編『雨』を読んだとき、じとじと降る雨の様子を想像していたから、小規模なお話だと思っていた。そのため舞台を観た当初は、こんなに大音量でなくても良いのではないかと思っていた。だが、物語が進むにつれて単なる大音量でない、地面に響くような雨の音が身体に沁みこむような感覚があった。美術と音楽が徹底してジメジメと降る雨に人々が支配される様子を作り出していて、原作を読んだとき以上に強く印象に残った。

キレッキレのダンス

物語は、原作を読んでいないと理解が難しいだろうと私は思った。
舞台は、中川賢さん演じるキリスト教の宣教師デイヴィドソンと、新国立劇場バレエ団プリンシパルの米沢唯さん演じる娼婦のミス・トムソン以外、役がないように見えたからだ。この2名の登場人物の対比から主に成っているとわたしは思う。

冒頭から前半は、宣教師デイヴィドソンによる、西洋の宗教の世界。最初は黒い衣装を着た6人のダンサーが、"雨"の音楽や、無音や、どんよりした雨の美術のもとで、同じ振り付けをそろえて踊ったり、テンポが速い中で秒単位でひとりずつきれいに間髪入れずに様々なポーズをとっていた。特にそうした動きが無音だと、衣擦れの音やジャンプの足音、息遣いなどが聞こえ、緊張感があった。
そのなかに、宣教師らしい黒い衣装を身にまとったデイヴィドソンが現れた。6人のダンサー全員が集合し、デイウィットソンを中心にし、像のように見立てる振り付けが何度か見られた。キリスト教の像を表しているのだとわたしは思った。


そして、白いワンピースに白い毛皮をまとったミス・トムソンが登場する。

ミス・トムソンは、そのけばけばしい服装などのせいでほかの人々とは仲間外れにされていた。
美術の"雨"がまるでカーテンのようにミス・トムソンを遮断し、孤立させていた。

それは現代の日本で起こった。


ヴァナキュラーなもの

原作で描かれなかったところは、
夜の間に宣教師デイヴィドソンとミス・トムソンの間に何が起こったか?
ということだろう。

それは言葉には表せないことだったのだと今日わかった。


原作のサマセット・モームの『雨』の初版は1951年だった。

この作品の舞台の町は、サモア諸島のひとつのパゴパゴという場所での、雨季の話である。この時代のポリネシア諸島は、西洋的な考え方や文化が世界で第一を極めていた時代であろう。デイヴィドソンをはじめとする西洋の宗教—一神教で、聖書という“書物”に書かれている事柄――をポリネシア諸島に布教しようとしていた。

では、サモア諸島に住む人々の宗教にあたるものは何か。

原作にその描写がある。ミセス・デイヴィドソンが次のように言っている。

「(省略)少なくとも私は結婚以来ダンスなんてもの一度だってしたことございませんわ。でも原住民たちのダンスと来たら、そりゃ全く別なんでございますよ。ダンスそれ自体が不道徳なばかりじゃございませんの。(省略)でも私たち、とうとうこのダンスを撲滅することができまして、どんなに神様に感謝いたしておりますかしれませんわ。(以下省略)」

【サマセット・モーム,中野好夫訳,『雨・赤毛—モーム短編集Ⅰ—』,新潮文庫,1959,p17l6〜11】

このように、ポリネシア諸島の人々の伝達する手段は言葉ではなく、
踊り”にあった。

だが、先ほども書いたように、西洋的な思想が第一にあった時代では、西洋人にとってはポリネシア諸島の踊りとは、ミセス・デイヴィドソンのいう「不道徳」なものであった。


だが、舞台のサモア諸島では、西洋的なキリスト教が本当の意味では浸透しなかったのだろう。

舞台後半は、前半の黒い世界とは全く対照的となり、6名のダンサーが、白い衣装(と言いつつも宗教的世界なのでごってりとした衣装ではなく、肌の色のレオタードのようなもの)をまとい、今度は流動的でスローテンポな音楽に合わせて、南の島の夕暮れのようなオレンジがかった照明とともに踊る。
そのなかに、ミス・トムソンが入り込み像を形成する。
ミス・トムソンはもはやその名を超え、土地の神のようになっていた。

このように、夜のその土地が持つ神話的世界と、
ミス・トムソンの神々しいパワーが、
宣教師デイヴィドソンを圧倒させてしまったのだ。
彼の衣装は3段階で変化した。宣教師の黒い服装→黒のパンツ→肌着
と、だんだんとその土地の宗教的世界に入っていった。



それは真夏の日本で起こった。

ダンサーの演技

そのことを象徴する、米沢唯さんと中川賢さんのパ・ド・ドゥが、
まるでバトルを観ているかのようで、迫力がすごかった。

とくに全体を通じて米沢さんの演技にわたしはとても魅了された。
原作のけばけばしいが、"みだらな美しさ"に忠実だったと勿論思う。
だがそれ以上に、セリフを発しないダンス表現で、ミス・トムソンのあの存在感が、ほとんど間の取り方のみで表現されていたように感じる。

音楽が全体を通じて、ほとんど雨を表す様々な種類の音のみであったため、
曲に合わせてのパ・ド・ドゥではなかったように記憶している。
そのためか、ミス・トムソンの間の取り方が、独自のリズムを持っていたように感じた。
例えば、顔の表情が豊富だったことだ。明らかな悪役っぽい「ほら見ろ!」というような表情や、デイヴィドソンをつま先から頭までジーっと見るような瞬き、あっけらかんとあざけるような笑い。

これらで独特の存在感を放っていた。

コンテンポラリー・ダンスが熱い!

わたしは今回「Rain」を観て、同じポリネシア諸島のダンスであるフラについての想いがいろいろ湧いてきた(わたしはフラを踊っていたから)。

フラ(フラダンス)のことで言うと、いまの時代の日本では、フラを踊ることが個人のアイデンティティーになっているひとがたくさんいると思う。

だが、モームのような昔のヨーロッパの作品をじっくり読んでみて、当たり前だがここまで来るには複雑な歴史があったことを改めて思った。

米沢唯さんをはじめとするダンサーの素晴らしいコンテンポラリー・ダンスによって、地域の歴史を振り返り、いまを認識する。

コンテンポラリーや現代、そして伝統が混ざったグローバルないまを!

フラダンサー必見じゃないか?と思う。
わたしは最近フラを踊っていないけれど、踊る意味が分かった気がする!
















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