≪感想≫トリプルビル 目覚めの前のエクリチュール


2023年9月17日、愛知県芸術劇場小ホールでコンテンポラリー・ダンス公演「トリプルビル 目覚めの前のエクリチュール」を観てきました。その感想を書きました。

1作目 Night Shades


 私はこの作品をみて、ストーリーをざっくりとしか見出せなかった。
最初は屋久島の壮大な自然を表しているのかなと漠然と思っていた。それがやがて、人間と自然が対になって…という風に捉えた。

 ただ、あー!これは!と思ったのは、“影“の存在についてである。わたしは今の今まで"shades"を"shadow"と読み間違えていたのだが、そのせいもあり、影に着目して作品を観ていた。
 影がダンサーの倍以上の大きさとなり、舞台上に大きな存在感を見せていた。
 その物理的な大きさは、自然の壮大さを表し、その夜の闇の色は、何か神秘的な雰囲気を醸し出し、そのかたちは柔らかく、変化に富み、長い長い歴史のなかに存在してきたのだと無言のうちに私は合点した。

2作目「あいのて」


「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という小説『ノルウェイの森』のシーン(ノルウェイの森,村上春樹,2004,講談社,p54)と、どこかで耳にした、「死に方は生き方だ」ということを思い出した。

 意識下では人々は、死なないようにさまざまな設備や制度を整える。その結果、死なないようにすることに一杯一杯になっているというような内容を、ラップとマイムのようなダンスで表現していた。

 モノやコンテンツに溢れ、都市を中心としたライフスタイルが出来た近代社会では、今回の公演の「あいのて」に続く3作目の「Can’t-Sleeper」のような不眠や生活習慣病、引きこもりなど現代病と言われる新たな種類の問題が起こった。また貧富の差も拡大している。
 病気や貧困に直面したとき、私たちが究極、意識することは死だと思う。
どんなに時代が変わっても、死を免れることは出来ない。ただ、狩猟採集社会から現代社会という、歴史のいろんな時代を知っている私たちは、そうした時代を踏まえたいま、何を生き甲斐とするかや、誰と生きるかなど建設的に考えることが出来るだろう。
 死なないように気をつける、という考え方から脱却し、いまをいかに生きるか(その結果どう死ぬか)ということを考えさせられた。

 語りから始まり、やがてその語りを音楽のように合わせて踊る(ラップ)。ダンサーの身体ひとつで伴奏とメロディーを表現することは、両方に“意識”を向けないといけないと思うから、難しそうだと思った。が、語りの内容にもあったように、無意識に身体が動いてそのあと言葉が出てくるそうだから、マイムのような動きを無意識かのように見せかけることが、この作品の技術面での意識と無意識の区別なのかもしれない。難しそうにみえなかった。
 目が痒くなる→意識が働いてかけないという内容もあったが、、、
 息ピッタリのダンスと、漫才のような掛け合いは調和が取れていて、観ていて心地よかったし、面白かった。

○不協和音○
 そういえば私は、ナラティブとストーリーの違いをこれまで意識してこなかった。
「あいのて」のラップによると、ナラティブは作業とか行動のことらしい。顔を洗うとか。
ストーリーは、起承転結のような大きな流れらしい。

 比喩的に「踊るように生きたい」とか、進学や就職などで「次のステージに行く」とか言うときの意味はナラティブかな?と思った。
 となると、「あいのて」で見られた2人が崩れ落ちたりする振り付けは、一見すると物語(ストーリー)としてのまとまりがないが、崩れ落ちるということ自体が不協和音のようにひとつのシーンのナラティブ的な完結なのかもしれない。
 このこともまた、“生は死の一部“であり、いまをどう生きるか、ということと関連があると思う。就活などで一応ストーリー的な、“直線的”な人生設計を建てるが、実際は日々のナラティブ的な行動その他によって、起承転結の枠に収まらない出来事があったりする。それを不協和音として、たとえ崩れ落ちてもかたちになるようにすることが、人間の面白さかなと感じる。そこで私たちは今日のようなアートに触れ、無意識という非直線的な宇宙に働きかける。

 ラップは、普段新聞や情報番組や解説本などで耳にするような内容だったと思う。ダンサーの技術に圧倒されながらラップも聴くというのは個人的には大変だった。そのためか、内容の理解に若干時間がかかった。

3作目「Can’t-Sleeper」


1,2作目は身体と外の世界だったのに対して、3作目は心の問題についての作品だった。

 衣装が可愛かった。コンテンポラリーダンスでよく見るようなシンプルで身体のラインがわかるような衣装だったが、ヨーロッパや60年代アメリカ映画などの部屋をイメージできるような、レースカーテンのようなデザインが入っていた。
 冒頭のプレゼントボックスを開けるシーンから、少しおとぎ話のような雰囲気があった。

 振り付けは可愛いくはなく、眠れない夜に寄り添えるものなのか私には正直分からなかったが、終盤、観客のアンケートを柿崎麻莉子さんが読み上げるとき、後方でアリス・ゴドフリーさんが踊るシーンは、照明の効果もあって、また衣装の雰囲気もあって、豆電球にして和室で眠っているような感じをイメージした(まあ、私の祖母の家の話ですが)。綺麗な舞台演出だった。豆電球と和室は、私にとって子どもの頃の楽しい思い出を想起させた。
 おばあちゃんの「目を下にして眠る」「耳をつまむ」というアドバイスがあったことも上記を想起した一因なのかもしれない。

あ、欧米の映画から、和室の豆電球になっている…。

柿崎麻莉子さんの目力には惹かれるものがあった。
なぜだろう?
豆電球と和室と、可愛い衣装により、私にとっては柿崎さんとアリスさんは、お人形に見えるときもあった。

 結果、穏やかな気持ちになれた気がする。私はコンテンポラリーダンスを本格的に観続けるようになって日が浅いためか、こういうほっこり系の作品があるとは知らなかった。

面白いですね❣






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