YPAM2023フリンジ参加企画『かきあげざれば、時。』
12/3(日)13:30~ @横浜・黄金町 八番館
初めて観るタイプの作品だった。
公演前に戯曲を購入して読んだ。たけしまちという架空の街を舞台に群像劇のようにいろいろな人が日々の生活を送る一部分を描いている。
2名の出演者のうちの飯塚大周さんは、柿の木とその柿の木が生えた土地(資産)、そして柿の実は誰のものかという言い争いを書いたという。
また、作品そのものの創作プロセスと権利について文章で説明してもらった。
戯曲を俳優が書くことで、作品を俳優が「資産」として持つ権利を得るようにしたという。
と、、、?
この「かきあげざれば、時。」の物語とその創作プロセス、これらはある意味、舞台創造における現実的問題をフィクションとして反映させていないか・・・?
あと、たまたま「かきあげざれば」とパソコンで入力したとき、「書き上げざれば」と変換されてしまった。考えてみれば、なぜ柿なのか?俳優が物語を”書く”ということとかけているのだろうか?
「書き上げざれば、(その)時(は演じるとき)。」みたいな?
土地とは衣食住の中で人間にとって大きな「資産」だと思う。
もちろん食(柿)も。食べないと死んでしまう。
食べるためには現代の人間は仕事をしてお金を稼いでいかないといけない。言うまでもないかもしれないが。
しかしいろんなクリエイティブな仕事が増え、IT化が進み、人々の余暇の過ごし方の選択肢も多様になった昨今、スマホ一つで可能なことが増え、“身体”を使う機会が減った。
そのことで、基本的な衣食住について忘れてしまっている部分があると思う。
とくに舞台の仕事って表面的には華やかでやりがいがあり面白そうと思いがちかも…。
少なくともわたしはそうだった。
大学を卒業してから「やりたいこと」・「やりがいのある仕事」を求め、仕事を探していた(いる)。このやりがいという、漠然としているが頑張って言葉で表そうとしているもの、独り歩きしてはいけない。
複雑化している世の中では、専門用語もどんどん増え、同じ言語でも通訳を必要とすることもある。素直にやりたいことを追求していると、最悪なかたち、だまされて資産を奪われてしまいかねない。
セリフとダンスと照明などのシンプルな舞台セットと、「資産」や「土地の所有」という事前に言葉で知ったテーマと相まって感じ取ったことは、
土地をめぐるいざこざ――生きるためには頭を使うのみならず、身体も強く保たないといけない――に負けると身体は、ある日突然消えてしまうということを暗に意味しているのではないだろうか?
実際、劇のオチは弱肉強食のような、動物社会のような感じで、物理的な力の強い者が弱い者を追いやるという終わりを見て取った。階段をさかさまになって崩れ落ちていくことがまさにそう。
シンプルに”生きるとは何か?””働くとは何か?”を再考させられた。
資産を正しいやり方で論理的に手に入れるには、優雅さや謙虚さも大事だか、それ以前に、根本的にもっと確実に資産を手に入れるため(だけのため)に貪欲にならないといけないのかもしれないと、このnoteを書いているいま、思わされるのだった。
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