教会

230831
私が通っていた幼稚園はいわゆるカトリック系で、いつも讃美歌を歌ったり、食事の前にはお祈りをしていた。
両親がカトリック、という訳でもないのだが、母の母、つまり祖母がそこで教諭をしていた関係で、母も私もその園に通っていた。
敷地は小さめで設備も特別綺麗と言う訳ではなかったけれど、私は園が大好きだったし、日本の宗教観の薄さ故に通園できていたのであれば、大変感謝している。
小学生になると、園の2階にある礼拝堂で行われる日曜礼拝に参加するようになった。スーパー戦隊シリーズを見て、仮面ライダーを見て、プリキュアを見て教会へ行く。それが日曜午前のお決まりのコースだった。
礼拝が終わると1階の幼稚園に降りて先生と喋ったり、年次が上がると年下の子供たちの相手をするようになった。あの頃から子供の世話は好きだったのだと思う。
中学生になろうという頃、カツヌマさんという新しい職員の人が来た。40代の男性で、年配者が多かった当時の教会の中では珍しい存在だなと思った。とても気さくな人で、私や私と同年代の子供達ともすぐ打ち解けた。話していると知的さを感じる、そんな人だった。
ある日の礼拝後、私を含めた来年から中学生になる学年の子どもがカツヌマさんに集めまれた。彼が言うにはこれから月に1回程度、「研究会」というものをするらしい。今まで礼拝をして遊んで帰っていた私にとっては突然のことで、少し動揺したのを覚えている。
研究会は聖書の一節を抜き出し、その解釈や意味を考える会だった。いつも気さくなカツヌマさんだったが、研究会では終始真剣で言葉も力強く、聖書の内容について細かく教えてくれた。それまでただの読み物だった聖書が教材に変わったことが、私にとっては非常に興味深かった。
その日の研究会で、最後に課題が出た。

「イエス・キリストの起こした奇跡は人々にどのような影響を与えたか」

聖書の中で繰り返し出てくるイエスの奇跡。水をワインに変え、パンを増やして人々に与えたという、科学的には証明し得ない現象が聖書には繰り返し登場する。この課題が出たとき、面白い、と思った。言葉の意味や内容の仔細について考えるのではなく、内容そのものを批判的に捉える、そんな課題だと思ったからだ。私は奇跡に対する考えを、配られた白紙にまとめた。
10分ほどして、集まった子どもたちがそれぞれの意見を書き終えた頃、カツヌマさんが口を開いた。

「まず大事なのは、奇跡は本当にあった、という前提です。あったかなかったかを議論するのではなくて、その奇跡によってどのように人々が影響を受けたかということを想像してほしいと思います」

私の回答をどこかからか見ていたのだろうか。身体がびくりとする感じがした。
その日から徐々に、私の足は教会から遠のいていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?