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【短編小説】六歳の願い

二〇二二年、七月八日、金曜日。午後三時を過ぎた頃。在宅勤務中の私が、遅めのランチ兼お菓子タイムを満喫していた時。自宅の玄関の鍵穴を誰かがこじ開けようとしているような音がした。恐る恐るインターホンのモニターを覗いてみると、茶色のランドセルを背負った女の子が一人立っていた。私は、不審に思いながらも、急いで玄関の鍵とドアを開けた。女の子は、とても驚いた顔をして、その表情を笑顔に変化させるとともに、こう言った。
「七夕のおねがいが叶った。」
 女の子は当然のように玄関に入り、靴を脱ぎ始め、ランドセルも下ろし、呆気にとられている私に、おずおずと抱きついて、こう言った。
「おかあさん、生き返って嬉しい。」
 私には娘はいない。そもそも結婚もしていない。同棲している彼氏はいるが、妊娠したことだってない。現在私は二十四歳で、確かに同年代で既に親になっている者もいるにはいるが、今目の前にいる子は、少なくとも就学児で、六歳以上である。つまり、私が母親だというなら、十八歳で出産していることになるが、実際はそうではない。そして、生き返るも何も、死んだこともない。
 私は驚きより恐怖に負けそうになりながら、女の子の顔を覗いた。目が合うとにっこり笑って、こう話し始めた。
「この前、学校でね、七夕の短冊を書いてって先生に言われたの。ミツリは「学校から帰ってきたら、おかあさんがいてほしい」って書いたの。」
「ミツリ」という言葉の響きに私はドキリとした。
「そしたら、本当にお母さんがいたからびっくりしちゃった。」
「ミツリちゃんのお母さんは、なくなってしまったの。」
「うん。ミツリが生まれた日に。ミツリのせいでごめんなさい。でも、やっと会えた。奇跡だね。」
 私はそのまま、興奮している様子のミツリちゃんと会話を続けながら、グラスにジュースを注いで渡し、近くにあった椅子に誘導。そして落ち着いて話せるようにしてから、どうにかこの状況を理解しようと試みた。仕事は進捗も何も、一切手を付けられず、流石にミツリちゃんの件の方が重大な事だったので、その存在を忘れることに徹した。それから、同棲している彼氏が帰宅したときに困惑させないために、ミツリちゃんが話した重要そうなことを、書き残し纏めて伝えることにした。
「ミツリちゃんは自分の名前の由来が分かったり、自分の名前を漢字で書けたりするかな。」
「えー、ミツリの名前は、お母さんが決めたんでしょ。お父さんからそう聞いたよ。お父さんとお母さんの名前から、一文字ずつ取って決めたんでしょ。」
彼氏の名前が光一で、私の名前が理花で、二人の名前から一文字ずつ取って光理。よく二人で話していたことだった。そして、いつも読み方に関して意見が割れていた。彼はヒカリが読みやすくていいと主張していた。私はミツリの方が二人の名前が平等に組み合わされている気がするから良いと主張していた。ヒカリなら、光一の光だけでも成立してしまうから、理花の理の存在感が薄まってしまうでしょう、と。だから、最初にミツリちゃんが名乗った時に、とても驚きはしたが、この子は自分の娘なのだと納得してしまった。
「あとミツリは、名前漢字で書けるよ。他のお友達は書けない子もいるけどね。ミツリはいっぱい練習した。」
そう言って、私の手から、シャーペンを奪うと、「光理」と私の字の三倍くらいのサイズで立派に書いてくれた。私の中では、これは自分の娘だという一つ目の、そして何よりの証拠になった。
「ねぇお母さん。私のランドセル置き場なくなってるんだけど、しってる。」
「ランドセル置き場。ランドセル置き場ってどんなやつ。箱とか棚とか。」
「それは棚だったけど、他にもいろんなものが無くなってる。光理のスリッパもなくなってるし。お部屋の雰囲気も変わってる。色々違う。」
光理ちゃんは少しの不安と不満と、それから疑いが混ざったような表情で私を見上げて言った。
私は一つの仮説を立てた。私の娘と主張する子、光理ちゃんは、推定八年から十二年程度先の未来からタイムスリップしてきており、その未来でもここと同じ物件に住んでいて、放課後に学校からこの家に帰ってきて鍵を開けようとした時に、鍵が開かなかったのは、今と光理ちゃんの過ごしていた時代の間に、鍵の交換をしたから。
そして光理ちゃん自身は、タイムスリップしている自覚がないのと、むしろ私が生き返って、光理ちゃんの生きている時代に参入したと捉えているのも察せられた。
 この賃貸は、2dkで、確かに父親一人と娘一人の二人家族なら、充分に暮らせる環境ではある。私は未来の彼が、娘にミツリと名付け、私が死んでも引っ越さずにここに住み続けていることを思って、切なくなった。光理ちゃんの「ミツリが生まれた日に。ミツリのせいでごめんなさい。」という発言も気にかかっていた。二人ともに、長期的な辛い思いをさせてしまっているのが手に取るように分かってしまったのも、申し訳なく胸が締め付けられた。
「光理はそろそろ宿題するね。勉強机もなくなっちゃってるから、お母さんのとなりでする。いつもお家学習で使ってるタブレットもなくなっちゃったから、お父さんが帰ってきたら聞かなくちゃ。いろんなこと出来るんだよ。お母さんに見せたいな。」
私は広げていたパソコンやタブレットを動かし、光理ちゃんの勉強スペースを確保した。光理ちゃんの取り出すテキストで学年が分かるなと思いつつ、お洒落な茶色いランドセルから出てくる漢字ドリルや計算ドリルに懐かしさを覚えた。
 一心に自分の課題に向かう姿に、私は光一らしさを感じた。光一は今現在医学部生で、ずっと忙しそうにしている。光理ちゃんだって、実はまだ小学校一年生で、たったの六歳なのにこんなにもしっかりしている。聞けば、漢字は六年生まで、算数は簡単な分数までもう出来るという。父親の背中を見て育ったのかなと思った。光一は立派なお医者さんになれたのかしら。
 午後六時頃、彼が帰宅した。鍵の音がすると光理ちゃんは玄関に向かって飛んで行った。
「おかえり。お父さん。……でもなんかいつもと違う。」
もちろん彼は、光理ちゃんの事を知らないので、君は誰だ、などと言わせる前に、私が割って入った。
「おかえり。光一。この子は光理ちゃん。詳しいことはすぐ説明するから、とりあえず座って。」
明らかに状況についていけていない様子が面白く、笑いそうになってしまったぐらい、光一は「お父さん」という言葉の響きに驚きを隠せていなかった。
私は彼にほうじ茶を淹れた。気が動転したとき、落ち着きたいときなんかは、ほうじ茶が一番合っていると私は勝手に思っている。ついでに自分の分も用意して、話を始めた。
「光一。光理ちゃんも、良く聞いてね。ここからは私が立てた仮説でしかないのだけれど、まず、光理ちゃんは未来から来た私たちの娘なの。光理ちゃんには申し訳ないんだけど、お母さんは生き返ったんじゃなくて、お母さんが生きていた時代に、光理ちゃんが来たの。だから、もし光理ちゃんがまた元の時代に戻っても、お母さんはいないままだと思う。ごめんね。……それから、光理ちゃんがこの時代にタイムスリップしたのは「学校から帰ってきたら、おかあさんがいてほしい」って七夕の短冊に書いた願い事が叶ったからだと思うの。確かにそんなことあるはずないとは思うけれど、今起こっているから、これは受け入れるしかない。未来では、私は光理ちゃんを出産する時に亡くなったみたいで、それで光理ちゃんはその願い事を書いたのね。だから、未来ではこの家で、光一と光理ちゃんが二人で暮らしているのよ。光理ちゃんがいつまた未来に戻れるのかは分からないし、戻った時にどんな影響があるかも分からないけれど、兎に角光理ちゃんは今、未来からタイムスリップして、私が生きているこの時代に来たの。」
光一は「なるほど。」と一言呟いて黙り込んでしまった。もし私の頭で想像できる範囲の事を考えているとしたら、二人に子供が出来たこと、そして私が死ぬこと、きっとその前にある卒業や就職や結婚やそれ以外の事も含めて、人生に関して色んなことが彼の頭を駆け巡っているのだろう。
「お母さんは生き返ったんじゃないの。また死んじゃうの。」
光理ちゃんはやはりショックを受けているようで、いつかは伝えた方がいいことではあるといえど、もっとタイミングを見計らうか、もっとオブラートに包むべきだったかと、申し訳なくなってしまった。
 光理ちゃんも光一も黙って考え込んでいるので、私も静かにしていた。二人の熟考している様子もそっくりで、未来の私がきっと喉から手が出るほど見たいと思っていた光景の一つかもしれないと思った。私は何かを考えている光一が好きだ。けれどそれもどんなに長くても十数年もしたらこの目では見られなくなるのが分かってしまった。
「お父さん、お母さんも。光理がずっと考えていた事なんだけど、お父さんとお母さんは結婚しないのがいいと思うの。結婚しなければ、光理が産まれることもなくて、お母さんも死なないでしょ。お母さんは死んじゃいけない人だと思うの。お父さんはいつもよりお母さんといるときの方が楽しそうに見えるし、お母さんには今でもファンレターが届くよ。光理もたまに読むんだけど、みんなお母さんに救われたとか、感謝してるとか感動してるとか書いてるの。やっぱりお母さんは生きていなきゃいけないと思う。」
私は口を開きかけたが、それよりも早く光一が話し出した。
「光理ちゃんは、ずっと辛かったんだね。そういうことずっと考えていたなら、ずっと辛い思いをさせてしまってごめんね、未来の僕がしっかりしてなくてごめん。でも光理ちゃんはそんな風に考えなくていいんだよ。人は遅かれ早かれ誰だって亡くなるし、勿論時期やタイミングは人それぞれだけど、死は平等に訪れるものだ。それにきっと光理ちゃんが生きていてくれることが未来の僕にとってはとても幸福なことだったと思うよ。理花が亡くなるってことは、光理ちゃんも亡くなっている可能性だって十分あったと思うから。」
「でも、お父さんは、寝言で良くお母さんの名前呼んでるよ。お父さんはお母さんに生きててほしかったんだよ。」
「それは、生きていてくれればうれしいと思うのは普通の事じゃないかな。寝言か、そうか……。」
光一の顔が曇ったので、私は閉ざしていた口を開いた。
「光理ちゃんは、生きてて楽しいと、生きてて辛いと、どっちの気持ちの方が大きい。」
「うーん。難しい。でも、光理はお母さんが生きていてくれる方が嬉しい。だから結婚しないでほしい。光理が産まれないようにしてほしい。」
「別に結婚したからと言って、必ずしも子供が生まれるわけではないけど。」
「そうなの。どうして。」
光一の言った余計な事に、光理ちゃんが素早く問い返した。私は思わず余計だと思ってしまったけれど、光一はきっと未来でもこうして正しい知識を与えているのだろうかと、少々しみじみとしてしまった。
自分が産まれなければ良かったと思っている光理ちゃんがとても痛々しく、未来とはいえ私自身の身体的な責任でもある気がして心苦しかった。そんな状況下でも光理ちゃんの発言から、数年後の私がそれなりの小説家になっていることが推し量られ喜ばしかった。今は新人賞に応募する程度で、仕事も全く別の事をしているけれど、いつか実を結ぶ日が来るのね。
ふと見た壁掛け時計が七時を指していたので、私は三人で外食に行くことを提案した。
「光理ちゃん、お腹空いたでしょう。これから三人でご飯を食べに出掛けましょう。腹が減っては戦はできぬっていうしさ。お腹いっぱいになってから、また話し合おう。」
「うん。お母さんと一緒にご飯食べてみたい。」
光理ちゃんは神妙な面持ちのまま明るく返事をしようと努めてくれていた。
「光理ちゃんは、好きな食べ物ある。」
「うーん。卵焼きが食べたいな。お母さんが作ったやつ。」
私は思わぬ返答に驚いたが、母親の手料理が食べてみたいという、小さな娘の願いを叶えてあげない理由はないので、結局三人でスーパーマーケットに向かうことにした。
「この際だから、卵焼きもいいけど、オムライスとかハンバーグとかグラタンとか、子供の好きそうなもの全部作ってあげたらどうかな。」
という光一の提案によって、私はお子様ランチならぬ、お子様ディナープレートを作ることにした。
「食べきれなかった分は僕が全部食べるよ。」
 卵、挽肉、ヨーグルト、牛乳、マカロニ、ベーコン。他にも色んな食材を買い物かごにどんどん入れていく。今日は「会えた記念」ということで、お祝いにケーキを買うことにした。光理ちゃんはまだ「ホールケーキを食べたことがない」というので、三人には大きすぎるくらいの思い切ったサイズのケーキを買った。光理ちゃんの願いや憧れを一つ一つ、そして本当は全部、叶えてあげたい。
「なんかさ、おかあさん なあに おかあさんっていいにおい おりょうりしていたにおいでしょ たまごやきのにおいでしょ って歌があるでしょ。光理はそれがいいなあってずっと思ってたの。」
私は思わず、光理ちゃんを抱きしめた。きっと物心ついた時からずっと一人で抱え込み続けた切ない気持ちが沢山あっただろう。光一からは、買い物カートに手をかけたままだけど、優しく見守ってくれているような温かい視線を感じた。
 必要、いや、必要以上の買い物を終え、沢山のレジ袋を提げて、帰路についた。私たちは子供用サイズのお箸や、かわいいお茶碗、他にも使うかもしれない物々を買った。光理ちゃんはホールケーキの入った紙袋を大切そうに運んでくれた。小さい手が壊れやすい宝物を大事そうに持っている様子が愛おしかった。
 買ってきた食材を一旦全て冷蔵庫にしまってから、私は「お子様ディナープレート」作りに取り掛かった。光一は光理ちゃんから、小学校での一日の話を聞いていた。どうやら未来ではその日の事をお父さんに話すのが習慣だったようだ。お友達のことから、勉強のこと、休み時間に図書館で借りてきた本のこと。光一は模範的な聞き手役に徹していた。私は聞き耳を立てつつ、卵焼きの匂いがどうしたら自分自身に染みつくか考えたりしながら、いつもより甘めのチキンライスを作り、小さく丸めたハンバーグを煮込み、小麦粉とバターと牛乳の黄金比ホワイトソースを丁寧に混ぜた。卵焼きは熱々のまま出すのが最善な気がして、最後に作ることにした。
 私が盛り付けを始めると、出来た傍から二人はダイニングテーブルに料理を運んでくれた。一つのプレートには流石に収まらず、机の上が沢山のお皿でいっぱいになった。いつも二人で囲んでいた食卓にもう一人増えたのが嬉しかったし、光理ちゃんも同じように嬉しそうだった。今日は特別な日なので、普段買わない少々お高い葡萄ジュースをグラスに注ぎ、三人で乾杯をした。
「いただきます。」
丁寧に小さな手を合わせた後、光理ちゃんは上手にお箸を持って少し緊張したように、卵焼きに手を伸ばした。息を吹きかけて冷ましてから、口に運ぶまでずっと見つめていたら、「そんなに見られると恥ずかしい。」と言われてしまった。光理ちゃんに美味しいと思ってもらえるかどうか、私は緊張して凝視してしまっていたのだ。
「あ、ごめんね。」
そう言って、私も箸を手に取った。光一は一人で笑っている。
「おかあさん、ありがとう。おいしい。」
光理ちゃんは卵焼きを飲み込むとお行儀よく言ってくれた。それからは三人で食べられるだけ食べて、ケーキの箱を開けることにした。光理ちゃんに選ばれた、苺とチョコレートのケーキは、我が家の食卓の真ん中で、幸せはここにあるとでも言いたげに、堂々と食べられるその瞬間を待っているようだった。
「せっかくだから蠟燭も立てたら。」
という光一の提案によって、箱についていた五本の蠟燭が立てられた。光理ちゃんが火を吹き消すと、火の消えた蝋燭特有の香りが広がり、自分が子供だった頃、同じように火を消した誕生日ケーキの事が思い出された。三等分に切り分けても、流石に一気には食べきれないので、六等分して取り分けた。その間に光一が紅茶を入れてくれた。最初は透き通った水色の紅茶で、時間が経つと優しい紫色に。レモンを入れると桜の花の色へと変わる。私も彼もお気に入りの、きっと光理ちゃんも気に入ってくれるはずの紅茶。カップに輪切りにしたレモンを落とし入れる時、光一はアントシアニンの説明を光理ちゃんにするだろう。でも、もしかしたら、未来の光一に既に教わっているかもしれない。
「今日は七夕の願いが叶って、おかあさんに会えて、それで、楽しくて嬉しい。お父さんもいつもより元気で嬉しい。」
光理ちゃんの心から喜んでいる姿に私も嬉しくなった。いつ未来に戻るのか分からないけれど、ここにいる間は沢山甘やかしてあげようと決めた。例えば、短冊に書いた願いが原因でタイムスリップし、次の七夕の願い事で、元の時代に帰りたいと書くまで戻れないとするなら、のんびり楽しい思い出を作ってあげたいし、今日寝て明日起きたらいなくなっているとか別れがすぐそこに迫っているなら、一秒一秒を大切にしたかった。
 私は光理ちゃんとお風呂に入ることになり、その時になって子供用の寝巻が無いことに気が付いた。光理ちゃんには私の部屋着のチュニックを着てもらうことになった。
「あ、これは今もあるよ。」
浴槽の縁に並べてある浮くマスコットたちを指さしながら光理ちゃんが言った。
「そうなんだ。未来でも取ってあるんだ。これは最近ガチャガチャを回してゲットしたやつなの。」
「この時からあったんだね。」
光理ちゃんの小さい頭と細く柔らかい髪の毛を洗いながら、私は改めて光理ちゃんが自分が生まれる前の時代に来て、自分を出産する前の母親に会っているんだという現実を重く受け止めた。
 全身を洗い終えて湯船に二人で浸かっていると、光理ちゃんがポツリポツリと言葉をこぼし始めた。私はずっと黙って聞いていた。
「おかあさんにはずっと生きていてほしい。」
「光理は、生きていても、おかあさんみたいにはなれないから。」
「おかあさんみたいになりたいけど。」
「おかあさんの本は読んだことあって。」
「図書の先生も、いい作品だって言ってたよ。亡くなったことは残念だけど光理さんはお母さんを誇りに思ってね、って言ってた。」
「おかあさんは死んじゃダメだったと思う。」
「だからやっぱり光理が産まれなければよかったんだと思う。」
「おかあさんがいないのも寂しいけど、おかあさんの名前を聞くと悲しくなる。」
「光理のせいだからって。」
私は唐突に、「悪童日記」の続編の「ふたりの証拠」で自ら死を選んだ小さい子供の事や、「オイディプス王」の事を思い出した。環境や運だけでなく、本人の性格や賢さも相まって、生きにくい人生を歩まざるを得なくなり、自滅の道を進むしかない生涯もこの世界には存在する。いっそ生まれなければ。そう思いながら生きる人生、どれほど苦しいものだろう。私自身は自らの行動を後悔して、生まれなければよかった、などと思ったこともあるが、それとは根本的に異なっていて、光理ちゃんは自分の行動と関係なく、そもそもの自分の原点を否定しているのだ。この話の着地点は、せいぜい「お母さんが亡くなったのは赤ちゃんだった自分にはどうしようもできないことで、その死は誰かにとっての損失だけれど、自分はそれとは関係なく生きていくしかない」という考えに落ち着かせることくらいしか私には思いつかない。それだって飲み込めなければどうしようもない。もし心から、光理ちゃんが自分は産まれず母親が生きていることを望むなら、それを叶えてあげるのも一つの優しさなのかもしれないと思い始めていた。
 もし私が光理ちゃんだったら、自分のせいで母親が死に、母を愛していた人や、母の作品を支持している人から母の死を偲ばれることこそが、そのまま自分の存在を否定されているように感じられ、それがどんなに辛くとも母が身を挺して産んだ命を自ら断つのも憚られ、せめて母のようになり自分の存在を認めてもらえるように勉強し、自分に出来ることをやり、大人になった時に大成するのを目標に生きていく人生は耐え難い。正直、考え方を変えるか、人生を投げ捨てるかの二択しかない。それに本来ならこんなこと六歳が抱えるような問題じゃない。囚われている物から、解放してあげたい。
「もし、おかあさんが死ななくて、一緒に生きているとしたら、光理ちゃんは何も悲しくない。」
「うん。幸せだったと思う。でも、おかあさんはもう光理のこと産んじゃだめだよ。」
私を真っ直ぐに見つめる目には、私が人生の中でしてきた決意を纏め合わせても劣ってしまうほど、確固たる信念が籠った光と強さがあった。
 「お風呂、長かったね。」
私たちがお風呂から出るころには、光一は、私が作りっぱなしで放置していたキッチンも、三人で食べ散らかした食卓も、全て綺麗に元通りにしてくれていた。
 「ありがとう。」
私はお礼を言って、光理ちゃんと寝室に向かった。光理ちゃんはいつも九時には寝ると聞いて、慌てて寝かしつけに行った。寝室といっても、クイーンサイズのベッドが一つと私たちの服がかかったハンガーラックがぎゅうぎゅうに並んでいる部屋だ。その部屋を見ても光理ちゃんは特に驚かなかったので、きっと未来のこの部屋もそんなに変わっていないのだろう。
「おかあさん。手つないで寝よう。」
光理ちゃんは言うが早いか、小さい手でしっかり私の手を握りしめ、「おやすみ。」といって眠ってしまった。相当疲れていたのだろう。それはそうか、と思いながら、私は光理ちゃんの寝顔を眺めた。十分くらい経ってから、私はそっと手を解き光一と話に向かった。
 「明日、土曜日だから光理ちゃんと何処かにお出かけしようと思っているんだけど、どうかな。」
「いいんじゃない。光理ちゃんの行きたい場所に行って来たら。僕はちょっとやることあるから、明日一日で終わらせて、日曜日に遊園地とか行けるように調整するよ。」
「うん。そうしようかな。ありがとう。」
「光理ちゃん、賢くていい子だね。ただ未来の僕のせいとは言え、申し訳なくなってくる。」
「多分だけど、未来の光一がしっかりしてないんじゃなくて、光理ちゃん自身の受け取り方というか自責の念が強めの子だから、辛くなっちゃったんだろうね。」
「そうかもしれないね。あと、ミツリちゃんって名前にしたんだなって思った。未来の僕は理花の意見を優先したんだな。」
「あぁ、そうね、それは私も思った。」
二人で顔を見合わせて笑った後、光一が真面目な顔をして口を開いた。
「奥さんが死ぬと分かってて、子供を産んでほしいと思う男は存在するんかな。」
私は、その時になって、今の光一の感情を全く気にかけていなかったことに気が付いた。私自身が死ぬことと、タイムスリップしてきた光理ちゃんの気持ちにだけ関心が向いていた。
「これは別に光理ちゃんの存在を否定しているわけじゃなくて、単純に、一般的に、普通の人はどうするんだろうねって話。」
私は「流石に死ぬと分かっていたら、妊娠させないよね」という言葉を飲み込んだ。
「それは難しいよね。私たちは、その時産まれる子供に会ってしまったわけだし。もう既に一般論では片づけられないから。」
「僕は、死んでほしくないなぁ。」
「光理ちゃんは。」
「光理ちゃんは優秀な子だと思う。将来が楽しみだとも思う。きっと素敵な女性になるだろうとは思う。けれど、あの子だってとても生き辛そうじゃないか。あの子は自分が産まれるより、理花に生きていてほしいって本心で思っているんだ。僕だって正直そう思う。」
「でも。」
「でも、じゃなくて冷静に考えてほしい。多分未来の僕たちは、未来から来た光理ちゃんに会っていて、その上で、光理ちゃんが産まれる方を選んだのだと思う。未来の僕はきっと、もしかしたら僕自身が臨月の君から目を離さずにいたら、君も子供も両方が生きている世界に変えられるかもしれないと考えて行動していたと思う。僕がそうしないはずがない。それでも無理だったということは、未来の僕はきっと君を救えなかったことをきっとずっと悔やんで苦しんでいる。勿論、これは理花の本望だったと言い聞かせているかもしれない。けれどここで、光理ちゃんが産まれない方を選択したら、理花が死ぬことはない。光理ちゃんみたいな素敵な子がこんな苦しい人生を生きなければならないのも、どうかと思う。」
「……三人で、生きていける未来があればいいのに。」
私がそう呟くと、光一が静かに返してきた。
「多分僕たちの事だから、すでに試してきたと思うよ。」
沈黙に耐えかねて、光一が言葉をつづけた。
「未来から来た光理ちゃんの意見を最優先に考えるべきだと思う。彼女がその未来の問題の一番の当事者だ。」

 翌朝、光理ちゃんに喜んでもらいたくて、朝食には卵焼きを用意した。薄く輪切りした茄子のお味噌汁と、家には炊飯器が無いので、鍋で炊いたご飯をよそって、冷蔵庫に二個だけ残っていた納豆のパックを、光一と光理ちゃんの席の所に置いた。
 それから光理ちゃんには申し訳なかったけど、一旦昨日着ていた服を着てもらって、新しい光理ちゃん用のお洋服を買いに出かけた。とりあえずの普段着数点と、寝巻と、明日遊園地に行く時の余所行きのお洒落なワンピースを選んだ。そして親子コーデというポップの付いた親子でおそろいのワンピースを着ているマネキンの前を通りかかったとき、光理ちゃんの目が吸い寄せられているのが分かったのでそれも買った。レジで店員さんに、その中の親子コーデワンピは着て帰る旨を伝え、試着室を借りた。その洋服店では、光理ちゃんの好きな色は水色で、好きな柄は雲柄だと判明した。私は雲柄なんて今まで意識したことはなかったが、未来の子供服では割とメジャーな柄なのかもしれないと勝手に納得してしまった。
 新品のお揃いの洋服に身を包んだ後は二人でクレープを食べに行った。光理ちゃんによると未来では空前のタピオカブームが到来しているらしい。クレープ屋さんと併設されているタピオカ屋さんを見て、光理ちゃんがタピオカはこの時代からあったのかと驚いていた。それからゲームセンターに行ってプリクラをとってみたり、小腹がすいたらカフェに入ったり、本屋さんに行ったりと、小学生の頃の自分を思い出しながら、街を歩いた。街そのものは、光理ちゃんも育ってきた場所であるため、驚くことの大半は、こんな昔からこの建物があったのかという内容に集約されていた。滞在時間自体は、やはり本屋さんが一番長かった。私はその本屋で「デミアン」の母親、エヴァ夫人のような母親になりたいと思っていたことを思い出した。
「ねぇねぇ、おかあさんのおすすめの本が読みたい。」
「おすすめねぇ、沢山あるけれど、はてしない物語は読んだことある。ミヒャエル・エンデの。」
「あるよ。モモも読んだ。」
私は今隣にいるこの子が、既に、あの分厚い本を読了しているという発言に驚きを覚えた。
「そうなんだ。そしたらアルケミストはどうかな。パウロ・コエーリョの。」
「読んでみる。」
読み切ることと、理解することは別とはいえ、大して本に触れず大人になる者も多くいるというのに。昨日聞いた「小学校六年生の漢字まで書けるし読める、偶に間違えちゃうけれど。」という光理ちゃんの言葉も決して疑っていた訳ではないが、紛れもない事実なのだろう。私が子供を産まない選択をするということは、この子の積み上げた努力や頑張りを無かったことにしてしまうことと同義だ。そんなことが許されるとでも言うのだろうか。それに私が子供を産まない選択をするということは、光一の遺伝子も、私の遺伝子も残せないということだ。これが親馬鹿というものなのかもしれないが、これだけ将来有望な子供を前にして、その存在を抹消するという選択なんて出来るか。私は大した人間ではないが、光一は。光一の血は世界が滅ぶその時まで残っていてほしい。でも光一の遺伝子を残したいだけなら、私と光一が別れて、勿論想像するだけでも嫌だけれど、光一が別の女の人と結ばれれば良いのだ。それでは、光理ちゃんの「お父さんとお母さんが二人で幸せに暮らしてほしい」という願いは叶えられないか。やはり、私は何の選択もしたくない。これは私のエゴだろうか。
 光理ちゃんは、文庫版のアルケミストを昨日のケーキのように大事そうに片手で胸の前で抱えて、もう片方の手は私と繋いで、家に帰った。その日の夕飯はカレーになった。昨日の買い出し中に、光理ちゃんからカレーが食べたいと言われていたから。私は家で食べるカレーは甘口で豚肉が使われているのが好きだ。家庭ではホッとする味つけがいい。辛いカレーや、ビーフやチキンカレーなどは、ちょっとオシャレな洋食屋さんか、インドカレー屋さんで食べるに限る。この意見には、光一だけでなく光理ちゃんも賛同してくれた。
「いつも同じこと、お父さん言ってるよ。お家カレーは甘口に限るって。」
私たちは顔を見合わせて笑った。昨日の残りのケーキも一人一ピースずつ平らげた。
 明日、遊園地に行く予定を伝えると、光理ちゃんは、昨日とは違って一人でお風呂に入り、洗濯、乾燥まで済ませた新しいパジャマを着て、そそくさと寝室に向かった。「早く寝て、明日に備える。」だそうだ。計画的な子供だなと率直に思った。
 私と光一は、遊園地に行くまでと到着してからの段取りをして、明日の外出中は将来の事を考えないようにすると約束を交わした。明日は光理ちゃんを飛び切りの笑顔にしてあげたい。
 日曜日の朝、私は光理ちゃんの髪の毛を二本の三つ編みにしてあげた。自分の髪の毛は一本の三つ編みにした。光理ちゃんは昨日買ったお腹のあたりに大きな雲の刺繡がほどこされた水色のワンピースを着て、私は長袖で丸襟の紺の胸元切り替えの薄地のワンピースを着た。光一はいつも通りのシャツにいつも通りのスキニー姿。真ん中に光理ちゃん、左右に私と彼、三人で手を繋いで駅まで向かい、三人で並んで座席に座り、三人で遊園地のエントランス前の行列に並んだ。
コーヒーカップやメリーゴーラウンドや名前の分からない色々な遊具に乗った。ランチの時間にはちょっと割高な園内のレストランでピザを食べた。光理ちゃんは最後に観覧車に乗りたがった。観覧車の列に並んでいると、光理ちゃんが口を開いた。
「明日から、また学校行かないといけないの嫌だな。ずっとお父さんとお母さんと遊んでいたいのに。」
その発言で、私は、多分光一も、教育の義務という単語が思い出された。
「そうだね、私も光理ちゃんとずっと遊んでいたいな。」
口ではそう返したものの、光一と顔を見合わせて困ってしまった。きっと光理ちゃんが明日小学校に行っても、光理ちゃんの席はない。きっと明後日も明々後日もだ。そういう手続きはどうやったらいいのだろう。今の光理ちゃんには戸籍もない。
「まぁ、後で考えよう。」
光一が静かに私にだけ聞こえるように言ったので、私も一旦忘れることにした。
「観覧車って思ったより怖い。」
下を見ながら光理ちゃんが呟いた。日が沈むにはまだ早い時間だが、遠くの方では色が変わり始めた空は綺麗だった。
「光理ちゃん、下じゃなくて、遠くの空を見てごらん。」
「わぁ。」
雲柄が好きと言っていた光理ちゃんの目には、きっとこの空も素敵に映っているだろう。私はこの二日間でだいぶ光理ちゃんが元気になっていくのを感じ取っていたので、光理ちゃんはこのまま未来で生きていれば、いつか素敵な人に出会って生まれてきて良かったと心から思える日が来るのではないかという気がした。人の力で元気になるなら、仮にそれが母親ではなくても、同じくらいの愛をお互いに持っている相手に出会えれば、それまで抱えていた苦しみからも解き放たれて、色んなことが幸せへと結びついていくのではないだろうか。これは楽観的過ぎるだろうか。
「楽しかったー。」
光理ちゃんは観覧車から降りた途端に、そう言って私に笑顔を向けてくれた。
「そう思ってもらえて、良かった。」
本当に良かった。
 私たち三人は来た時と同じ路線の電車に乗った。光理ちゃんは眠ってしまったので、光一が抱っこして駅から家までの道のりを歩いた。家につき、光一はとりあえずといった感じで、ソファに光理ちゃんを寝かせた。
「理花は明日ってリモートワークだっけ。」
「そうだよ。」
「明日はとりあえず学校休ませたらどうかな」
「それ、私も悩んでた。」
「光理は学校休まないよ。さっきは行きたくないって言っちゃったけど。」
光理ちゃんはいつの間にか起きていた。
「明日も学校あるもん。皆勤賞目指してるし。」
「そっか、それは休めないね。」
説得は難しそうだったので、私が光理ちゃんを、学校まで見送ることにした。トラブル起こることは確定しているようなものなので、何があっても対応出来るように準備して行かなければならない。
「おかあさん、おとうさんも。三日間とっても楽しかった。ありがとう。でもね、やっぱり、お父さんとお母さんが二人で幸せに生きていくのが嬉しいから、光理のことは産まないでね。」
そう言うと、光理ちゃんは力尽きたように、水色のワンピースを着たままお風呂にも入らず寝てしまった。
 約三時間後、すっきりした顔で目を覚ました光理ちゃんは、「喉乾いた。お腹空いた。背中がかゆいからお風呂入りたい。」と自分の欲求を並べ立てたので、冷蔵庫の中で冷やされていた紅茶と、昨日の残りのカレーをホットサンドにして、食卓に並べてあげた。
「やっぱり、おいしいね。おとうさんのより。」
いたずらっ子のような茶目っ気のある喋り方がおかしくて、私は笑いながら返した。
「そう。おいしいならよかった。ありがとう。」
食べ終えると、真っ直ぐにお風呂に向かった。光理ちゃんが一人で、浴槽の縁にある例のマスコットでおままごとをしているような、兎に角遊んでいるような音が聞こえた。だいぶ緊張も解けて、未来での普段の暮らしに近い行動をとっているのかと、安心した。
 私は金曜日に疎かにしてしまっていた仕事が心配になったので、パソコンを開いて、やるべきことをした。カレンダーを開いたときに、ふと、来週の休日は何をして過ごそうかという考えが浮かんだ。楽しみが増えたことが嬉しかった。
 お風呂から上がった光理ちゃんが一緒に寝たいというので、私は急いでシャワーだけ浴びた。清潔な体になってからでないと、ベッドには入らないというのが我が家のルールなのだ。ベッドに横になると、光理ちゃんが言った。
「おかあさん。光理のこと産んじゃ駄目だからね。」
何回も聞いた、念を押すようなその言葉に私はいまだになんて返せばいいのか分からない。
「もし産んだらどうするの。」
「怒る。」
「怒るの。どうして。」
「言うこと聞いてくれなかったから。」
「光理ちゃんはどうしても産まれたくないの。」
「そう。」
「そっか。」
「産まれたくないし、もう生きていたくないの。」
「光理ちゃんは生きるのが辛いの。」
「そう、つらいの。かんがえるのもつらい。」
「生きていて楽しいこととか、何もなかったの。」
「そんなことはないよ。でも……。一番はお母さんが死なないのがいい。」
「そっかぁ。」
「サンタさんにもお願いしてるんだよ、お母さんが生き返りますようにって。でもダメだったから、七夕にはお母さんがいてほしいって書いたの。」
「そっか。うん。わかった。光理ちゃんのお願いをちゃんと叶えるよ。」
光理ちゃんは単に寂しいから母親の存在を求めているわけではなくて、母親の命が絶えないことを何よりも求めていることが、私にはもう分かってしまった。「産まないでほしい」という娘の一番の願いを叶えてあげることが、私の出来る唯一の母親らしいことという事実に胸が締め付けられてしまった。それでもここで私が決意しなければ、未来では光理ちゃんも光一も苦しんでいるということが分かっているので、覚悟を決めるより他になかった。

 翌朝、今日も今日とて卵焼きを作り、合わないけれど蜂蜜とバターのトーストとブルーベリー入りのヨーグルトを用意した。光理ちゃんは今日も新品のお洋服が着れて嬉しいと言いながら着替え、忘れ物が無いようにしっかりと荷物を確認し、ランドセルを背負って行ってきますと言った。
「待って、私が学校まで送っていくよ。」
「そうだった、忘れてた。」
光理ちゃんは一緒に登校することを嬉しそうにしていてくれたので良かった。しばらく歩いて、校門が視界に入るところまで来ると急に「ここまででいいよ。いってきます。」といって光理ちゃんは駆け出してしまった。私は何故か追いかけ出せず、その背中を見続けていた。校門を跨ぐ瞬間に光理ちゃんの姿が忽然と消えてしまった。見間違えでなければ、私はきっと、タイムスリップの起こる瞬間を見てしまったのだと思う。私は不安な気持ちを抑えながら、家に帰り、小学生が下校する時間になるのを仕事をしつつ首を長くして待っていた。
 しかし、光理ちゃんがその日以降、私たちの家に帰ってくることはなかった。
 「実は今年の七夕の短冊に、理花が僕より長生きしますようにって書いたんだよね。」
その日の夜に光一がそう明かした。光一と光理ちゃん、二人の願いが起こした奇跡だったのかと思った。

 それから4年後のある日、私の中に光理ちゃんの命が宿ったことが発覚した。光理ちゃんと出会う前から私は体調管理目的で低用量ピルを服用していた。光理ちゃんが未来に戻ってから、光一が完璧な避妊をすると宣言しだして、そういう行為を一切しないと決め、ゴムがあると甘えが出るからと言って全て捨ててしまった。私はピルを飲み続けてはいたが、数か月前にどうしても……という気持ちにお互いがなってしまった朝があり、多分私はこれで妊娠するのだと確信めいたものをその時に感じていた。あの朝は光一も同じ考えだったと思う。そんなだったから、妊娠していたことは何も驚かなかった。低用量ピルを服用している女性が一年間毎月性行為をしていたとしても、三百人に一人しか妊娠しないというくらいの低確率。まして、ここ四年間一回しかしてないのに妊娠するなんて、これは初めから決まっていたことで、そこから中絶するまでの流れが一つのけじめなのだろうと悟っていた。そもそも妊娠しなければ、光理ちゃんが未来から会いに来ることはできなかったのだろうとも思う。ただ、これで中絶してしまったら、光理ちゃんの存在が完全に消え、私たちが光理ちゃんと過ごした記憶も消滅してしまうのではないかという考えが怖かった。光理ちゃんのために買った服や子供用の食器は、一つの箱にまとめて、光理ちゃんBOXと書いて保管していた。もし中絶したら、世界の流れが変わって、その箱も消失してしまうのだろうか。
 その日はすぐにやってきた。光一の付き添いのもと、私たちはタクシーで病院に向かい、中絶手術を受けにいった。駐車場に着いた瞬間、私は途轍もなく逃げ出したい気持ちに襲われた。おろしたくない。
「無理にしなくてもいいよ。」
私の感情の変化を察した光一が優しい声色で言ってくれた。その一言で私は落ち着きを取り戻し、こう返した。
「いや、行かなきゃ。」
崩れかけた決意を固めなおし、私たちは歩き始めた。この一歩一歩が光理ちゃんとの本当の別れに繋がっている気がして足取りがとても重かった。

 何十年も引っ越していない我が家には私が小説を書くために使用した色んなものが溢れている。変な形状の虎柄のカバンだったり、弾けもしない楽器だったり、ヨーロピアンなアンティークの鏡だったり、子供用の服や食器なんかもあったりして、私の記憶も朧気になっているものもあるが、その時書いていた物語の登場人物の名前を箱に書き残していることが多い。中でも、光理ちゃんBOXと書かれている箱は開くととても切なく懐かしい気持ちになる。他のどの箱と比べても、この箱に関する記憶が最も薄れている気がするが、忘れてしまったことは仕方ない。なんとなく目についた服の、雲の刺繍がほどこされた部分を指でなぞって、また箱に戻した。夫が私を呼ぶ声がした。そろそろ三時になるから、お茶の時間だと声をかけてくれたのだろう。私は毎日十五時に飲む、淡い青い色をした紅茶が好きだ。一日のうちで一番幸せな気持ちに浸れる時間。
 私たち夫婦に子供はいない。何十年も前に私が流産してしまったからだ。そうでなかったら私の命が危なかったかもしれないから、これでよかったのだと周りの人は励ましてくれた記憶がある。正直その頃のことは、私も夫も記憶が朧気で、話題に上ることもない。ただ昔、結婚もする前で夫も学生だった頃、とっくの昔に縁の切れた友人の子供だったか、遠い親戚の子供だったか詳しくは覚えていないが、光一の知り合いの子供を数日預かったことがあって、子供と過ごす時間は良いものだったというのが二人の共通の見解だ。もし私たちに子供がいたら、夫は良い父親になっただろうな。勿論今の生活も十分すぎるくらい幸せだから。それ以上、私には求められない。

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