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【死生観と人生観】生き方の話

私の死にたいに、真面目に応えてくれた3人がいました。
「もし本当に辛くて死にたいならそれは仕方ないけれど、ウチは君に死なれたらいやだな」

「死後の事は分からないし、そこに自ら飛び込むのはリスクしかない。生きている方がマシという可能性に賭けて生きてみれば。自死はリスクだよ」

「君が死にたいのは君が中途半端だからだ。頭も努力も何もかも。そんな穢れた希死があってたまるか。君が死ねないのは君自身に投資しすぎて自殺するには勿体ないと思っているからだ。それならもっと賢くなるしかないよ」

私が死にたいという感情から解放されたのは三人目の言葉だったのですが、その人と出会えた時にこの言葉を受け入れられる程度の賢明さを持ち合わせていられて良かったなと心底思います。螺旋的な親友と要領の良いセンセイと未熟な1.5流の天才の、通学路で、カフェで、それから机の下で、各々が私にくれた言葉でした。

仮に死んだとして、全てが無に帰すなり、地獄に落ちるなり別の世界に行くなら良いが、実際に輪廻転生、生まれ変わってこの生き辛い世界に戻ってきてしまうとしたら、私の事だからきっとその生も死にたいに囚われてしまうと思う。ちなみに死んでから生まれ変わるまでの平均期間は4年と5か月らしい。死んでから生まれ変わるまでの間に世界が変化するのを期待するのは弱すぎる。それならば今生のうちに、生まれ変わった自分が今より楽に生きていける世界を用意した方がいい。次の生で今より賢くなれる保証もない。不用意な自死は時間損失以上の取り返しのつかない事態になる可能性がある。その機会損失にすら気付けないだろう。この先何度生まれ変わっても毎回死にたいに陥る人生しか歩めない可能性も、既にその輪の中に閉じ込められている可能性すらもある。私が生きやすく生きられる世界を作って死ぬ。これがセンセイの言葉から私の決めた死期だ。
少し昔の話をする。十六歳くらいの頃、街を作れたらいいと思っていた。温かい料理と衣服と寝床が沢山用意されている街を。人間、居場所があれば生きられる。天災であれ人災であれ被災は被災。なにかしらあって死にたくなっているのだから、精神的なものだってそれはもう被災者でいいじゃないか。被災者救済の何が悪い。誰かの居場所はいつかの私の居場所になる。そういう場所を誰も必要としないなら、私の異常さが証明されるだけだ。それならそれで別の道を探せばいい。お金と土地さえあればあとはどうにでもなる。そう思って色々調べて試算してみた結果、一人で用意するのは不可能な額。まだ働いたこともない当時の私は、家を出たら風俗嬢にでもなってどのくらい稼げるか試せばいいやと問題を先延ばしにした。
私が生きやすい世界、私が辛い思いをしなくて済む世界。子供の頃は他人を嫌いになる自分を受け入れられず自己嫌悪。自分の理想の自分でないと全てが嫌になるような人間が生きやすい訳がない。なりたい自分になれますように。そうやって生きていた。
せめて次の私が悩んだ時、今の私の生きやすさくらいは与えたい。その為に必要な、生き辛さを解消してくれる手掛かりや答えが世界のどこかに存在するように、何かを残すまでは死なない方が得策だと信じて生きている。もっと賢くなりたい。
老後なんかより、来世。正直、今生の未来の私は何かあってもどうにかするだろうと思えるが、生まれ変わった先の私の事は分からない。私は私のための本を書いて、私は私にその本を読ませることが出来れば、何があっても大丈夫だろうと思えるところまでもって行きたい。それくらいしか今の私に出来ないというのが正しいか。兎に角それが私の生きている理由であり、私の生き方の答えである。


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