「珠名の森のねむり姫」 第十章(9)
翌日、詩穂の家で待っていると、介護スタッフの方が二名やってきた。
以前からお世話になっていた会社らしく、詩穂に関する情報も十分に共有されていた。
日常的な介護は家族で行うこと、スタッフは週に二回訪問すること、また定期的に医師が訪問で診断を行い、診断結果によって方針が変更される可能性があることが確認された。
僕の両親にも状況を説明した。顔を合わせ言葉を交わした相手が倒れたということで、二人は少なからずショックを受けていた。
平日は帰りに顔を出し、土曜日は日中から詩穂の家に向かった。
「そんなに一生懸命だと体を壊しますよ。しっかり休んでください」
洋子さんは、むしろ僕を心配していた。
「明日は休ませてもらいます。ただ、僕にもできることはないかと思って」
「そうね。まずは見取り稽古かしら」
「はい」
すると、二階から良治さんが降りてきて、「これでいいか?」とラミネートされたシートを持ってきた。
受け取った洋子さんが一分ほど確認して、「うん、大丈夫」と言った。
「それはなんですか?」
「日々やることのチェックシート。こうしておけばし忘れることもないでしょ」
見せてもらった。食事、運動、トイレ、お風呂などの項目があり、隣に四角いマスが書いてある。
「ペンでチェックして、一日終わったら消す」
「すごいですね」
持ってきた良治さんに向けて言うと、「私はラミネートしただけだ。シートは洋子が作った」と言った。
このシートは僕にとってもありがたかった。基本的な作業が網羅されているので、全体像が把握しやすい。
日曜日は自宅で休み、翌週は、夜勤明けの朝か、出勤前の夕方に詩穂の家に寄った。そうすると、一日の流れもだんだんと分かってきた。
僕が最初に任されたのは、「運動」だった。ベッドを起こし、体を支えながら地面に足をつけると、詩穂は自分で立ち上がることができる。そのまま両手を軽く引くようにすると、自然と歩き出す。そうやって三十分くらいリビングをぐるぐると回る。幼児が歩くようなゆっくりとしたペースだが、体幹はしっかりしているので、倒れそうな危うさは感じない。それでも、万が一のことを考えて手は離さない。洋子さんや良治さんは、この作業をラジオや音楽を聴きながら行うらしい。
歩き終えると、ベッドに寝かせる。注意が必要なのはこの時だ。ベッドまで詩穂を誘導し手を触れさせる。そうすると、自然に布団に体を横たえようとするのだが、体のバランスを崩しやすいので、支えていなければならない。最初の数回は、緊張して力が入ってしまい、詩穂の体を揺らしてしまった。あくまでそっと支えるという力加減が大事だった。
三週間ほどの見取り稽古の後、スタッフさんから「水を飲ませる作業、やってみますか?」と提案された。
ベッドを動かし上半身を起こす。ストローを差したコップを近づけていく。中には水が少量入っている。
洋子さんたちが水を飲ませるのを何度も見ている。詩穂からも問題が起きたことはないと説明を受けている。それでも、意識のない人へ液体を飲ませようとすることに、本能的恐怖感がせりあがってくる。
ストローが唇に当たると、詩穂はそれをパクっと咥えた。ほほを軽くすぼめ口の中に含むと、詩穂は水を嚥下した。
完全に飲んだことを確認してストローを持ちながらコップを引くと、詩穂の口からストローがすっと離れた。
チェックシートにペンで線を入れて作業完了となる。これを一日五回程度行う。水分摂取の目的もあるが、口の中の乾燥を和らげるためでもある。
「うん、よくできました」
と、洋子さんが言った。
これは最初の一回だ、と僕は思った。毎日お世話をしないと、詩穂は死んでしまう。僕にできることを増やして、詩穂と生きていく。
水を危なげなくあげられるようになったら、次は一日一回の食事用のゼリーを飲ませる作業を練習した。
スパウトパウチに入れられた透明な液体で、歯に悪くないように成分が調節され、味付けは一切なされていない。余ったものを少しなめさせてもらったが、無味なはずなのに何かツンとくる感じがして、こんなものを毎日飲まされる詩穂は大変だと思った。
詩穂の口にチューブをつけると、詩穂はやはりパクっと咥え、ごくごくと飲んでいく。一度嚥下すると容器を離し、呼吸が落ち着いたところでまた飲ませる。これを数回繰り返すと食事が終わる。
食事の後は歯磨きだ。フッ素配合のジェルをつけた歯ブラシで行う。唇を手で広げ、まずは歯の表面を磨く。この時に歯ブラシで詩穂の口の中をいきなり磨こうとすると嚙んでしまう。表面を十分に磨くことで、今やっているのは歯磨きなのだと体に認識させる。その後で、口を開け、中を磨いていく。あまり長くやるとむせてしまうので、短時間で行う。基本的に口を閉じて眠っているのと、水分摂取などのケアのおかげで、この数年は詩穂の口腔の状態は良好らしい。
僕が担当できることが増えてくると、洋子さんは頻繁に外出するようになった。ほんの三十分でも散歩に出かけるし、数時間僕が見ていると、ジムに行ったりランチに出かけたりする。
「前橋君がいなかったら、自宅で看ることに踏み切れなかったと思う」
と洋子さんが言った。
「お役に立てて何よりです」
「詩穂のお世話もそうだけど、仕事辞めてあの人と四六時中顔合わせているのも耐えられないわ」
「そうなんですか。仲良さそうなのに」
「別に仲悪くないわよ。でも、ずっと一緒にいると気づまりなのよ。あの人が今日出かけているのもきっとそう」
「はぁー、そうなんですね」
「そりゃそうよ。前橋君もまだまだ甘いね」
そう言って洋子さんが笑った。こうして笑っているのをみると、確かに詩穂と洋子さんは似ていた。
「じゃ、ランチ行ってきます」
と言って洋子さんが立ち上がった。
詩穂と二人きりになると、音が絶えたように感じる。静かな空間に、詩穂の寝息が聞こえてきそうだ。
僕は詩穂の手を握った。温かいが握り返してくることはない。
「本当は、今日あたりから新婚旅行に行こうと思っていたんだ」
詩穂の胸が静かに上下している。
「修学旅行。確かに僕らは一緒に回ったんだよ」
僕は、詩穂に向けて語り掛ける。
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