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夫が出て行った夜

 夫が出ていったその夜、わたしは全く眠れなかった。
 さっきまで普通だと思っていたのに、布団に横になると自分がどろりと溶けて地球の奥の方に吸い込まれていくような嫌な気持ちがして、目を閉じることができない。
 明日、いや数日後に何もなかったかのように帰ってくるかもしれない。
 でも、それにしては荷物をまとめたのがやけに念入りすぎる。自分で買った食器、わたしがあげたプレゼント、歯ブラシ、歯医者の診察券もなかった。もう帰って来ないつもりだ。
 彼は今どんな気持ちなのだろう。好きな人がいるんだろうか。ずっと前から、用意していたのだろうか。
 眠ろうと思って目を閉じてもなお、思考がぐるぐる回って鼓動が早くなる。
 深夜2時半、自分を抑えつけられず、こんなラインを送った。

「やっぱり夜は眠れません。あなたはスッキリ、ぐっすりでしょうか。
 あなたへの感謝がなく、ごめんなさい。
 さみしい結婚生活でごめんなさい。あなたがわたしにビクビクし、居心地悪いことはわかっていました。
 わたしもさみしく孤独な結婚生活でした。お正月、一緒に公園まで歩きましたね。一緒に歩いている時間、あなたが何を考え、何を見ているかわからなかった。怖かった。
 栃木に二人で行った時も、あなたが楽しいのか、苦痛なのかわからなかった。
 わたしは楽しかったです。孤独だったけど。
 子供が将来独立したら、こうやって時々デートできるかと、想像していました。
 でも、今、あなたはもういなくて、あなたの固い決意だけを感じ、受け入れています。
 怒っていません。感謝だけです。
 あなたが、わたしとの18年もの結婚生活を通じて、あなたの気持ちで、はじめて決めたことだから、尊重します。
 わたしの天邪鬼な性格は、わたしを一生苦しめると思うけど、今は夜で、あなたはもういないので、素直にありがとうと愛を伝えます。おやすみなさい。良い夢を。」
 来ないだろうと思っていた返事は、翌日、昼前にきた。

 後悔と絶望、子供を苦しませた反省が短く綴られていた。
 それから一ヶ月、彼は会社のそばのシェアハウスにいて、週末彼は子供とわたしに会った。シェアハウスを出る一ヶ月後以降のことを聞くと、『家に帰れば全てが良くなるなんて、想像もつかない。また絶望してしまうのではないか。
 一つの解決策として、離婚はせず、小さなアパートを借りて平日は別居、週末は家に帰るというのはどうですか?今は無駄なお金を使っても、私たちが変わる時間ができるし、またゆっくり一緒に暮らせるようになるかもしれない』とラインが来た。東京の会社のそばに暮らすのかと思ったら、私たちの家のすぐそばにアパートを借りるようだ。
 わたしは動揺していた。黙って出て行った彼を週末だけ、にこやかに受け入れられるだろうか。彼は帰ってくるのだろうか。
 そもそも、わたしは彼に帰ってきて欲しいのだろうか。
 

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