『スポンジ人種』とクリスマス

早速だが、上記のnoteを読んでいただいただろうか。
こちらのnoteにおいては私は主に『Varg Vikernes氏』について語った。
そして彼について語る際に、『日本人』と『思想』という観点を引っ張り出してきたのであるが、今回のnoteにおいても日本人と思想という観点から話していく。

1:クリスマスと『あの人物』

季節は今、クリスマスである。
やや年末年始の色も感じるが、クリスマスがメインとなっているだろう。

冒頭において載せたnoteでも指摘したのであるが、クリスマスというものは本来は日本由来の行事ではない
それなのにもかかわらず、日本人はクリスマスを毎年楽しんでいる。

日本人がこのように異文化の行事を安易に受け入れるという傾向とその理由については冒頭に載せたnoteにおいて述べたので、その点に関してはそのnoteを読んでいただきたい。そして、今回はクリスマスという行事を題材にしてその傾向を詳しく掘り下げていく。

まず、クリスマスというものの正体を確認しておく。
クリスマスというものは、イエス・キリストの誕生を祝う行事である。
ちなみにイエス・キリストという名称についてだが、簡単にいうと「救世主イエス」という意味となる。この名称に関しては以下のサイトを参考にしたのでURLを貼る。

以下のサイトによれば、
イエス=人の名前
キリスト=救世主という称号

ということとなるようだ。
日本人で例えると、
イエス=太郎
キリスト=救世主となる。
つまり、イエス・キリスト=太郎・救世主
ということだ。

ちなみにこの「救世主」というものに関して詳細に話すとなると、かなり宗教的な側面からの説明となるため、興味のある方は個人的に調べてみてほしい。

そしてこのnoteを記す上でまず明確にしておかなければならないのが、イエス・キリストの呼び方についてである。
イエス・キリストというと、特に日本人からすれば「キリスト」という呼称が一般的だろう。例えばよくあるのが髪の毛が長くて髭の生えた男性を見た時に「キリストみたい笑」という発言をするというものである。
私はかねてよりこういった風貌の男性を見かけた者が「イエスみたい笑」と表現する場面に遭遇したことがない。誰も彼も「キリストみたい笑」と言うのである。
ここでもう既に日本人とキリスト教の「関わり方」というものが明白になっていることがわかるだろう。
そう、先程も述べたようにキリストとは称号を指し、イエスとは名前を指すのであるから「キリストみたい笑」という発言は、ややおかしいのである。

ややおかしいという表現に留まる理由を説明する。
例えば、ピエロの代表格のような存在がいたとする。そして、その人物はジョンという名前だったする。要するに、ジョン・ピエロとでも呼ぶべき存在である。
そして、あるところにそのジョン・ピエロに似た風貌の男性がいたとする。
その男性に対してとある人間が「ピエロみたい笑」と発言したとする。確かにこの発言は「間違いではない」のである。
当然ながら、ピエロみたいな見た目の者に対してただ単に「ピエロみたい」だと言うのは嘘ではないのだから。
その一方で、「ジョンみたい」という発言をすることも正しい。要するに、そのジョン・ピエロはピエロの代表格のような存在なのであるから、最早「ジョンみたい」という発言は「ピエロみたい」という発言を意味する

このことをイエス・キリストという名称に置き換えるとすれば、イエスという呼称はキリスト教という宗教に関わる存在の代表格であるということを示すことが可能である。
そして、イエスという呼称は他の何者でもなく「キリスト教の代表者」を表すという理論となる。
ただ、この「イエスという呼称はキリスト教の代表者を表す」という論理についてだが、これは日本人特有の思想かもしれない。
今回のnoteの主題を考えると、筆者の自虐とも捉えられる発言にはなるのだが、
「イエスという名前自体が西洋などにおいてどれほどの割合でキリスト教を連想させるのか」ということに関しては筆者からすれば未知である。
そのため、今回のnoteにおいて日本人とキリスト教の関わりを批判的な目で観察しようとしている筆者がこういった未知の概念を元に理論を展開するのは本来であれば恥ずべきことではあるのだが、noteというカジュアルな場であることに免じてお許しをいただきたい。

クリスマスというテーマについて論ずるに当たって、キリスト教の代表格ともとれる人物のことを「イエス」と呼ぶのかそれとも「キリスト」と呼ぶのかということに関してはクリスマスについて語るまえにはっきりさせておきたかったという所存である。
では、日本人である私はどちらで呼ぶのかというと「イエス」と呼ぼうと決意した。

私は別に「西洋かぶれ」とかではないのだが、イエスと呼ぶことによって、
「日本人とキリスト教の関わりを批判的な目で見る観察者」としての立場がより際立つという一種の演出のようなものが可能となるからだ。
どういうことかといえば、先にも説明した通り、「イエス」というのは「個人名」であるから主に英語圏に存在するキリスト教徒にとってはイエス(様)と呼ぶ方が自然なのである。逆に、キリスト(様)と呼ぶことは不自然である。これはやはりキリストというものは称号を意味する言葉であるという事実から証明されることだ。
ジョン・ピエロの例に準えて説明するのであれば、ジョン(様)と呼ぶ方がピエロ(様)と呼ぶよりも自然だということである。
また、今回のnoteにおいてイエスという名前に「様」を付けてしまうと宗教の色や信仰の色が強くなってしまうため、敬称は省略してて呼ばせていただく。

2:仏教徒とクリスマス

さて、呼び方も定まったところでいよいよクリスマスという行事に迫っていく。

クリスマスがイエスの誕生を祝う行事であるという点は明確になったわけではあるが、勘の良い方であればもう既に「矛盾」に気が付いているだろう。冒頭に載せた私のnoteを呼んでくださった方ならその矛盾に気が付くのは朝飯前か。

そう、その矛盾とは、
仏教徒である日本人がキリスト教由来の行事であるクリスマスに食らいつくというもの」である。

日本におけるクリスマスに対しては非常に
チープな印象」を受ける。
これはなにも非リア充(リアルが充実していない人間)の思想に基づいた批判などではなく、クリスマスが本来は救世主とも呼ばれた人物の誕生を祝う行事であるという「真面目な」観点からの批判なのだ。
そしてその「チープな印象」というのはこれもやはり勘の良い方ならお気付きかもしれないが、日本のクリスマスの場合は「恋愛」に特化し過ぎなのである。
もちろん、西洋圏をはじめとした日本以外の地域においてもクリスマスと恋愛が絡むというのは一般的となってはいるが、今回のnoteにおいては日本以外の地域の傾向については敢えて掘り下げず、あくまでも日本人のクリスマスとの向き合い方に焦点を当てる。
当然ながらキリスト教という宗教を引き合いに出すのであるから、主に西洋圏の話は多少引っ張り出してくるつもりではあるものの、西洋においてクリスマスと恋愛を絡める割合はどのくらいなのかという点については詳細に記さない

今くらいの時期になれば、街中にはクリスマスソングというものが流れるようになる。
そのクリスマスソングはメジャーなものからマイナーなものまで様々ではあるが、とにかく多いのが恋愛に絡めたクリスマスソングである。
例えばよく耳にするフレーズは以下の通りである。
あなた

大切な
恋人
思い
二人きり

もちろん、所謂「洋楽」と呼ばれる音楽においてもこのように恋愛と絡めたクリスマスソングは存在するのであるが、恋愛との関連の現れ方が日本ほど露骨でない印象を受ける。

あまり個人名を出すと中傷となってしまうかもしれないので個人名は伏せるが、とある歌手のクリスマスソングはもう完全に
「クリスマスというものを勘違いしている」としか思えないような曲なのである。

これもやはり非リア充思想ではないと言ったところで無理はあるかもしれないが、クリスマスという日に「恋愛」が絡むという状態に納得がいかない。友情や家族愛でもなく恋愛である。
ましてやキリスト教徒など大して知りもしない仏教徒日本人が、イエスという存在への冒涜ともとれる「恋愛」という言い訳を引っ提げてクリスマスへ参入している状態は、実は非常におかしいことなのである。

日本人にとってのイエス・キリストとは
宗教の人」「髪の長い男」というイメージに留まるだろうし、それ以上の思想だとか彼に関わった人物、またそれに関する様々な概念についてなど興味ももたないだろう。
もちろん、キリスト教徒の日本人も存在しているということは承知している

さすがにクリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う行事であるという事実を知っている者はある程度はいるかもしれないが、その事実を知っていたところでその事実に基づいて「正しく」クリスマスを楽しむという気持ちなど微塵も持ち合わせていないだろうし、クリスマスという行事に対してそんなに大袈裟な気持ちを持ち合わせるなど効率が悪いと考えるか、もしくは単につまらないという考えなのだろう。

やはり日本人は『スポンジ人種』なのである。他の国の宗教由来の行事の意味すら考慮せずに簡単に吸収してしまう。ある意味では柔軟な人種ともいえるが、その一方でまたある意味では無知ともいえる。
これはハロウィンにおいてもいえることで、ここ数年の間に話題となっている
渋谷ハロウィン」はその代表例である。

死者の祭典であるハロウィンという行事におおて何故か特定の職業のコスプレ死者とは無縁のキャラクターのコスプレをした者たちが渋谷に集う。
これは単なる『無知なスポンジ人種の集まり』でしかなく、ハロウィンなどという立派な行事とは別物だ。
クリスマスにおいても同じようなことがいえる。クリスマスという行事にあまりにも恋愛が絡み過ぎると『無知なスポンジ人種の祭典』にしかならない。

ここで敢えて誤解を生むような言い方をさせてもらうが、日本人にとって本来であればクリスマスなど「どうでもいい行事」のはずである。

イエスの教えを信仰するキリスト教徒こそがクリスマスというものに真の意義を見出だして楽しむことのできる存在なのであるから、キリスト教徒でない日本人である場合には殊更「どうでもいい」はずだ。
それなのにも関わらず、恋愛という概念をクリスマスに無理矢理結び付けて何かしらの「意味を成すもの」として親しんでいるかのような素振りをみせているのである。

3:日本人のスポンジ体質
今回のnoteでも何度も指摘している通り、日本人というのはスポンジ体質である。
日本人という存在は、自分達のルーツや文化、古くからの慣習を無視した行事やエンタメなどをすぐさま吸収するという体質をもっているのだ。

「スポンジのように吸収が良い」というのは大方褒め言葉のように使われる。
例えば、何かを教わっている人物に対して「この人はスポンジのようにすぐに吸収して覚えることができる」といった具合に用いる表現である。
しかしながら、ルーツに関係のない文化やエンタメをスポンジのように吸収することは単純に良い評価をされる事柄ではないし、この場合の「スポンジのように吸収が良い」という表現は、褒め言葉としての表現ではない。

クリスマスをはじめとした日本由来でない行事に対して、本来であれば不適切な概念を結び付けて勝手に私物化するという愚行
この愚行こそがスポンジ人種特有の行事の楽しみ方なのだろう。





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