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リッチー・ブラックモアに学ぶ『黒装束と無表情の正統性』

1:無意識の選択



「いつも無表情だね」
「いつも黒い服ばかり着ているね」

私が実際に言われたこと。
無表情や黒い服というとなんだか中二病みたいだ。そしてそれについて他人から言及されたことについて改めて述べることも中二病みたい。
しかしながら、他人からこれらの発言をされたことは私にとっては「死活問題」ともいえるものだった。

2:「黒」や「無表情」という盾

黒という色に一体どんなイメージを抱くだろうか。
無表情という表情に一体どんなイメージを抱くだろうか。

私がそれらの疑問に答えるのであれば、ただ単にこのように答える。
他人からの盾となるイメージだ

という色はどんな色にも染まらずそしてどんな色も染めてしまう力強い色だ。
また、無表情という表情は、考えや感情を他人から悟らせにくくする表情である。
一般的によく言われるのが、「黒い服を着ている人は暗い人や怖い人に多い」ということだ。また、無表情な人に関しても「無表情な人は、暗い人や怖い人に多い」と言われる。

特に女性(心身の性別が女という意味での女性)は、ピンクや黄色、白といった明るい色を着ていた方が可愛らしく見えたり優しく見える。また、無表情でいるよりも笑顔でいる女性の方が好感をもたれやすい傾向にある。
私は「Xジェンダー」(※)を自称してはいるが、普段生きている時は完全に「女」として生活しているため、本来であれば上記のような傾向を熟知した上で服装や振る舞い方を決める方が賢明である。
Xジェンダーの定義は様々であるが、男女の区別を明確にしない性自認という説明を載せておく。また、私のnoteの「性自認の曖昧さ」を読んでいただくとより理解が深まるかもしれない。

しかしながら、私はXジェンダーを自称しているということや、
「女だからこうでなければいけない」もしくは「男だからこうでなければいけない」という性別による役割の押し付けや規範というものが嫌いであるという性質をもっているため、上記のような傾向を熟知した上で自身の振る舞い等を決めることは非常に不愉快なのだ。

だからこそ「黒い」服装や「無表情」という表情を選んでいる。いや、自ら選んでいるというよりはもう無意識のうちにそういった選択をしているのである。
人が酸素を吸い、二酸化炭素を吐くのと同じくらい自然なことなのだ。もっといえば瞬きと同じくらい無意識のうちの行為である。

しかしながら、私はこのような無意識の選択を他者から批判されてしまったため、この無意識の選択に対しての自信を無くした時期があった。

3:リッチー・ブラックモアとの出会い

リッチー・ブラックモアって誰?
そう思った方は多いかもしれない。
では、ディープ・パープルというバンドをご存じだろうか?
ディープ・パープルを知らないという方には以下の曲をおすすめする。
Smoke on the Water(スモーク・オン・ザ・ウォーター)
Highway Star(ハイウェイ・スター)
Black Night(ブラック・ナイト)
Burn(バーン)
これらの曲がディープ・パープルの代表格である。日本のCM等でもよく使われたため、一度は聴いたことがあるだろう。

そう、リッチー・ブラックモアとはまさにこのディープ・パープルというバンド(主に)のギタリストである。

彼に関する音楽的な話は一旦さておき、今回は彼の服装表情に注目して話を進めていく。

彼は某天才的ギタリストに「黒装束のギタリスト」と称されたという逸話がある。
ギタリストをはじめとしたアーティストというものは自分自身を表現する仕事なのであるから、ある程度はルールに囚われずに好きな服装や髪型をすることが可能だ。もっと言えば、ルールに囚われてほしくないくらい自由な身であってほしい。(自由の定義については触れないが)

このリッチー・ブラックモアというギタリストも例外ではなく、アーティストとして自身を表現するために様々な服装を私達に見せてくれている。
今回のnoteでは彼の「黒い服装」そして「無表情」という表情に迫る。

リッチー・ブラックモアはあまり笑わないギタリストとして有名だ。もちろん、彼も時々は笑みを見せるのだがニヤッとした不敵な笑みをみせる程度である。間違っても常に微笑んでいるおおらかな人物という印象はない。
そして、某天才的ギタリストに「黒装束のギタリスト」と称されたくらい「黒い服装」をしている確率が非常に高い
彼の写真などを調べていくと、赤い服を着ていることなどもあったということが判明するのだが、「あのリッチー・ブラックモアが赤い服を着ている?!」と驚いてしまうくらい彼が黒以外の色を身に付けていることは珍しいのである。

私が書いた他のnoteやプロフィールからもわかるように私は音楽、特にロックが好きなのであるが、このリッチー・ブラックモアというギタリストと出会った時に先に述べた「無意識の選択」に対して喪失した自信というものを再び取り戻したのである。

最初こそ彼のギタリストとしての才能やギタリストとしてのステージ上でのパフォーマンスというものに対して、いちロックリスナーとして心を動かされたのであるが、その感動は徐々に私の心の奥底に押し込んだ「無意識の選択」というもののを再び咲かせたのである。

リッチー・ブラックモアは黒を纏った人間
リッチー・ブラックモアは笑わない人間
「ああ、私もそれでいいんだ。
私もリッチー・ブラックモアのような選択を行っていいんだ」

端からみれば「頭がおかしい」としか思えない思考回路だろう。
なぜかといえば、私のようなアーティストでもない一般人がリッチー・ブラックモアのような世界的ギタリストにシンパシーを感じて勝手に自分と同じような生き様であるかのように感じ取るということは、まともな人から見れば所謂「妄想」とも思われてしまう危険性があるからだ。
当然ながら私もこの「妄想」とも思われてしまうような思考に関して冷静な視点を失わずにいたいという心掛けはしているものの、やはり数年前に他人から言われた「いつも黒い服ばかり着ているね」とか「いつも無表情だね」といった言葉は私の無意識の選択、果ては私の生命活動の否定のための刃物に等しいものであった。
そのため、時には冷静さを失ってまでリッチー・ブラックモアという人物に傾倒することは私の人生において必要不可欠なのである。

この世の中にはリッチー・ブラックモア以外にも黒い服ばかり着ていて、いつも無表情である人間は溢れているかもしれない。
それでも私がリッチー・ブラックモアという人物にこれほどまでにシンパシーを感じ、そして傾倒しているのは、リッチー・ブラックモアと私の間に音楽という橋が掛かっていたからに他ならない。
この世にそういった黒い服ばかり着ていていつも無表情である人間がいたとしても、それは私にとっては「モブ人間」でしかない。
仮にその人物が音楽やギターをやっていたとしても、ディープ・パープル(その他にも所属バンドはあるが割愛)というバンドでギタリストというポジションに就き、数多の楽曲ギターリフ(※)をこの世に送り込んだという軌跡がなければ納得がいかないのである。
曲の中に繰り返し登場する印象的なリズム。例えばディープ・パープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターの「リフ」はどこかで聴いたことがあるだろう。

今回のnoteでは、リッチー・ブラックモアの音楽的側面に関する議論は放置すると先に述べたが、僅かでもそれに関して触れるとする。
やはり、「黒」や「無表情」という概念に正統性を与え、それを私というどこにでもいる一般人に昇華してくれたことに対して私がこれほどまでに感謝の意を表している理由とは、先述の通り私との間に音楽という架け橋を渡らせたという功績をリッチー・ブラックモア氏がもっているからである。

4:各人の「無意識の選択」を捨てることなかれ

無意識の選択というものは、なにも私のような妄想気質な頑固人間だけが持ち合わせている選択ではない。
別に私とは対照的に「可愛い色の服が好きでいつもニコニコしていたいです!」という無意識の選択をするのならばそれはその人にとっての立派な無意識の選択なのである。
その無意識の選択が他人によって潰されるということなど決してあってはならないのだ。もちろん、TPO(時、場所、目的)というものを考慮しなければならない場所では無意識の選択をどの人もある程度は押し込める必要はあるのだが、普段の生活を営む上では制限されてはいけない。

リッチー・ブラックモアは何も有名なギターリフだけをこの世に送り込んだのではなかった。
私という自信を喪失しがちな小さな一人の人間の信念をより一層強いものにした、いわば「救世主」のような存在であった。

そしてここにやはり「黒装束と無表情の正統性」というものは証明されるのである。

5:成熟していくことへの寂しさ

ここまで散々、「黒い服装」と「無表情」というなんとも中二病患者が好みそうな概念について花を持たせるような理論を展開してきたわけではあるが、このような中二病的概念も徐々に成熟していく。
冒頭にて私は、「黒い服装や無表情という表情は、他人から自分を守る盾のようなものだ」という主張を述べた。その主張を曲げるつもりは皆無である。
また、この主張を裏返してみると、
黒い服装をせずに無表情にもならないということは、他人から自分を守らないということだ」という主張が完成する。
要するに、中二病というものは思春期特有のアイデンティティの確立のための過程なのではあるが、その過程の中で自分の身を他者から守るという所謂、防衛規制のような心理反応が起こる。これは俗にいう不良の反抗的な態度に似通ったものがある。
彼らもまた、一般的に好青年と称されるようは装いはせず、例えば髪の毛を長く伸ばしたり、派手な色に染めたりする。また、表情に関しても柔らかい笑顔よりも睨み付けるようは表情をよくみせている。そしてそこに多種多様な非行を蔓延らせて不良という人物像を完成させる。

◎ここで念のため近年の「不良像」というものについて言及しておく。広義の意味での「不良」を認識しながらこのnoteを読みたい方にとってはこの項目は蛇足であるためスルーしていただきたい。
近年の「不良像」というものは変化しつつある。最近話題の「トー横キッズ」などはその一例である。確かに昭和の頃の「ツッパリ」だとかと同じように大人や社会のルールに背く行いをする傾向にはあるのだが、かつてのツッパリ達のように暴力をして親や先生(先公)に反抗するというよりは、仲間内で騒いでオーバードーズ自傷行為といった行為を通じて社会のルールを否定している。
オーバードーズや自傷行為も一般的に見れば「ある種の」非行であるのだが、昭和のツッパリなどと異なるのは、トー横キッズに代表される「最近の不良」の非行は「内的な非行」である。オーバードーズや自傷行為などで自身の心身を傷つけることにより一種の現実逃避を行ったり、生きていることへの実感をする。
そしてトー横キッズの非行の最大の特徴としては、社会や大人などへの外の存在への反抗のみではなく、自分という内なる存在への反抗や否定も行っているというものが挙げられる。

ここで蛇足部分から立ち返り、本テーマに戻る。
広義の不良という存在を成熟という成長過程に準えて観察していくと、最終的には私が大切にしている「無意識の選択」というものは失われてしまうという方向性が見えてくる。
私が書いた他のnoteにも登場した Varg Vikernes氏なども若かりし頃(所謂全盛期)にVenomのTシャツを着て公の場に現れていたが、今の彼はそのことを後悔しているらしい。簡単にいえば「黒歴史」というものだ。
また、彼の別名ともいえるブラック・メタルミュージシャンとしての活動にさえもやや恥じらいを覚えているようである。(彼のYouTube動画を参照。彼の公式チャンネルは現在削除されているが、恥じらいを覚えているという意思を表明した動画自体は残っている)

そして、今回のnoteの主役であるリッチー・ブラックモアでさえも「成熟」という過程を露にしているという寂しい現実がある。

彼が「無表情」をみせる割合は減った。
彼が「黒い服」を着る機会は減ってはいないが、かつてのようにその「黒い服」は、リッチー・ブラックモアという人物の影を色濃く照らす力をもっていない。

誰も彼も成熟してしまい、私はまだ若者という偽物の大人みたいな生き物として先人達の黒歴史という名の青春を恋しく思うのであった。

「正統性」などという格好つけた名目で私はこのnoteにおいて自身の理論を展開したものの、やはりあと何十年もすれば私にも迫り来る「成熟」…もっといえば「強制的な成熟」という存在の脅威に今から怯えなければいけないのである。
人の命が永遠ではないように、「無意識の選択の正統性」というものもいつかは消滅する。
このような現実に目を向けたいという気持ちと目を背けたいという気持ちが同居している今は、しばしこの「青春」というものを楽しみたい所存である。













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