五感で感じる姫山~登山を通して~
前置き
私達は昔、山を「祈る」対象としていた。留学していた中で、日本人の「特殊さ」を日常的にとても感じたが、特に希少だと思ったのは「八百万の神」、様々なものに神が宿っているという考え方だ。
その考え方の一つに「山岳信仰」というものがある。山岳信仰というのは、簡単に説明すると、山を神聖なもの(神が宿るもの)として扱い、祈りを捧げることだ。日本の象徴とも言われる富士山も山岳信仰の対象の一つである。富士山はエベレスト、キリマンジャロなどに比べると、標高がとても低いが「自然遺産」ではなく「文化遺産」として2013年に登録され、世界的に有名である。そして、日本には標高は高くないものの、昔から私達日本人が親しんできた数多く山々がある。
その一つとして、有名ではないが山口県山口市に「姫山」という山がある。本記事では、「姫山」を登山したことを記録しよう思う。
姫山の基本情報
・標高199メートル
・問田川、仁保川、椹野(ふしの)川に囲まれた天然の要塞であり、平川と大内(地域名)を分けている。
・古くからの言い伝え
その昔、殿様が山口城下の美女に恋慕をよせ、殿中に捕らえようとしたが、美女は殿様の邪意を受け入れなかったため、激怒した殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇責めにした。美女は自らの美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため『この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容姿端麗の女性は生まれぬように』と悲しみ悶え死んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E5%B1%B1「姫山」から引用<2024/09/15>
登山
標高は低いので「登山」というような体験にはならない様な気がしたが、友人を誘って山に登った。山の登山口には鳥居があった。鳥居をくぐって山の中に入っていくと、神秘的な空間があった。
森に生える植物たちの上に太陽の光が一筋差していて、私たちは自然の一部でこの自然と比べるとてもちっぽけな存在だと感じた。
私達が生きる、21世紀は技術が発展し、私達が自然と共に生きていることを忘れる。今日、夕食で食べた野菜は元々は自然の中の一部で、その自然の一部が身体に吸収されて、エネルギーに変わることが「生きる」ということなのに、私たちはそのことを忘れているし、意識する必要もない。
自然が失われれば、私達は生きていく事も難しい。自然の大きさには敵わないのに、私達はなぜか自然の強さを忘れる。
しかし、汗をかきながら足場の悪い山を一生懸命に登る時間は、今、私達はこの山(自然)の一部で、この山には敵わないことを感じる時間だった。
姫山の頂上
姫山の頂上に立つと、町が立体的に見えた。普段は、平面で生活していると感じる。Google mapで検索して地図を見る時も立体的に写されていないし、平面的にスクリーン上に道が示されている。しかし、山の頂上では、いつも住んでいる自身の住居が、普段よく行くスーパーが、さっき通った道が、全体の一点のように感じた。そしてその一点は、山の頂上から見ることによって、自然の中の一点であることも感じた。
下山
下山して、山を出る時、鳥居をくぐる。その時、私と友達は、「ありがとうございました。」という言葉と共にお辞儀をした。理由は分からなかったが、姫山に「ありがとうございました。」と言わなければいけないと思った。今、こうやって記録する中でその理由を考えると、上記で詳しく述べたが、山の自然への感謝だったのかもしれない。
終わりに
私達、人間は人の力を越えたものを「神」と呼び、古くから恐れ、尊び、感謝してきた。今回の登山体験では人の力を越えたもの(山)と出会い、足場の悪さに時に怯え、最後に自然(山)の大きさを尊び、感謝した。
私にとって今回、姫山を登ることは昔の人が山に向かって祈りを捧げ、山を神が宿る神聖な対象だとした理由が分かった体験だった。
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