映画感想『ナミビアの砂漠』 これが青春期
※ネタバレあり
私が住んでいるのは田舎なので、近くのミニシアターでようやく公開されて観てきました。
数ヶ月前にYouTubeにアップされた予告映像の時点でセンスがビンビンに伝わって来て、「タイプだ、、」とくらって楽しみにしていた映画です。
説明的なセリフや演出はほとんどなく、東京で生活する21歳のカナの生活をひたすらのぞき見する映画。
ナミビア共和国の砂漠にある、人口水飲み場に設置された定点カメラで撮影される水を飲みにくる動物の様子、を見ることができるライブ映像がYouTubeにアップされており、本作の山中遥子監督はそれに着想を得て、主役をひたすら観察するだけの構造にしたそう。
ものすごく悪いことをするわけではないけれど、細かい自由がたくさんある映画が開放感があり好みなのでまさにという感じ。
タバコの扱い方、奔放な恋愛スタイル、鼻ピアス、タトゥー、発言、歩き方、働く時の立ち振る舞い、偏った食事 etc.
と、自由奔放さを表す演出が光っていた。
本作を観て思ったのは、自由である=ベースに恐怖心の薄さがある、ということ。
自分の態度言動によって人にどう思われるかを気にする度合いにより自由度が変わってくるということ。
自由であることには色々な形態がある。例えば、身体的自由、経済的自由、能力的自由などがあるが、
今作で際立っているのは先に述べた精神的な自由だ。
若さゆえに、まだマナーやモラルが十分に育まれていないと言えばそれまでであるが、
自由である様が生命力と開放感とオシャレ感を生むのも確か。
その自由な精神が、コントロールされずに態度言動に出てくることは若者の特権でもあるし、若者であっても恐怖心が強い人はここまで表に出すことはできないので、才能の問題でもある。
山中監督がインタビューで、「若者特有の最強状態の目つきというものがあり、主演の河合優実にそれを感じた。私も前はそうだった」と述べており、やはりカナはその若さゆえの怖いもの無しなキャラクターであると思う。
そういう自由奔放に本能のままに生きる、つまり"動物的"であるカナの象徴としての鼻ピアスなのかもしれないと思った。
カナは二股をしていて、その浮気相手とのシーンに特に自由さが詰まっている。
その男と遊び終わりベロベロでラブラブな感じで別れた直後に走っているタクシーの窓を開けて豪快に吐いたり、ラブホテルに行った時に二人とも尿意が我慢できずに一緒に便座に座りW排尿をしたり、大麻リキッドらしきものを知り合いがたくさんいるキャンプ場で二人でなんのけなしに吸ったり、正規の彼氏と別れてちゃんと付き合えるようになった記念にノリで一緒に鼻ピアスやタトゥーを入れたりと、
身体に何かを入れたり、出したりする。
あまりこういうナチュラルなテイストの邦画ではなかったくらいやりたい放題なのであるが、画が非常にエレガントなので、下品にではなくエモくおしゃれに見えてしまう。
しかし、カナがただ自由を謳歌しているキャラクターなのかというとそれだけではなく、常に空虚感と苛立ちを抱えてもいる。そのため、開放感がありながらも不穏で殺伐とした雰囲気を纏う世界観である。
チルな良い雰囲気の中に神経過敏さから発生する頭痛のようなノイズが混ざっているといった感じで、単純に心地良い開放感を楽しめる作品ではないが、そこに尖ったスパイスを感じることもできる。
そのノイズ感の最たる例として、冒頭の友達とカフェでお茶をするシーンがある。
その友達の知り合いが自死してしまったという話を集中して聞けずに、注意が周囲の客の会話に行ってしまう。目の前で話している友達の話よりも、別の客の話に興味があるというよりは、コントロールできずにそうなっているという感じで、決してその状態を楽しんでいるようには見えずむしろしんどそうですらある。
このようにカナは自分の感覚や感情をコントロールできないことからくる不快感、またはその原因により、常にヒステリックにピキついているようにも見える。
そして、他人を大事にできないこと、つまり思慮深さを十分に持っていないことは実は本人が一番心にダメージを負って心が荒むという例でもあると思った。
そして、自身が抱えるそういった問題からくるストレスを、乗り換えた新しい彼氏に対して理不尽にぶつけるようになり、最終的に精神病の疑いがあると診断され精神科のセラピーに通うようになる。
セラピーの効果として、まさに退廃的な性格ゆえに崩壊に向かう自分を客観的に見つめることを始めるだけで、彼氏にDVをするのは何も変わらないというのが安易さが無くてGOOD。
出てくるキャラクターが皆、イケていて魅力的だった。
こういう精神的自由さを持っていることをある種美しいものとして許容される時期を青春期と呼ぶのかもしれない。