見出し画像

悪魔のピアノ

 先生の家には玄関を入ってすぐ左に部屋があって、いつもは大体閉まっている扉が、ときどき中をのぞいてごらんとばかりの細さでこっちを見ていることがあった。
 そこにはダンボールとか洋服を入れるケースとか、とにかくいろんなものがごたごた積み上げられていて、なんだかリラックスできそうにない部屋だなと、僕は勝手な感想を持ったのだった。

 それがこの前のレッスンのとき、またしても扉が開いていて、奥の壁に絵がかかっているのを見つけた。中が暗くてはっきりとはわからなかったけど、全体的に黒っぽくて、もしかすると絵じゃなくて真っ黒い紙だったのかもしれない。でも、ただの黒い紙を壁に貼るなんてことがあるだろうか。

 ところで先生というのは、僕のピアノの先生だ。
 名前は小畑奈津子。年齢は、たぶんお母さんより一回りくらい下で、肩くらいまでの長さの髪の毛を内巻きにカールさせている。
 ピアノのある部屋には絵は一枚もなかったけれども、ガラスの花瓶とかぬいぐるみとか、何かのトロフィーとか飾れるものは置ける限り置きましたという感じだった。

 そういうことを僕はずっとあとになってから思ったので、あのころはそんな部屋を見て、うちのお母さんも玉暖簾とか邪魔くさいからどけて欲しいんだけどと思っただけだった。

 ピアノは小三から習っていた。クラスで習っている男子は僕ひとりだった。あんたがやりたいって言ったのよとお母さんは主張するが、姉ちゃんがバイエルも終らないうちにやめてしまって、ピアノがもったいないというのが本当の理由だと思う。
 僕はバイエルなんかすぐに終わった。だが、つぎのブルグミラーに進んだら、やたらとメロディのない和音とかを練習させられる。基本ができていないと次の曲には進めないというが、僕としては少しくらい下手でも、メロディのあるものがやりたい。

 それで、家ではほとんどピアノの練習をしなくなった。当然、先生のところに行ってもうまく弾くことができないんだけど、小畑先生はそういう生徒の堕落には慣れっこらしくて、とくに怒られることもなかった。僕は宿題とかいろいろあるしあんまり練習できないんですと、聞かれてもいない言い訳をした。

「それは仕方ないけど、ちょっと手首が動きすぎてるみたいだね」
「すみません」
「そうだ、あれを使おう」
 先生は、ロングスカートのすそをすぼめるようにしてすっと立ち上がると、台所に行って冷蔵庫から何かをとりだして、僕の手首のうえに乗せた。
「これが落ちないように弾いてごらん」

 それは、白いハンカチだった。
 先生の言った和音をおさえたとたんに、ハンカチは手首からするっと落ちた。つめたい虫が手の上を這ったような感触に、お腹の奥のほうがぞっとした。先生はハンカチを拾うとぱんぱんとはたいて、ピアノのうえに乗せた。
「今日はもう終わりにしましょう。毎日五分でもいいからピアノを触ってあげてちょうだいね」
「はい。すみません」
 先生はどうせ僕が練習しないことを知っていて、そろそろやめることもわかっているだろう。

 それでもだらだらと、僕はピアノ教室に通っていた。
 家を出る三十分前に急いでピアノに向かって急ごしらえの練習をして、憂鬱な気持で先生の家に行きピンポンを押すと、開いてるわよという先生の声がして、玄関を開ける。靴を脱ぎスリッパを履いているときになんだか変だな、何かすうすうするんだよと思ったら、右のドアがいつもより大きく開いていた。

 廊下の窓から光が射して、その先にあの黒い絵が見えた。真っ黒と思っていた絵のなかには男の人がいた。暗い部屋の中で椅子に座って、両手を肘掛に乗せて口を大きく開けている。表情は見えない。ていうか、顔が縦の線でざあっと塗りつぶされている。

 身を乗り出して、もっとよく絵を見ようとしたそのとき、「槙田くん、何してるの?」という先生の声がした。僕はいつの間にか、部屋の中まで入りこんでいたのだ。

「こんど、発表会に出てみない?」
 さんざんなレッスンが終わったあと、紅茶に砂糖を入れながら先生が言った。
「発表会?」
「秋にあるのよ。前にもやったでしょ」
「たしかまだ習い始めのころに」
「あのときは何を弾いたんだった?きらきら星だっけ」
 先生が、笑いながらカップを手に取った。
「そんな簡単なやつじゃないですよ」
「槙田君は進みが早いからねえ」
「そんなことないです」
「私だってはじめはすんなり弾けなかったんだよ」
「先生が?」
「性格が災いしたんだね」
「ピアノに性格とか関係あるんですか」
「もちろん、あるよ」

 とりあえず練習だけでもしてみたら、最近あまりメロディらしいものを弾いていなかったからいい気分転換になるわよ、と小畑先生は言い、発表会用の曲を弾いてくれたのだが、それが今までの練習曲とはまるで違っていて僕は驚いた。いきなりダークな音の和音がよっつ出てきたと思ったら、スピード感のあるスタッカートが奏でられるのだ。先生の両手は素早く動く虫みたいに丸まったかと思うとぱっと広がって、またすぐに縮まって、鍵盤の端っこに飛んで行ったりした。何よりもメロディが格好いい。僕は今までそんなのを弾いたことがなかった。

「ちょっと難しいと思うけど、弾いてみる?」
 家に帰るとすぐ、僕はその曲を練習してみた。指を鍵盤に当てて、最初の和音をよっつ、弾く。いや、弾いたというより、音が出た程度だった。もっと速く、力強くやりたいのだが、そうすると指がずれる。指をそろえると音が遅すぎる。

 夕飯までずっと弾き続け、夕飯のあとにもやろうとしたら近所迷惑だからやめてくれと母親に止められた。それで弱い音にできる足下のペダルを踏んで弾いていたが、風呂に入れと言われてピアノから引きはがされてしまった。

 それからは毎日弾き続けたんだけど、問題があった。僕の左手だ。もともと動きが悪かったうえに、スピードのせいで自分のものじゃないみたいになっている。基礎練習をさぼったせいだろうか。右手は上達するのに、左手は委縮するばかりなのだ。僕は発表会なんかどうでもいいから、とにかくこの曲を奏でたかった。

 物語の冒頭は、悪魔が階段をものすごい速さで駆け上がって来る。ダダ、ダダ…ダ……ダ。左手の動きがとまると、悪魔が階段でひっくり返り、右手までおかしくなる。
「とりあえず、左手だけでやってみよう」
「さっきよりよくなったよ」
「じゃあ、そこは飛ばして次から、えーと…」
 最後には言葉も尽きて、
「少し休憩しよう」ということになり、先生は紅茶を淹れにキッチンに立った。
「発表会まで日にちがないし、別の曲をやってみない?」
「いまからですか」
「槙田君なら大丈夫でしょ」

 僕は窓の外を眺めた。通りには誰も歩いていなかった。紅茶とケーキが運ばれてくる。清い流れ、という題名の楽譜が悪魔の上に載せられた。ケーキは甘さと酸っぱさ混じって、吐き気がした。清い流れ、なんて馬鹿みたいな曲は弾きたくなかった。

「先生。ぼく前からちょっと気になっていたことがあるんですけど」
「何?」
「この家に入ってすぐ左側に部屋がありますよね。ときどき、あの部屋のドアが開いてることがあって、僕、あそこを通り過ぎる時にちらっと見ちゃったんです」
 先生は黙っていた。
「壁のとこに絵がかけてあったんですけど、あの絵怖くないですか。ここに来るたびに今日は扉は開いてるかな、開いてないほうがいいなとか思ってたんですけど、今日は大きく開いていたから、これは見ろってことだと思ってじっと見させてもらったんですけど」
 先生はカップを持ったが、紅茶は飲まないままだ。

「顔が真黒な男の人?ガタイがいいからたぶん男で、椅子に座って口をぼかんと開けてて、顔も身体も全身ばあーって黒い色鉛筆で縦に殴り書きしたみたいに色が塗られてて、怖くって、俺…うげっ」
 喉の奥から、赤い果物みたいなのが飛び出して皿の上に落ちた。ケーキの上に乗ってた何かだ。
「すみません。むせちゃった…」
 あわててナプキンで丸めたけど、先生は何も見ていなかった。

「先生、聞いてます?」
 すると先生は、今まで一度も聞いたことのない、だるそうな声で、
「べつに?大丈夫だけど」
 と言った。
「槙田君、あの絵を描いた人のこと知りたいの」
「え、いや」
 それから先生は僕の意向を無視して、だるそうに語り始めた。

 あの絵を描いた男の人はね。
 ドラッグとか酒とかやりまくって、すごくはちゃめちゃな人だった。毎日仲間とパーティ漬けで、恋人ともしょっちゅう喧嘩して、最後には自殺したんだったか、それともドラッグにやられて死んだんだったか忘れたけどもうどっちもどっちって感じだよね。
 あの絵を見たのは高校生のとき教科書に印刷されたやつだったんだけど、ものすごく怖くてページをホチキスでとめてたくらい。虫の図鑑とかもホチキスとめてたんだけど、あれはそういう怖さとは違ってたな。お化けとも違うし。怖い話って夜は怖いけど、朝になるとなんともなくなるのに、あの絵は昼も夜もなくあたしのなかに住み着いてた。
 それで、あの絵を模写してみることにした。自分で描いたら怖くなくなるんじゃないかと思って。すごく下手だったけど、毎日あの絵だけを馬鹿みたいに模写して、今日は椅子、今日は右手、今日は口って描いている間は不思議と怖くないのよ。なんだよあたしはこいつを手中に納めたじゃないかって思ったね。で、ある日これで完璧って絵ができて額縁に入れた。
 
 先生は紅茶をぐびりと飲み干した。
「そんなに頑張って描いた絵なら、なんでもっといい場所に飾らないんですか」
「あの部屋、いまはあんな押入れみたいにしてるけど前は違ったんだよね」

 ケーキを一口で食べきると、先生は話し続けた。

「あの絵はそういう中央的な場所に似合わなかった。だから北向きの部屋に飾って、あたしもその部屋で過ごすこしにした。ピアノもぶちこんで、レッスンで稼いで、作曲もやったしライブもやったし、彼氏も泊めたし、友達も呼んだし、みんなはあの絵を気味が悪いとか怖いって言った。あたしが作者の破天荒な人生の話をしてやると、やっぱりパッションのある人は違うなとかなんとか言い出した。あたしはそれが厭だったからそれからは誰も呼ばなくなった。彼とも別れて絵と二人きりになってリビングから運んだ肘掛椅子に座って、真っ黒いセーターとロングスカートを履いて口をばかんと開けて叫んでみた。隣の人から苦情がきたけど無視してやった。墨で顔を真っ黒にして酔っぱらったりもした。だけど、所詮はあたしが描いた絵なんだと思ったら、急激に気持が冷めた。だから元の絵を見ようと思った。…でも」
「でも?」

「探し回ったんだけど、元の絵が見つからなかった。そもそもそんな絵、本当にあったのかわからなくなった。壁にかけてあるのはあたしの絵だし、あたしの顔なのかもれしない。それで自分の顔を鏡で見たら、目の下にはくまが出て髪の毛はぼさぼさだった。あたしは顔を洗ってふとんにもぐりこんだ。あたしはあの絵にそっくりなんだ。そう思ったらもう一秒でもそこにいたくなかった。それであたしはあの部屋を出た」
 そこまで話しきると、小畑先生はゆっくりと立ちあがって、清い流れの楽譜を僕に差し出して、今日はもうおしまいと言って部屋を出ていった。 

 ばたんと大きな音がして、僕にはそれが例の部屋の戸を閉めた音だとわかったから、わざとゆっくり部屋を出て絶対にそっちを見ないようにして玄関に行き、靴紐も結ばずにそのまま家を出た。

 清い流れはゆっくりして簡単だったけど、全部の音がきれいで聴きやすい曲だった。
 次のレッスンの日、僕は発表会が終ったら辞めたいと言うつもりで小畑先生の家に向かった。でも、インターホンを鳴らしたけど反応がない。家の中はしんとして、何の気配もなかった。
 近くの公園でベンチに座って何もない空気の上でピアノを弾いてみた。清い流れじゃなく、悪魔のほう。

 あのときほど左手がすらすら動いてくれたことはない。もちろん、空気だけどさ。僕は何度も何度も同じ曲を空気の中で奏でた。うるさい鳥が、木のそばで鳴いていた。レッスンの時間が終ると、歩いて家に帰った。

「あんたどこ行ってたの」ドアを開けると母親が立っていたので、驚いた。
「え、ピアノだけど」
「さっき先生から田舎に帰ったからレッスンはできませんって連絡があったのに」

 先生はそれきり戻らなかった。家にお詫びの手紙と、支払われていたレッスン代が届いたきりだ。
 先生はあの絵をどうしたのだろうか。引っ越しのとき、捨ててしまっただろうか。

 俺の話を聞いて、ふうん、とバイト先の後輩の滝田が言う。
「俺も、ピアノやってたよ」
 滝田は昔俺の実家近くに住んでいて親しくなった。くわしい場所を聞いてみると、同じ町内の公園があったところだという。

「どんな先生だった?」
「名前は思い出せないけど、男だった。暗い人だったな」
 先生がいなくなったあと、またあの家にピアノの教師が越してきたのか。
「顔はよかったけど、いつもだるそうだし練習しないで行っても怒られたことがなかったよ」
「そこに変な絵がなかった?」
「さあ。なかったと思うよ」

「ところで滝田。あっちの部屋には、何があるんだ?」
「ああ、べつに。かび臭いから使ってないよ。ストーブとか冬物の服とか。なんで?」
「もしかすると、滝田の先生と俺の先生は同じ家で教師だったんじゃね?」
「きょうだいとか?俺は、おれはロックとかジャズとか弾いてたよ」
「いまどきだな」
「いや、あいつが変わってたんだよきっと。すごく暗い曲ばっかりやるんだもん」

 なぜかわからないけど、俺は、滝田があの絵を持っているような気がした。だから滝田が眠ってしまうと、俺はその部屋にこっそり入ってみた。片隅にキャンバスが置かれていたが何も描かれていない。ただの白い空間だ。

 俺たちは毎日のように遊び回った。やつはめっぽう酒に強かった。俺は大学をさぼって、バイトもやめた。滝田はものすごい数の人間と知り合いだったけど、俺だけが本当の友達だと思っていた。だが、一年後にやつはいきなりいなくなった。アパートは引っ越したあとで、白いキャンバスも何もなかった。俺は留年したがなんとか卒業し、仕事を見つけた。

 今日俺は、久しぶりにあの公園にきている。実家はもうないが、公園は昔のままだ。小畑先生の家は建て直されて、ピアノ教室は存在しない。
 もうすぐ日が暮れるというのに、うるさい鳥が鳴いている。
 あの絵はいったい何だったんだろう。ときどき、あの絵を見なければ、今の俺はなかったのかもしれないと思うことがある。
 
 俺はまだ、ピアノ弾けるだろうか。
 薄闇に左手をあげた。冷たいハンカチの感覚を思い出して胃の底がぞっとした。俺はあの和音を押さえた。釣られるように右手が動き出した。左手は右手に食いついていく。ダダダダダ、ダダダダダ。

 真っ暗で、何も見えなかったけれど、俺のメロディは完璧だった。

 
 
 ※作中に出てくる絵は、フランシス・ベーコンです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?