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内田に

 会社を出て、大通りを右に折れて石畳みの裏路地に入ると、藤崎さん、と内田が声をかけてきた。

 その道は、まっすぐ駅に向かう大通りにくらべて迂回するような格好になるから、わざわざ社内の人間でここを選んで帰るものはいない。

「内田さん、どうしてこんなところにいるんですか」
 そう口にしたあとですぐに、余計なことを尋ねてしまったと後悔した。案の定、内田は不思議そうな顔で、どうしてそう思うのと言ったのである。

「いえ、ここは遠まわりの道なので」
 それがよくなかった。内田はさらに追い打ちをかけてきた。

「それなら、藤崎さんはなんでここにいるの?」
「それは、その、ここを通る人が誰もいないからです」
「ふうん」
 内田はなるほどねえ、という顔をして笑ったが、それ以上何も問わなかった。
 
 私には秘密がある。
 その秘密を知っている人間は今のところ一人もいないが、この男に問われたら、私はあらいざらい話してしまうに違いない。

「藤崎さんはS駅でしょう?僕は今日、そのひとつ前の駅に用があるんで、よかったら一緒に帰りましょうよ」
 内田は言った。
「なぜ?」
「なぜとは何が?」
「いえ…」

 私はまた余計なことを聞いている。

「ああ、なんでS駅で降りることを知っているかってことか。僕は全従業員の降車駅を記憶しているんですよ。総務課にいたことがありますからね」
 私は黙って頷いた。

 総務課にいたからといって、そんなものをすべて記憶できるとものでもないだろうに。だが、それもこの内田ならありうることだ。彼は記憶力が図抜けているのだ。だからといって、全員の降車駅を記憶する必要があるとは思えないが。

「べつに暗記しようと思ったわけではないんですが、まあ、単に忘れないというだけのことで、それでどうこうしようというのではないですよ」
 
 本当になんと憎い人間であろうか。
 
 道の両脇には、間口の狭い靴屋、中が見通せる飲み屋、いかがわしい文言の書かれた看板をかかげた店などが雑多に続いている。
  会社の人間は通らないが、この道を歩く人は多い。なぜか急いでいるものと、ふらつくものとの二種類しかいない。錆びた自転車が人々の間を器用にすり抜けていく。そんななかを歩きながら、内田は一人話し続ける。

「いやあ、今日は暑くて外回りもきつかったですよ。営業は暑さ寒さが大変だねなんて言われますけどね。僕から言わせると、あなたたちのように机の前に向かってひたすら合理的に仕事をすることを迫られているほうがよほど大変です。移動そのものは手柄にはなりませんし、営業は仕事の合間にそばを食ったり、コーヒーを飲んだりもできる。電車でいろんな人を見たり、街を歩いて新しい発見をするということもある。僕が汗水流してろくな成果もあげられずに戻ったような日でも、あなたたちは昨日と変わらない量の仕事をこなしているんだから」

「褒められたのかなんなのか」
「え、もちろん褒めたんですよ。そう聞えませんでしたか。これだから僕は駄目なんだなあ。話し方にデリカシーがないんだね。この前、サイトウさんにも叱られたのに」
 そう言って内田は、なれなれしい微笑でもって、じっと見つめてきた。

「何を見ているんです」
 そっちが見ていたのだ。

 電車に乗ると、内田は途端に今日は疲れたと言って眠ってしまった。私はそっとその横顔を盗み見た。そう言えば、この男を横から見るのははじめてだ。横に立っているときに、直視することがないからだろう。目を閉じてはいるが背筋をぴんと伸ばして、まるで座禅を組んでいる坊主のようだ。丸い顔だと思っていたが、顎がほそく少し前に出ている。小鼻は小さく髭はきれいに処理されている。

 内田は有能だ。
 それでいてときおり残業もしているのは、まわりと歩調を合わせるためではないか。私は残業をするのがいやだが仕事は早くないから、積み残した分を翌日に回して、定時になる五分前にはもうデスクのうえを片づけている。

 誰も私ほど早く帰る人間はいない。だから同僚や後輩の誰とも、仕事終わりのあのくつろいだ時間に、たわいない話をしたことがない。別れた彼氏への未練、借金、離別、重病、死別などについて語り合うこと。
 お疲れさまでしたと小さく呟いて立ち去ろうとすると、その気配を察して、内田はどこにいても何をしていても、快活におつかれさまでした、と大きな声で言う。すると、他のみなも引きずり込まれるようにお疲れさまでしたと輪唱してしまう。
 そのせいで、私とみなの間には格別な親しさもないが、緊張感もなく普通に過ごすことができているような気がする。

 そんな内田はたいそうもてるのだろう。付き合っている女は時折いるらしいが、どれも長続きしないという。
「別れちゃったんですよ、ふられました。ともかく、僕が駄目なんだ」

 三年あとに入社したものの一つ年上の私に、敬語とフランクな言葉遣いを交えてそんなことを内田は話したことがある。
 ふられたのではなくふったのでしょう、と軽口を返すことが私にはできないのでああそうなのと返すだけだが、内田は誰にでも打ち明け話をする。

 だから内田は女子社員にくまなく人気がある。
 仕事ができるのにあっけらかんとした気遣いを見せる内田だが、女子たちは誰も内田に恋愛感情を持っていない。それはいつかの女子社員のみの食事会で(そんな場にでも、付き合いの悪い私はきちんと誘われた。というのも内田のお蔭だろうが)、「わたしー、内田さんにはそういう感じはないなあ」と誰かが発言したところ、するすると同意見が沸いて、内田さんはいい人だし、見た目もそれなりで仕事もできるけれども、どうにもそういう感情がわかないと意見が一致したのだ。
 
 内田はそういうものをブロックしているが、それでいて誰も不快にさせず親密な感情は損なわせないというテクニックを有している稀有な、しかし、いまどきには案外ありがちかもしれぬ男性。ざっと意見をとりまとめるとそんなふうに話はまとまった。
 私ひとりが何も発言することなくただ黙っていたが、一秒でも早く会社から離れようとする人間が、まさか内田に恋愛感情を抱くはずかないと思われているせいで、誰からも意見を求められなかった。
 しかし、私は彼女たちの意見には同調しない。だって、彼女たちの誰もが、多少の差こそあれ内心では内田に恋愛感情を持っているのだから。

 どうあがいても彼を落すことはできない、それは理屈ではどうすることもできない、例えば服装やメイクを変えようと、胸にシリコンを入れてFカップにしようと、銀行強盗をして十億円を手にして国外に逃げようと誘おうと、監禁して性のとりこにしようと、絶対に内田の気持を変えることはできないと言語ではなく感覚で悟っているから、彼女たちはそんな感情は一遍もないと合唱していたのだと私は知っている。

 内田に心底興味がないのは私一人だ。
 できることなら内田には関わり合いたくない。あの、皆とのつながりを補助する「おつかれさま」のツルの一声も言ってほしくない。
 
 それはなぜだろうか。

 内田の服がつねに清潔でシャツにはアイロンがかかっているからだろうか。机の上はきれいに片づいていて、探し物をしているのを見たことがない。毎日決まった時刻に同じ歩幅で出勤してくる。肩が凝ったり、寝不足していたり、目が乾いていることがない。肩を回したり瞬きが多くなったり目頭を押さえたりしているのを見たことがないのでそうとわかる。

 水曜の内田、金曜の内田、朝の内田、夕方の内田。
 コーヒーを飲む内田、電話で話をしている内田、女たちと話をする内田、男とじゃれあう内田、話をする内田、頷く内田、トイレに向かう内田、トイレに入って用を足す内田、少し吐き気のある内田、吐いたあとうがいをして晴れ晴れとした顔でトイレを出てくる内田が、何事もなかったように得意先に向かう。

 得意先へ行くために電車のホームを歩く内田、よろける内田、なんとか踏みとどまる内田、得意先でコーヒーを飲む内田、今日はもう何杯目のコーヒーだろう、はやく歯磨きをしたい、するとまた吐き気がこみあげてくる、上得意なのにいらつく内田はまるで顔には出さず契約をまとめあげ、スーツにはごみひとつなく姿勢よく股関節から足を振り出すように歩き、その姿は通りを歩く人々に好感を与える。そして内田は私のもとに、ではなく会社に帰ってくる。必ず帰ってくる。

 内田はまだ眠っている。
 あまりにも深く眠り過ぎではないか。夢でも見ているのだろうか。

「藤崎」
「え」
「ふじさき…」

 内田、何を言おうとしているの。

「駅に着いたよ」
「ああ」
「降りなくていいの」
「いいのです」
「ついにそのときがきたのか」
「そうです」
「だからあの路地を歩いていたのか」
「そうです」
 ついに内田に秘密を話す時がきたのかも知れない。
「では話してください」
 
 私には秘密がある。先ほども言ったように、その秘密を知っている人間は一人もいない。それは私も同様である。けれどこの内田に問われたら私は洗いざらい話してしまうに違いない。

 私はこの男に興味なんかない。
 ただ、秘密を話したいだけなのだ。


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