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家庭内で心の拠り所が無く、エホバの証人に・・・

私の家庭では、母はエホバの証人、父は未信者と言うよくあるJW家庭です。
私がJWとの研究を始めたのは、小学校高学年上がる頃でした。そして、長い年月をかけて、高校を卒業するころにバプテスマを受けました。

私の兄弟は最初の頃こそ一緒に家庭聖書研究をしていましたが、途中で辞めました。

私は小学校を卒業するころに聖書を研究し続けるかどうか迷いましたが、結局、研究を継続しました。

辞めると言う選択ができなくなっていたのです。

そしてJWとの研究を辞める事無く、最終的には、バプテスマを受けるまで進歩をしました。そう、JW流に言えば進歩です。

家庭内の問題、心の拠り所が無い

私の親はいわゆる毒親です。

母は身体的暴力や言葉による暴力を振るう事がありました。JWと研究し始めてから、身体的にどうかしてくることは無くなりましたが、言葉による暴力は激しさを増しました。

「醜い」「太っている」などの容姿に関することから、私の考えや感じ方に対して、「あんたの考えは違う!間違っている!」など、私を否定する言葉がとても多く、思春期に差し掛かる時期にいた私は、精神的に混乱してしまいました。

(ちなみにそのような言葉を言われていた頃は、太っていません。第二次性徴が現れ始めた頃でした。事実と異なる事を言うのは、毒親によくありがちな事です)。

しかも母は聖書から「刃物の様な言葉を相手に向けない様に」なんて言う教えや「子供を苛立たせること無く育てる」と言う事も学んでいるはずなのです。

この様な事をすでにJWから教わっていた私は混乱してしまい、よくある毒親家庭の子の心理パターンをなぞる様になりました。

「私がよっぽど不完全で悪の傾向のある子だから、母からこのような事を言われるのだ」「しかも、父は助けてくれないのは、母の言う事に一理あるからだろう」と。

そして、「悪い子である私は、神に認めてもらえる様に努力しなければならない。その一つの方法としてJWにならなくてはならないのかもしれない」と。「そうすれば、親も認めてくれるだろう」

子供ながらに色々と悩み、考えましたが、ざっくりと要約するとこんな考え方になっていっていたと思います。

今まで聞いたことの無い、聖書の話を学ぶのが楽しいと感じている面もありましたが、それでも今、よくよく思い出してみると、どちらかと言うと私は何かに駆り立てられている様な心理状態でJWになっています。

母からの言葉の暴力は本当に怖かったんですよね。だから、その恐怖から逃れるためにちょっとでも慰めとなる言葉や、希望に心を癒しを得られる方法を探す必要がありました。

それがJWの教える聖書だったんですよね。

きっとJWでない人ならば、また別の所に心の拠り所を作っているでしょう。

JWとの研究を辞めるに辞められない

このような事もあり、JWの研究を辞めたいなと思うことがありつつも、研究を進めて行けば行くほど、「JWにならない」「JWとの研究を辞める」と言う選択ができなくなっていました。

見事に心が「何か」にがんじがらめに捉えられるようになっていました。この「何か」はおそらく、「安心が欲しい」「ちゃんとした人間にならなければならない」「認めて欲しい」「恐怖から逃れたい」等、色んな感情がごっちゃになった物です。

直視したくないものがあるから、JWに囚われる

バプテスマを受けて間もない頃の、「経験の少ない若い」うちは、自分の感情をなんとか、ポジティブなものを見る事で誤魔化していましたが、社会で色んなものを見聞きし、更にJW内の兄弟姉妹の振る舞いやその結果などを見ていると、心がぞわぞわとJWに対する違和感を警告する様になりました。

この違和感があってもすぐにその違和感の正体を突き詰めて調べる事をしませんでした。

早くに違和感の正体を探っていれば、良かったのでしょうが、やっぱり、その違和感から目を覆ってしまったのです。

この違和感に対しては、自分の育った家庭に対しても同様に見ない様にしていました。なんなら、私の家族はこのようないい面もあるのだよと自分を言い聞かせていました。

しかし、自分の人生が本気で辛いと感じ、この違和感に目を向け、探っていった時に、今まで信じていたはずのすべてのものが瓦解していきました。

私の中では、家庭内の問題を見る事と、JWの中の違和感を見る事は直結していたからです。

自分の家庭が毒家庭であること、自分が大事に育てられるどころか、親からないがしろに扱われてきたと言う事実を受け入れなければなりませんでした。

JWは「一人一人を気遣っている」と言いながらも、結局のところ、成員は駒の様なものでしか無く、本当の意味で一人の「人」を大事にしているかと言うと、そうではありませんでした。成員同士が温かい会衆はあります。しかし、組織全体として見た時に、そうであるかはまた別です。

ただ直視したくないものを直視する時の、心の抵抗感は強いですが、その時期を乗り越えると本当に今まで、体にかけてきた不必要な力がいらなくなります。

何かから目を逸らすことほど、精神的にも体力的にも消耗の激しいものは無いでしょう。

JWを通さない心の拠り所

今現在の私は、何か特定のもの一つを心の拠り所にはしません。

JWを離れて最初の頃こそ、不安定ではあったものの、ある程度年数が経ってからはハッキリと「離れてしまって良かった」と思いました。

JWにいた頃は、「JWとして忠実に生きなければならない!」と言う様な、一種の強迫観念を覚えていましたが、それも消えて行きました。

後は、脱会届を出すのみです。

心にポッカリと穴があり、自分の立っている足場がとても脆い物だと思うと、何かにすがりたくなるのものですが、その対象が必ずしもその人を本当に助ける物で無いと言う事の方が多いでしょう。

だから、自分で自分の心の穴を埋められるようにし、自分の足場を自分で固めていける様にしたいものです。


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