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「他力本願」って「人任せ」ってこと?~親鸞の教えからの学び~

おはようございます。1週間がとても早く感じます。

ブログを始めて4ヶ月が経ちました。月曜日にこのnoteを書くというのが習慣化してきました。毎日書いている方もいらっしゃって、凄いなぁと感心します。

今日は、ちょっとマニアックな記事になりますが、読んでくださる方がいらっしゃるかな?「親鸞の教えから学ぶ他力本願」を書いてみます。

私は45歳で武蔵野大学に入学し49歳で卒業しているのですが、武蔵野大学の建学の精神が仏教だったので、仏教について学ぶ機会を得ました。

学んでみるとかなり面白く、私が探究学習したいことのひとつでした。浄土真宗の宗祖である親鸞についていくつか本を読んだので、今日はまとめてみますね。

親鸞って?


親鸞は浄土真宗の宗祖です。平安末期の乱世に生まれ、9歳にして比叡山延暦寺に登り、20年間修業に打ち込みますが、生きるべき道が見つからず、山を下り法然のもとに行きます。

法然のもとに行ったからと言って、すぐに心の平安を得られたわけではなかったのですが、徐々に親鸞の心は法然の念仏の教えに導かれていきました。その教えに導いたものは、理論からではなく、法然の人間性であったようです。

親鸞という人間の思想と信仰は、親鸞の弟子の唯円によって書かれたとされている『歎異抄』で伝えられてきましたが、その『歎異抄』には、このように書かれています。

「念仏は浄土に生まれる原因になるのか、地獄におちるのかまったくわからない、ただ私は法然上人にだまされて地獄に落ちても良い」と言うことでした。それほどに、法然の人間性を信頼していたことがわかりますね。


では、法然の教えというのはどういったものなのでしょうか。その教えはそれまでの仏教とは違いました。

法然の教え

①「仏の功徳や仏の姿を心に思い浮かべる念仏」→「口で称える念仏だけでよい」という教え
②「仏の教えを誹謗するものは往生できない」という教え→「仏の教えを誹謗した者も往生できる」という教え
③「善行を積んだものだけが往生できる」という教え→「善行を積めないものでも往生できる」という教え

ただ一心にひたすら念仏することが大切ということです。
なぜなら仏は人々を救おうと願っておられるのだから、自分の力に頼って何かをするのではなく、仏の呼ぶ声に素直に答え念仏するだけでよいという教えでありました。


親鸞は、法然の教えの書かれた『選択本願念仏集』の書写を許され、念仏の教えを広めました。

内容は「雑行を捨て易行を勧める」「南無阿弥陀仏」を説く教えであるのは法然と一緒でしたが、法然の教えは「念仏重視」で念仏をどれだけ真剣に沢山称えたかによって、徳の積み方が変わるとしているのに対し、親鸞の教えは、称えた数よりも称える心を重視している「信心重視」と、仏を信じ念仏を称えるだけで仏にするというものでした。そして阿弥陀仏を信じ、「他力本願」ということです。


他力本願って?人任せということ?

一般的に、他力本願というのは、「他人任せ」「他人の力を当てにする」という意味でとらえている方も多いと思うのですが、親鸞の言う他力本願とは、自力の逆という意味ではないということです。

親鸞の言う他力本願というのは、修行の不可能な人間のために、仏を信じ、念仏を称えれば、阿弥陀仏の慈悲によって極楽へ行かれるということです。

これは、解釈の仕方が難しかったのですが、努力しないことではなく、努力しぬいてはじめて知る境地であるということです。要するに、努力し抜いたけれども、自分ひとりではどうしようもないんだということに気が付いた上での、ということだと解釈しました。

親鸞のもう一つの教え

親鸞の教えでもうひとつ重要なことは「悪人正機」です。『歎異抄』に書いてあることを要約すると、「善人でさえ浄土に生まれられるのです。まして悪人が生まれられないことはありません」ということです。

この解釈にもまた誤解が生まれやすいですね。「悪人でさえ浄土に生まれられるのだから、善人は当たり前に生まれられる」という風に解釈してしまいそうになるがそうではないようです。

自力に頼り善い行いをしようとする人は、他力の信頼する心に欠けている人であり自信過剰であるため、努力した上での気づき、自分はひとりではどうしようもない人間だということに気づき、ひたむきに他力に身を任せれば阿弥陀仏に救われるという意味だと解釈いたしました。

ん~、説明が難しいです。

生きるということ


人は、生きていく中で自力で頑張ってきたつもりでも、自分の気が付かぬところで様々な人に支えられ、また気付かぬところで支えていることもあると思います。

また、その逆もあります。気付かぬところで、傷つけられたり、傷つけてしまったり。

おそらく、それは生きていく上で避けられないことであり、人間の共通性であり、生きるということなんだと思います。そういったことを繰り返しながら、人間が成熟していくんだなと思います。

自分だけは人に迷惑をかけていないとか、傷つけていないとか、言い切れませんね。「おかげさまで」と謙虚に生きたいものです。んん、けどそんな風に思えることばかりじゃない(;^_^A
えへへ。

けどきっとそれが人間。愛しき不完全な人間。


探究学習中ではありますが、この記事は今後さらに学びを深めブラッシュアップしていきたいと思います。

マニアックな記事になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました♡


【参考文献】
渡辺暢雄(1991)『新約聖書と歎異抄 本当の救いはどこにあるのか』PHP研究所 

五木寛之(2007)『私訳 歎異抄』東京書籍 

加藤智見(2010)『親鸞の教え 図説あらすじでわかる!』青春出版社

佐藤裕之(2005)『仏教(自己をみつめる)』武蔵野大学

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