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独身兄貴が糖尿病の合併症で大変なことになったのだ!

うちの兄貴

うち兄貴という人は、姓名判断でも、誕生日占いでも、まあ大体が、「頭脳明晰」「性格は穏やか」「人当たりが良い」「美男美女が多い」と言われている。
確かに、当たっていると思う。
中学生の頃の私は、兄貴の取り巻きの女どもから「手紙を渡してこい」とか「写真を撮ってこい」とかパシリに使われ、そりゃまあ、少女漫画のような出来事が本当に起こるほど兄貴はモテた。
確かに、兄貴はいい人だ。なんつっっても、裏がない。腹黒いところがない。なかった。中学生くらいまでは、本当に、妹の私から見ても、兄貴はキラキラしていた。特定の彼女がいたことはないけれど。
だけど、なんだかわからないけど高校に進学した頃から徐々に、少しずつ、確実に、影を見せるようになった。そして、親とすったもんだがあって、東京の三流大学のマイナーな学部に進学した。
高校までは秀才・神童と呼ばれた兄貴なのに、大学の単位を落としまくり、東京の繁華街でバイトに明け暮れてバブルの時代を過ごし、大学の留年のための仕送りを持ってどこかに逃亡して何年か連絡が取れなくなった。
結局、大学を卒業したのかどうかはわからないけど、30歳近くなって、東京で暮らしているという知らせがあり、そこそこいい会社の新しい部署に就職したといって、年に数回は実家にも顔を見せるようになった。
就職してからの兄貴は、中学生の頃のようなキラキラした感じが少し戻っていた。実家の近くに住む弟夫婦の子供たちをとても可愛がり、旅行に連れて行ったり、誕生日のプレゼントをしたり、子供たちの成長を記録したフォトブックを作っては家族や親戚に配っていた。
ただ、子供たちが小学校高学年になった頃からは、他家と同じく、子供たちは家族と過ごすよりも友人関係を優先するようになり、当然、兄貴と過ごす時間も減っていった。そのせいか、兄貴は実家に帰省しても手持ち無沙汰にしていることが多くなったように思う。そのうちに、帰省する回数も、日数もだんだん減ってきたが、母親とはマメに連絡をとっていたらしい。

糖尿病になった兄貴

兄貴と母のベッタリな関係については、いい歳をして親離れできない兄貴と、子離れできない母親の馴れ合いであると私も弟も思っていたが、兄弟の中でひとり独身の兄貴が母に甘えることくらいは目を瞑っていた。
2019年から新型コロナウィルスの猛威で外出が規制され、私も兄貴も実家へ帰省することができなくなったが、兄貴はその少し前から糖尿病が悪化して人工透析になっていて、宿泊をするような遠出は難しくなっていたらしい。それでも盆と正月は実家に顔を見せ、月に何度かは母とは電話で話をしていたらしく、透析を心配する母には「大丈夫」を繰り返していたという。
2022年の晩秋、私のところに電話をかけてきた母は、「大変なことになった」と繰り返し繰り返し叫んだ。私は母親とは今ひとつ折り合いが悪く、実家に帰省するのは年に1回程度だし、コロナの流行をこれ幸に実家には足が遠のいていたし、母親から私に電話がかかってくるとすれば、年に2回くらい、地元の名産品を送ったという知らせがある程度だ。その母が、私が仕事中の時間に電話をかけてきたので、なんとなく「あ、兄貴になんかあったな」とピンときた。
聞けば、兄貴が救急搬送され、手術が必要だという連絡が東京の病院からあったらしい。その病院名を聞いた時、これは確かに「大変なことになった」と私も感じた。高度医療を必要とする急性期の患者を受け入れる病院と思ったからだ。
透析をしている兄貴が「大変なことになった」場合というのは、おおよそ想像できたから。

入院 手術1

実家から東京の病院までは約2時間。サラリーマンの弟は仕事があり動けず、関西に住んでいる私の方は自由業ではあるが仕事が山積みでその日中に東京に着くのは難しく、東京の病院には母が一人で向かうことにした。
病院からの電話で母に対して兄貴の状態が説明されたようだが、動転した母は要領を得ず、とにかくその日中に「手術」をするということだった。母は手術をすれば「治る」と思っていたところもあったようで、大変だと言いながらも兄貴を看病する気満々で、着替やなんやをカバンいっぱいに詰めて東京に向かった。
だが、母との電話の後、主治医(腎臓内科)から私にかかってきた電話で聞いたのは「感染症」。その原因かどうかはわからないが、足の傷の治りが悪く、血行障害を起こしているとのことだった。糖尿病の兄貴に、足の傷。
ああ、やっちまったな、と思った。
兄貴の手術は医者に任せるしかないのだが、どちらかというと兄貴の状態を知った時の母の方が心配だったので、私は翌日の仕事を整理してスケジュールをあけ、日付が変わり「丑三つ時」の頃にマイカー自走で東京に向かった。
私が住む関西から東京の病院までは車で6時間かかるが、新幹線の始発を待つよりは車の方が早く着く。夜明けの富士山を眺め、海老名SAを過ぎると多少の渋滞があったが、東京の病院には朝早い時間に到着して母と合流し、集中治療室で手術を終えた兄貴を見た。意識はなく、人工呼吸器に繋がれて、機械的に空気を入れられて、時々ぶるるるっとお腹を震わせる、蝋人形のようになってしまった兄貴。しかも、父が亡くなった時の顔にそっくり。左足には、膝から下に包帯が巻かれて見えないようになっていたが、たぶん壊死が進んでいるんだろうなあと思った。
その後、母と共に主治医から治療についての説明を受けた。手術をして左肩に生じた血腫を取り除き感染箇所の洗浄をしたが、感染の数値は下がり切ってはいない、左足は切断しなければならないだろう、他の四肢にも血栓が生じており切断の可能性がある、心臓や肺にも影響が出ている、というような内容だったと思う。なかなか厳しい状態で、腎臓内科だけでなく、血液内科、整形外科などがチーム体制で対応するということだった。
説明を聞いて、壊死している左足をすぐに切らないのは、切断することができなほどに全身の状態が悪いのだと悟り、「あの兄貴も、もはやこれまでか」と思うと泣けてきた。一方で母は、四肢を切断する可能性があるなら、もう何も治療しないで欲しい、呼吸器も外して欲しいと願い出る暴挙。さすがに主治医が「治療を続けます」と言って遮ったが、延命措置・蘇生措置は希望しない旨の確認書類を作成した。
いずれにしても、兄貴は今この瞬間にも急変してしまう可能性があったので、弟も呼び寄せ、蝋人形のような兄貴を囲んで家族4人で短い時間を過ごした。
私と弟は、呼吸器で息をしているだけの蝋人形のような状態であっても、息をしている兄貴と最後に会うことができたから、もう、これでいいや、あとは兄貴の生きる力に任せようという気持ちで、なんとなく落ち着いた。
ただ、母は「早く楽にしてあげたい」という気持ちを「率直な言葉」で口走るので、私と弟を苛立たせた。

兄貴、奇跡の生還

覚悟を決めたものの、急変はなかった。
それから3日後に、弟が母を連れて病院に行った。老齢の母ひとりで東京の移動は難しいことと、あまりに悲観的な母を心配して、病院へは私か弟が交代で行くことにしたのだ。
面会した弟は、兄貴が少し口を動かしたり、目を開けようとしているかのような仕草をすることに気がついた。意識があるのかないのかはわからないものの、蝋人形のような状態ではなかったようだ。だが、その横で、母は相変わらずも悲観的な言葉を発したりしていたらしい。
さらに3日後、主治医から説明があるというので、今度は私が病院に行った。母は、目覚めることがない兄貴にショックを受けて、電話が鳴るたびに「悪い知らせかもしれない」とビクビクして過ごしており、食事もほとんど摂らず、とても東京に行ける状態ではなかった。
そのため私が一人で行くことにして、新幹線の始発で東京に向かった。病院に行き、「先に面会を」と促されて病室に入った時、賑やかなバラエティ番組の音声が聞こえた。そして、その部屋のベッドには、上体をわずかだけ起こして横たわり、テレビを見ている中年男性がいて、最初、それが兄貴だとはわからず、病室を間違えてしまったかと焦った。
だけど、その男は、父親にそっくりな顔をした兄貴だった。
呼吸器がついていたので話すことはできないが、「母は来ないのか」「弟はどうしてる」と、口をぱくぱくさせているのは、やっぱり兄貴だ。
びっくりした、「生き返っていた」のだ。
医師の説明では、昇圧剤や透析を絶妙なバランスでギリギリの綱渡りのような治療が功を奏して、若干、容体が安定しているということだった。そして、この状態で、感染症の一番ひどい左肩部分の再手術をして洗浄した上で、左足切断をすることになった。手術によって、また危険な状態になるかもしれなかったが、「切るなら今しかない」ということになったのだ。
足の切断については、切断に反対意見の母が来ていない時だったが、兄貴の意識があったので本人の同意が得られたのがよかった。もしかしたら母が来ないのを見越してそういうふうになったのかもしれないと少しだけ思った。

手術2そして3 兄貴、左足を失う

その日のうちに、まずは感染症の再手術をすることになった。緊急手術だったので、手術室が空いたら「やる」という段取りで、兄貴が手術室に入ったのは夕方だった。手術の同意書やいろんなリスクの説明書、同意書などを作成し、手術室の前まで兄貴のベッドに付き添った。この手術を乗り越えることができれば、翌日に足の切断をすることができる。壊死しているそれは、兄貴の体の他の部位にも悪影響を及ぼす可能性がある、厄介なお荷物になっていた。足を残すという選択の余地はなく、足の切断ができるかどうかが、兄貴の回復可能性に大きく影響していた。
夕方に始まった手術が終わり、医師に呼ばれたのは、普段の私なら寝ている時間、夜遅くだった。ICUに戻った兄貴に面会できるというので行くと、うっすら目を開けて、うんうんと唸っている。よかった、なんとか蝋人形にはならずに済んだようだ。
翌日は昼前頃に病院に行った。兄貴は、麻酔も切れて、意識もはっきりしているようだった。どうやら肩の手術は乗り越えて、足の切断手術に進めそうだった。
この日は足がむき出しの状態になっていて、左足は足先が真っ黒で、脛の辺りは赤黒くジクジクと液体が漏れているような状態だった。医師からは「すでに感覚もなくなり冷たくなっている」との説明があり、膝上の切断になるということだった。
また、「切断した足をどうするか」と聞かれた。そのまま処分してしまう人もいれば、火葬してお骨にして持っておく人もいるそうだ。兄貴に聞いたら「残しておいてほしい」というのだが、医師が「その場合は費用がかかります」と言うと、兄貴は少し迷ったような顔をした。兄貴が、火葬費用の心配をして一瞬悩んだとは思えないが、自分の体の一部がこの世からなくなってしまうのは悲しいなと思った私は、「お骨にしよう」と兄貴を後押しした。
足の切断手術は、昼過ぎくらいから準備されて15時頃に手術室に入った。前日の様子から、手術が終わり麻酔が覚めるまで病院にいたとしても、東京発の最終の新幹線で関西に帰ることができるとできると思って待合室で過ごしていたが、なかなかその時は来なかった。結局、担当医から手術の結果はそれほど悪くないと言うことを聞いて、すやすやと麻酔で眠る兄貴の寝顔を見て、どうにか大丈夫そうだと判断し、その日は帰った。(余談だが、この日は本当に終電ギリギリの時間だったが、なぜか最終の新幹線の発車が5分程度遅れたため、間に合ったようなものである。)

大変なことは、まだまだ続く

「生き返った兄貴」に会ったのは私だけで、母や弟は蝋人形のような兄貴しか見ていない。そのため、「兄貴がテレビを見ていた」ということをなかなか信じてはもらえなかった。
母は病院に面会に行くと言い出したが、タイミング悪く、弟夫婦は新型コロナの濃厚接触者になってしまい面会に行くことはできず、弟が母と接触すれば、母も病院に行くことはできなくなってしまう。そのため、関西で離れたところに住んでいる私が、再び、母の付き添いで病院に行くことになったのだ。
考えてみると、私も弟も、兄貴の面会についてはそれほど負担に感じていないのだが、どちらかというと、兄貴を心配している母のお守りをするのが、結構キツイのだ。それは、母が兄貴を過度に心配して可愛がるだけでなく、思っているまま言葉を発してしまう性格だったり、糖尿病についての無理解だったり、そんなことが影響している。ただ、私と弟は、そんな母のことも、放ってはおけないと思ってしまうのだ。
このあとも、いろんなことが起こるのだけど、ひとまず今回はここまでとする。

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