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「すずめの戸締まり」と村上春樹「かえるくん、東京を救う」と何者かになることについて

 「かえるくん、東京を救う」を読んだ人が「すずめの戸締まり」を見た時に、その共通項を発見するのは難しいことではない。災いの象徴が「みみず(くん)」の時点で影響受けているであろうと簡単に想像がつく。
 この2作品はともに震災(「すずめの戸締まり」は東日本大震災、「かえるくん、東京を救う」は阪神淡路大震災)をバックボーンに持つ物語である。しかし、そこには確かに共通項はあるものの、大きな相異点もある。その相違点を一言で言ってしまえば「時代」なのだと思う。
 この記事は他の場所で散々言及されてるであろう共通項はあまり触れず、それぞれの時代性について酔っ払った脳みそで語ろうと思う。

※お断り

 はじめに断っておく。私は20代中盤のぎりぎりZ世代と言われる年代のため、1990年〜2000年代について詳しくない。ただし、2010年代については生身で感じてきた世代であるため、2010年以前の考察については眉唾もの程度で流してもらって、2010年以降の内容を読んでいただきたい。
 

「かえるくん、東京を救う」での何者
 


 表題の2作品を語る上で、ひとつキーワードとして「何者」と言う単語を挙げてみたい。
 かつてバブルまでの時代はその時々の波に乗っていれば何者かになれた、明日が今日より良くなることを心から信じれた安心の時期だった。しかし、バブル崩壊以後の失われた30年間は、時代が勝手に何者かにしてくれる訳ではなく、自らの力によって何者かになるしかない時代である。

 「かえるくん、東京を救う」の主人公である片桐は、バブル時代の割を喰らった何者にもなれない人間として象徴的に書かれている。この作品以前の村上春樹は世の中に無関心で、ともすれば厭世的とも取れるような人物を描くことが多かったが、この何者でもない片桐はセカイの問題(=肥大化したみみずくん)に対峙し、かえるくんと東京を救うキャラクターとなっている。しかし、ここでの戦いは現実的な戦いではなくイマジン(想像)内での出来事であった。
 これは2011.3.11年以前の戦いである、思想の異なる東西での冷戦や、オウム真理教という宗教との戦い等、観念的なイマジンを源泉とした戦いを象徴してると言える。
 そして、イマジンでの戦いを終えた片桐は醜く散っていくかえるくんの最期に飲み込まれた後、さも夢オチかのように現実に目を覚まして、誰にも理解されず何者にもなれずに物語は終わりを迎える。
 そしてこの、イマジンで戦い、何者にもなれない時代は2011年3月11日まで続く。
 2011年の、地下鉄サリン事件をモチーフにした作品である「輪るピングドラム」では、現実の事件を元にしながらもイマジンでの戦いが中心に行われ、最終的に主人公たちは消える(=何者にもなれない)のである。
 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」の前に「イマジン」と叫ばれるシーンが象徴的だろう。
 
※輪るピングドラムの放送は3.11以後だが、制作時期や地下鉄サリン事件をテーマにしている点で3.11の影響を強く受けている訳ではないと考えている


何者とは(3.11以後)

 前章で述べたように3.11以前は「イマジンで戦う結果、何者にもなれない」時代であった。
 しかし、3.11で事態は一変した。東北を中心に大きな地震、その後の津波。何万人単位の人が死んだ後に原発による避難。
 その酸鼻な災害はイマジンの中に生きていた人々を現実に回帰させ、「戦った結果、何者にもなれない」で終わることを許さず、「何者かにならなければいけない」呪いの時代に変えてしまったのである。
 3.11以降の作品界では「何者にどうやってなるか?」の模索が多くの作品でなされていた。
 ここで朝井リョウ原作の「何者」と言う映画を紹介しておきたい。この作品はSNSの裏アカを使って他人をこっそり批判することで安易に何者かになった気でいた主人公が、終盤で垢バレし、批判の目に晒されることで現実に回帰していくというものである。当事者性を持たずに外部から批判的することで何者かになった気になることを許さず、現実に向き合うことで何者かになる道を歩ませようとするストイックな作品である。この作品は3.11以後を象徴する作品であると思う。

 このように3.11以後は「現実と向き合い、何者にどうやってなるか」を模索していた時代だと思う。

※ Z世代が妙にリアリスティックで冷めているのは、3.11以後の時代をビビットに感じて育ち、「現実と向き合い」続けた世代だからだと思われる。

「すずめの戸締まり」での何者

 3.11以後「どうやって何者になるか」を模索してきた我々であるが、結論から言えばこの試みは失敗したのだと思われる。
 人々は頑張ってもそうそう報われない現実に傷ついた。
 ラノベやアニメで「ソードアートオンライン」をはじめとした俺つええ系やなろう系と言われる作品群が2011年以降乱立した。これらの作品群が流行ったのは、強い主人公に読者が自分を投影することで、安易に何者かになった気になり、何者かにならなければいけないと言うプレッシャーからの逃避として使われたからであろう。
 現実世界は経済状況をはじめ、何者かになるためにはあまりにも厳しいものであった

 さらに我々にはコロナ禍が降りかかってきた。
コロナ禍はイベントや大会をはじめとして、何者でもない者が自分語りすることでちょっとだけ何者かになれる機会であった飲み会を人々から奪うことで、さらに事態を深刻化していった。
 
 「すずめの戸締まり」はそんな時代をセンシティブに描き、そして戦いに敗れた過去を綺麗に包み込んでくれた作品であったと言える。
 「すずめの戸締まり」は各地の災厄(=呪い)を人々の善意(=祝福)の手助けを借りながら鎮めていく物語である。これは3.11とコロナ禍と言う呪いに、我々はボランティアや医療従事者の尽力など人々の善意や好意と言う祝福で立ち向かった現実そのものである。
 そして、物語の最後は主人公のすずめが自分のトラウマである親の喪失と向き合い、戸締りすることで幕引きされる。これは一見、3.11の当事者が過去と向き合い乗り越える描写のようにも見えるが、それだけではなく、「何者かにならなければいけない」と言う脅迫じみた呪いと戦い敗れた我々の姿の描写だったのではないだろうか。
 だからこそ、3.11に当事者性のない我々でも心を震わせる作品になっていたのではないかとそう思うのである。

むすびに

 おそらく我々は何者かになることはないであろう。それは現実の経済状況や社会問題、天災と言う呪いが我々の未来に立ち塞がっているからであるる。しかし、人々の善意や好意と言う祝福がある限り決して未来が暗いだけではないのである。
 今回はあえて呪いと祝福を二項対立させることで、その表裏一体性について言及しなかった。まぁぶっちゃけそれ書くと長くなるからやめたのが本音である。機会があったらそこまで書くかもしれないが、今はとにかく眠い。「すずめの戸締まり」を観た興奮そのままに、育児家事が終わった夜12時から4時まで勢いだけでこの駄文を書き連ねたからである。 
 なので、痴文、乱文であったがお目溢しいただけると幸いだ。
 最後に新海誠作品は最高なのでみんな全部見よう!おやすみなさい!

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