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【真夜中のひとりごと】毒親なのか?まだまだ母の呪縛と戦い中!それでも少しづつ癒えてくるノートの力。

約10年前に自分と向き合うことやセルフイメージ、自己肯定感ということを学び始めてからずっと家族との関係、特に母との関係について何度も何度も向き合ってきました。


私は本当に母との結び付きが強かったんです。良くない形で。


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「毒親」という言葉もありますが、我が家は毒親なのかどうかは分かりません。
ですが、すごく母との距離が近かったこともあり、知らず知らずのうちに「私の喜び」イコール「母の喜び」と無意識に認識していました。



だから、私自身は幸せとか不幸であるとか感じる以前に「こんな風に母を幸せにしてあげたい」という思いが子供の頃から強かったように思います。


そういう思いを無意識に持っていたこと、そして自分の幸せと自分以外の、人の幸せは別であると知ってから自分と他人というのを分けて考えることがスタンダードになりました。

こんな風に文字にしてしまうと、冷たいと感じることもあるかもしれませんが
家族だけではなく友人や知人、社会における人間関係や恋愛でもこれは変わらないのです。


そんな風に、人間関係という大きな枠組みとしても、家族や近しい人との間柄の人間関係というのも、自尊心やセルフイメージなどの視点から学び始めた頃はとても重点的に意識していたと思います。

そこで約8割9割ぐらい体感としては改善したかな、いい関係性を築けるようになったかな、自分の中のいわゆるインナーチャイルドと呼ばれるものも少しずつ少しずつ癒えてきたように思います。


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でもやっぱり長年培った、無意識の思いというのは簡単には自分の思うようにいくわけではないというのが私の体感です。


集中的に見つめ直して、捉え方を変えて、意識や習慣を変えてきても
やっぱりまだ少ししこりになっていることもあるなぁっていう風に感じます。



最近ふと感じたことは、私がこんな風に楽しいんで生活していて楽していて申し訳ないという気持ちでした。

その奥には、私はこんなに楽しいんで楽に生きているけれど、お母さんはいつも苦労しているイコール不幸である、かわいそうという風に無意識に思っていたのです。



今回そんな風な認識をしているということにやっと気づけた、無意識に気付けたという状態。



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(習い事も自分で稼いでいるからしてもいいと思っていました。)



自分でも度々こういうことを思っていたし
以前その10年前から何度か考えていたことでもあるし
約10年ほど前にもそういう考え方は失礼なんだなと思って書き換えたつもりでした。
その時は書き換えることができていました。


でも約10年ぐらい経って、今また同じことが出てきたというのは
もう少し癒すのに時間がかかるんだなと思います。


人間関係では、私自身とそれ以外というのは分けて考えています。
というのも1人1人感じる幸せや豊かさの基準は違う、そして価値観も違います。
1人1人違う価値観や基準は自分でしか変えられない、つまり他人を変えることはできないというごくごく当たり前の前提があるからです。


そして、今回気づいたことでどうやらこれがお金のマインドに繋がっていたことが分かりました。


母はずっと苦労していて幸せそうじゃなくて可哀想と勝手に私が思っていたということです。
そこに自分の現状をくっつけて自分の幸せを申し訳なく思いながら受け取っていたということが分かりました。
そこに申し訳ないからこそ私が頑張って稼いで恩返しをしなければとも思っていたのです。
単純に「そうしたくて」ではなくて、可哀想だからがスタートでした。


勝手に母を可哀想認定していて、さらに、だから私は受け取ってはいけないと無意識に思い申し訳なく思うからこそ、その申し訳なさを援助する
役に立つという形で返さなければいけないと思っていたということです。



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(お金の流れを変えてくれた“カケイボ”手帳♪)


書き出してみると、本当にびっくりしましたが、でも裏を返せばそのくらい家族の幸せを願っているということでもあります。


どういう視線で、どの面を見るかで見えるものも変わります。

これが可哀想であるという見方でなく、もっと幸せを感じてもらうためには私は何ができるかなという視線であればよかったのですが
今までの私はすっごくすっごく失礼な見方をしてしまっていたということになります。



人は見られたような振る舞いをするということが言われています。

つまり、私が母を可哀想な人と言う視点で見ていれば、私の前では可哀想な人を演じるということです。
本当に母の幸せを願うならば、私ができることはまず既に母は幸せであるという視点で見ることです。


その上で更に私に出来ることはなんだろうと考えていく。

書き出してみて、なんて失礼な見方をしていたんだと心底驚いたからこそ、その衝撃があったおかげで意識を変えることが簡単になるのです。

気づくことのすごさというのはここにあると私は思っています。