ダイバーシティの考え方には、ズレた人間を許容する精神が欠けている
こんばんは。
東京の地下鉄がやたら暑いので、コートいらなくていいな~と思っていたのですが、汗をかきながらコートを着ている人がいるんですね。
どうやらかっこいいコートを着ることがステータスだと思っていて、多少暑くても着ざるを得ない人が多いらしく、驚いています。
東南アジアもガンガンに冷房かけてジャケット着るのがオシャレという価値観がホワイトカラーにあるようなので、似たようなもんなんですかね。
虚栄心こそ消費の源泉ということでしょうか。
さて、今日は(#男子校で学んだことは、社会でどう活かせているか) というテーマで書いていきます。
ずばり結論から言うと、許容できる個性の幅がめちゃくちゃ広いということに尽きますね。
異性の目がないところにいると、取り繕う必要が無いため、どんどん本質的な姿を見せるようになってきます。
男の嫉妬は恐ろしいと言いますが、これはあくまでも誰かに見栄を張りたい前提がある状況での話で、モテるかどうか関係ない場面では他人が自分より優れているかどうかなんてどうでもいいんですよね。
だからいちいち他人がどうだから怒るとか貶めるとか、そういった邪魔が入りにくく、個性がどんどん炙り出されていく傾向にあります。
男子校には、親が教育熱心でパーフェクトヒューマンみたいな人もいれば、ロッカーでヘビを飼育しているクリミナルな人もいるし、突然教室から飛び出してしまう社会不適合者から、同じゲーム機を何台も持っているようなわかりやすいお坊ちゃままで、幅広く出現します。しかも、彼らはそれを隠しません。
もちろん学生なので好みで派閥やグループはできるものの、この環境を経験することで、個性として認知する幅がものすごく広くなるのが、今振り返ってみるといいところだなあと思います。
会社に入って変人扱いされている人に会ってみると、意外とそうでもないと思えたり、過去に見たことがあるタイプだったりするので、対処の仕方や付き合い方を、他の人よりもうまくできる素養が習得できます。
考えてみると、日本企業が掲げているダイバーシティって、国籍や性別の話ばかりで、人格や性格の要素に対してはあまり言及されないですよね。
「女性でもガンガン出世できます」とは言いますが、「セミが大好きでセミの気持ちになりたくて土に埋まるような嗜好の人でも出世できます」という風に言っている企業は見たことがありません。
それは冗談としても、日本の社風は個性に意外と非寛容ですよね。
それはすなわち、「みんなと違うことをする」「ピントがズレた話をする」「クレイジーな言動が多い」「服をちゃんと着られない」といったようなことを、”能力が低い”という扱いをすることに帰結しています。
これは実は日本だけではなくて、多様性を許容することを掲げる多くのグローバル企業は、その裏で能力的にものすごく高く固定化された水準を持っているという特徴があります。
平たく言えば、「自由な社風と働きやすい環境は提供するけど、学歴と実績はよろしくね。」といったような感じですかね。
僕は個人的に、これがダイバーシティの本質だとは思いません。
世の中が肯定するダイバーシティというのは、「がんばっている人ならどんな出自でも評価しようね」ということなんですよね。
僕は、頑張れない人でも、つい悪口を言ってしまう人でも、裏切って騙して反省して繰り返してしまう人でも、これをどう生かし、組織に取り込むかというのが、本来のダイバーシティだと思います。
更正施設でもない限り、こういった人たちをマネジメントできないのが営利を目的とした企業という仕組みなので、ここらあたりは諦めましょうということなのでしょうが、この狭義の多様性承認が、ダイバーシティという言葉のうさんくささなのかもしれません。
僕も、よくこんな酷いこと言えるな、とか、人として下の下だな~と思うような人にもたくさん会って来ましたが、この人たちを企業という枠で許容していくのは本当に難しいんですよね。
それでも、何か新しい仕組みをつくってでも、社会の中にこの人たちの居場所をつくっていかないと、最終的にはダイバーシティが意味している状態とは全く異質の世の中ができあがってしまうような気がしてなりません。
なんとかならないものでしょうかね。
個性の面白さや可能性を体感する機会があったからこそ、これからも考えてみたいと思います。