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すると偉い先生方が、「田中角栄裁判については渡部昇一という人が言っているのが正しいだろう。しかし、相手が田中角栄なんだからみんな黙っていよう」と言った。

そこで『諸君!』編集部が田中事務所に「反対尋問の請求はしたのか」と問い合わせたところ、田中事務所の返答は「反対尋問の請求をしたが裁判所に却下された」というものだった
2019年06月02日
以下は渡部昇一氏の論文からである。
以下は前章の続きである。
憲法学者は敗戦利得で腐っている 
東大の法学部の教授は、いままで私が言ってきたようなことを言い続けるべきだった。
しかし、そんなことを言ったら公職追放令に引っかかってしまう。 
そこで、宮澤悛義東大法学部教授が「8月革命説」を唱えた。
8月革命説とは、昭和20年(1945)8月のポツダム宣言受諾によって、主権の所在が天皇から国民に移行し、日本国憲法は主権者となった国民が制定した、と考える学説で、主権の所在の移行を法的な意味での革命と解釈したのだ。 
すべての諸悪の根源は、この宮澤教授とその門下生である。なかでも、病的な平和論者に芦部信喜東京大学名誉教授、樋口陽一東京大学名誉教授がいる。 
そして恐ろしいのは、嘘に基づいた憲法が司法試験や公務員試験の試験官の考え方になっていることだ。
これが日本に一番、害をなした。
つまり、嘘が権力になったのである。 
憲法学者の多くがインチキだという証拠を、私は実際に体験している。 
田中角栄元総理が被告となったかつてのロッキード事件の裁判において、コーチャン(ロッキード社副会長)、クラッター(元東京駐在事務所代表)に対する嘱託尋問があった。当時、雑誌『諸君!』の編集長だった堤堯氏に、私は「あれは反対尋問をさせてもらったのですか?」と質問した。 
そこで『諸君!』編集部が田中事務所に「反対尋問の請求はしたのか」と問い合わせたところ、田中事務所の返答は「反対尋問の請求をしたが裁判所に却下された」というものだった。 
憲法37条には、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ」(下線渡部)と明解に書いてある。
つまり、反対尋問をする権利がある。
それを裁判所は蹴ったのである。
反対尋問にさらされない調書というのは価値がない。
不十分ではあったが、あの東京裁判でさえ反対尋問はやっているのだ。 
私は『諸君!』に「反対尋問を却下するとはおかしいではないか」ということを書いたが、堤氏は「いろんな検事と話をしたけれども、この指摘、が一番痛いと言っていた」と話してくれた。
しかし一審でも二審でも、反対尋問をやらないことに対して「おかしいのではないか」という意見は採用されなかった。田中角栄氏、が亡くなったあとに最高裁で下った判決のなかで、やっと「この裁判は不適当な手続きによって進められた」という主旨のことが述べられた。
デュー・プロセス(適正手続)によらなかったということをようやく最高裁が認めたのだ。
つまり、「まともな裁判ではなかった」と最高裁が認めたのである。 
私はこの件について『朝日ジャーナル』で立花隆(注1)氏と論争したが、検事側のマウスピース(代弁者)の役をしていた立花隆氏はこの点については決して答えようとせず、ごまかして逃げてしまった。 
その後、慶応大学の憲法学の教授で小林節氏という方にお会いした時、小林さんが私を尊敬しているというようなことを言ってくれた。
憲法学の先生に尊敬されるような覚えはないが、と思っていたら、こういうことをおっしゃった。 
小林さんが慶応大学の助手の頃、憲法学会があった。
学会のあとで偉い先生方の集まる二次会があり、助手であった小林先生は末席で話を聞いていた。
すると偉い先生方が、「田中角栄裁判については渡部昇一という人が言っているのが正しいだろう。しかし、相手が田中角栄なんだからみんな黙っていよう」と言った。
それを聞きながら助手である自分は非常に憤慨した、と。 
敗戦後の日本の憲法学者というのは、この程度なのだ。
百地章氏や西修氏などのような真っ当な憲法学者は、東大法学部から連なる利得で骨の髄まで腐ったグループには属していない。
偉いと言われる東大法学部などの憲法学者ほど、敗戦利得者の利得の分け前を得た人たちなのだから信用できないということを忘れてはならないのである。  
(注1)立花隆(1940~)ジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家。昭和49年(1974)、雑誌『文藝春秋』に掲載した「田中角栄研究~その金脈と人脈」が大きな反響を呼び、田中首相退陣のきっかけとなった。 

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