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NHK、これでいいのか 旧ソ連のフェイク裁判を鵜呑み「731部隊」特番を斬る!

われわれの見るところ、背中に銃をつきつけられている人物から、その人物をとらえている者たちの考えに反する好意的な証言を
2018年04月06日
以下は月刊誌正論今月号にシベリア抑留問題研究科・翻訳家長勢了治氏が「NHK、これでいいのか 旧ソ連のフェイク裁判を鵜呑み「731部隊」特番を斬る!」と題して掲載した労作の続きである。
自白と拷問 
ソ連では逮捕-取調ベ-裁判-判決という形式は一応あった。
しかしそれらの内実は西側の司法制度とは大きくかけ離れたものだったのだ。
若槻泰雄の『シベリア捕虜収容所』などによれば、密告が奨励され、拷問が常套手段として使われ、自白が偏重され、裁判ではまともな弁護が行われず、実行行為ではなく企図や思想や職務が裁かれ、欠席裁判が横行し、銃殺や過重な長期刑が科されたのである。 
容疑者は監獄か収容所で取調べられるのだが、夕方から始まって深夜や明け方に及ぶのが常だった。
以下は月刊誌正論今月号にシベリア抑留問題研究科・翻訳家長勢了治氏が「NHK、これでいいのか 旧ソ連のフェイク裁判を鵜呑み
「731部隊」特番を斬る!」と題して掲載した労作の続きである。
自白と拷問 
ソ連では逮捕-取調ベ-裁判-判決という形式は一応あった。
しかしそれらの内実は西側の司法制度とは大きくかけ離れたものだったのだ。
若槻泰雄の『シベリア捕虜収容所』などによれば、密告が奨励され、拷問が常套手段として使われ、自白が偏重され、裁判ではまともな弁護が行われず、実行行為ではなく企図や思想や職務が裁かれ、欠席裁判が横行し、銃殺や過重な長期刑が科されたのである。 
容疑者は監獄か収容所で取調べられるのだが、夕方から始まって深夜や明け方に及ぶのが常だった。
寝静まった夜更け、薄暗い電灯の下で尋問されるだけで恐怖を覚えさせる。
不眠と疲労で意識がもうろうとするなか自白を迫るのは一種の拷問だった。
取調官が拳銃をちらつかせて脅すこともよくあった。
このほか絶食、減食、水攻め、寒冷攻め、脅迫、暴力などがあった。 
85%の受刑者が種々の拷問を受けたとの「ソ連長期抑留者同盟」(のちの朔北会)の調査があり、深夜の取調べを加えれば100%と見ることもできる。
なぜ拷問が横行したかといえば、ソ連の取調べが物的証拠による立証ではなく、自白書にサインさせることを最重視したからである。
アン・アプルボームも『グラーグ…ソ連集中収容所の歴史』で指摘しているように、スターリンは自白が事実の証明だと信じていたから自白が証拠の女王であった。
これが冤罪を生む。 
収容所国家の檻の中で「生殺与奪の権」を握られ、孤立無援の無力な日本人が否応なく自白を迫られたことを忘れるべきではない。 
この際、東京裁判でブレイクニー弁護人が述べたつぎの至言を思い起こすのも無駄ではあるまい。《われわれの見るところ、背中に銃をつきつけられている人物から、その人物をとらえている者たちの考えに反する好意的な証言を得ることはまったく期待できない》(アンドレイ・イーレシュ 『KGB極秘文書は語る』より)
ハバロフスク裁判の被告と証人は背中に拳銃を突きつけられていたのも同然だった。
不眠と疲労で意識がもうろうとするなか自白を迫るのは一種の拷問だった。
取調官が拳銃をちらつかせて脅すこともよくあった。
このほか絶食、減食、水攻め、寒冷攻め、脅迫、暴力などがあった。 
85%の受刑者が種々の拷問を受けたとの「ソ連長期抑留者同盟」(のちの朔北会)の調査があり、深夜の取調べを加えれば100%と見ることもできる。
なぜ拷問が横行したかといえば、ソ連の取調べが物的証拠による立証ではなく、自白書にサインさせることを最重視したからである。
アン・アプルボームも『グラーグ…ソ連集中収容所の歴史』で指摘しているように、スターリンは自白が事実の証明だと信じていたから自白が証拠の女王であった。
これが冤罪を生む。 
収容所国家の檻の中で「生殺与奪の権」を握られ、孤立無援の無力な日本人が否応なく自白を迫られたことを忘れるべきではない。 
この際、東京裁判でブレイクニー弁護人が述べたつぎの至言を思い起こすのも無駄ではあるまい。
《われわれの見るところ、背中に銃をつきつけられている人物から、その人物をとらえている者たちの考えに反する好意的な証言を得ることはまったく期待できない》(アンドレイ・イーレシュ 『KGB極秘文書は語る』より)
ハバロフスク裁判の被告と証人は背中に拳銃を突きつけられていたのも同然だった。
裁判といえぬ裁判 
容疑者は大部分が内務省の軍事法廷において裁判を受けたが、一部は内務省の「特別会議(オソ)」という名の欠席裁判で裁かれた。 
若槻泰雄の前掲書によると、裁判は被告人の国籍、氏名、年齢などの人定尋問に始まり、検事の論告がある。
論告と言っても、取調べで無理やり自白させ署名させた供述書によるものか、強要された証人の供述書を読み上げるのである。
この間、5分から数10分、1時間以上はまれだった。
ほとんど被告人の反論も許されないまま審理が終わり10分ほど休憩ののち判決が下される。 
まれに弁護人をつけることがあったが、弁護はしなかったので実質ゼロだった。
しかもハバロフスク裁判を除いてすべて非公開だった。
弁護人のいない裁判、審理らしき審理のない裁判を公開できるはずもなかったのだ。 
だがこのような裁判でもソ連にとって十分ではなかった。
膨大な人びとを収容所や監獄に送り込むには非効率だったのである。そこで考え出されたのが「特別会議(オソ)」である。
これは「欠席行政裁判」「書類裁判」と呼ぶべきもので、裁判を開くことなく、単に書類決裁だけで有罪を宣告したものである。 
罪状についていえば、「戦犯」容疑で逮捕しながら、ほとんどはロシア共和国刑法第58条の「反革命罪」で重刑を科すという詐術を用いた。
犯罪の実行行為ではなく「企図」や「前職」を根拠にして、スパイ罪や資本主義幇助罪などに処したのだ。
カタソーノワ編の資料集『ソ連における日本人捕虜』によると、日本人「戦犯」の97%がこの58条組である。 
ソ連の司法制度が西側の制度と比べていかに出鱈目なものであったか、これで十分だろう。 
加えて日本人「戦犯」=無実の囚人説を補強する事実を指摘しておきたい。
ソ連は、ソ連が崩壊する直前の1991年10月18日に「政治的弾圧の犠牲者の名誉回復に関する法律(名誉回復法)」を制定した。
この法律の目的は、1917年のロシア革命以降ロシア連邦領内で政治的弾圧を受けたすべての犠牲者の名誉回復、その公民権の回復、暴政のその他の結果を除去すること、物的損失に現時点で応分の補償を確保すること、だった。
要するに、ソ連の政治犯は無実だということを認めたのである。 
日本人「戦犯」受刑者も当然、この法律の対象になった。
実際に再審申請の結果、日本人受刑者2600人あまりのうち900人あまりが名誉回復されたのである。
では残りの者は有罪と追認されたのかというと、それは違う。
この名誉回復活動を椎進した斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)が死亡して、この活動が途絶えたのである。
もし途絶えなければ、ほとんどの日本人受刑者は無実と認められたはずだ。

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