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韓国の学者がこの分野の研究をおざなりにしてきたこと、そして、挺対協がいかに客観性を欠いた感情的な主張を行ってきたかが如実にわかり、この分野を研究する諸外国の研究者に対し非常に恥ずかしい。 

2021/1/29
日帝下の女性の人生 
『解放前後史の再認識』第一巻二部(2006)には「植民地下の女性の人生」というテーマで、大阪産業大学の藤永壮教授、シカゴ大学の崔京姫教授、サンフランシスコ州立大学の蘇貞姫教授の論文が載っている。

これらの論文を読めば左翼陣営の主張がどれほど荒唐無稽なものか知ることができる。

また、論文で引用されている資料を見ると、日本人の調査がきわめて綿密に行われているのに対し、韓国人のものは杜撰だ。

韓国の学者がこの分野の研究をおざなりにしてきたこと、そして、挺対協がいかに客観性を欠いた感情的な主張を行ってきたかが如実にわかり、この分野を研究する諸外国の研究者に対し非常に恥ずかしい。 

植民地支配の最後の10年(1935~1945)は、朝鮮における産業革命のような時代だった。

農民が土地を離れて労働者階級が生まれ、人口の流動性が増大し、都市社会が一挙に拡散したことに伴って女性の間にいわゆる新女性に対する憧れが広がった。

1917年に李光洙の小説『無情』が新聞に連載され、新文明の普及書となった。

この作品は、西洋の新文明か輸入され、開化思想が拡散して、モダンボーイやモダンガールが誕生した時代の若い男女の恋愛を描いた新小説だ。

1935年には沈熏の『常緑樹』が発表された。

まるでそこだけ時の流れが止まっているような旧態依然とした農村社会を開化する啓蒙書だった。

彼は、当時の農村の人々の考え方がどれほど旧弊で原始的であったかを赤裸々に描いた。

慰安婦は、このような開花時代の産物だ。

190人の慰安婦に対するある調査によれば、186人が脱農村時代に当たる1937~44年の間に慰安婦になっていた。

都市に憧れる一種のゴールドラッシュの絶頂期だった時代に家を飛び出した娘が人身売買グループの格好の餌食になったのだ。 

また、181人の慰安婦を調査したところ、4分の1以上が、慰安婦になる前に家から独立してお手伝いさん、工場労働者、食堂及び置屋の女給などをしながら生計を立てていたこと、そして、その中の6割程度が満州、台湾、中国に移送され、慰安婦になっていたことが判明した。

このように生活苦から家を飛び出したケースもあれば、両親兄弟による家庭内暴力から逃れようとしていた若い娘が人身売買グループの罠にはまったり、聞きかじりの曖昧な情報を頼りに期待に胸を膨らませて社会に飛び出したものの世間の荒波の中で彷徨っているうちに人身売買グループの生贄になったりしたことが慰安婦になる発端であったこと、さらに、当時の人身売買グループの手先はほぼ朝鮮人で、軍隊の慰安所を経営する朝鮮人も多数いたことがわかった。 

慰安婦になるルートは二つあった。

「家庭→労働市場→慰安所」と「家庭→慰安所」だ。

この二つのルートを取り仕切っていた仲介役が人身売買グループだった。

彼らが暗躍できる環境を提供したのが、娘に対する家族の暴力や虐待、そして学ぶことに対する憧れをひたすら抑圧しようとする無知蒙昧な男尊女卑文化だ。

そんな中、当時は慰安婦の募集広告が頻繁になされた。

強引に連れて行かれたのではなく、希望者を募る広告を見て自ら行った多くの女性がいたはずだし、貧しい父親に売られた慰安婦も多かったはずだ。

この稿続く。

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