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そんな不快行為にも日本は今までは幣原流、寛容に処してきたが、もう限界にある。日本は温情をやめる。大使館を閉じて、経済を絶つ。米倉某らは捐をすると騒ぐが、放っておけ。多少の損はしても朴槿恵に人の道は教えられる。

以下は、高山正之が、月刊誌正論の冒頭を飾る「折節の記」を編集長のリクエストで匿名で書いていた時の論説をメインに集めて2015/2/28に出版した『アメリカと中国は偉そうに嘘をつく』からである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
真実を明らかにして私たちに伝えている彼の舌鋒の鋭さには誰もが感嘆するはずである。
論旨の鋭さにおいて彼の最高峰であるといっても過言ではない。

随分前に、世界中のプリマから大変な尊敬を受けているモナコ王立バレエ学校の老女性教授が来日した。
その時に彼女が芸術家の存在意義について語った言葉である。
『芸術家が大事な存在なのは、隠された、隠れた真実に光を当てて、それを表現する事が出来る唯一の存在だからです。』
彼女の言葉に異議を唱えるものはいないだろう。
高山正之は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであるだけではなく、戦後の世界で唯一無二の芸術家と言っても全く過言ではない。
一方、大江、村上、平野等、作家と称する人間達、自分達を芸術家だと思いこんでいる人間達の多くは、芸術家の名にも値しない存在なのである。
何故なら、彼らは、隠された、隠れた真実に光を当てて、それを表現する、どころか、朝日新聞等が作り出した嘘を表現して来ただけの人間達だからである。
彼らの様な存在は、日本に限らず、世界中の国においても同様なはずである。
つまり、真の芸術家とは、極少数しか存在していないのである。
私が、今の世界で、最もノーベル文学賞に相応しいのは、高山正之を措いて他にはいない、と言及している事の正しさを、本著も、痛切に証明している。

怨みに報いるに恩をもってしたのは日本人のほうだ

昭和2年、政情不安な南京に蒋介石の正規軍が入城した。
在留邦人らは「ほっとした」(田中秀雄『もうひとつの南京事件』)が、それは楽観が過ぎた。 
彼らは日本総領事館を襲い、警備の兵士を撃ち、家具調度から館長の衣服、靴まで奪い、ついでに総領事夫人ら30人を凌辱した。 
彼らは米国系の金陵大学も襲い、副学長のE・ウィリアムを殺した。
仏系の震旦大の仏人教師も惨殺した。
「彼らは頭髪から髭、陰毛まで焼かれたうえ大腿部を切断されて街頭に遺棄された」(同) 
パール・バックはその近くに住んでいた。
暴徒の群れが近づくのを知ってフェニルケトン尿症の娘キャロルを抱いて裏の支那人使用人の物置に逃げた。 
彼女の家を荒らす支那人の哄笑を間近に聞きながら彼女は娘の口を押さえ、まんじりともしない一夜を明かした。 
翌日、南京城外下関(シャーカン)に駆け付けた英米の駆逐艦が城内に向けて無差別砲撃を始めた。 
世田谷区と同じ広さに1時問200発の砲弾が撃ち込まれ、1000人を軽く超える死傷者が出た。 
砲撃の後、米海兵隊が上陸して彼女は救出され、母子はその足で安全な日本に向かい1年間を雲仙の麓で過ごしている。 
この英米艦の無差別砲撃のとき、同じ下関に駆逐艦『檜』と『桃』がいた。
米英は両艦にも砲撃を促した。 
しかし日本艦は拒んだ。
外相幣原喜重郎が「日支の友好が大事」と支那人への無制限の寛容を命じていたからだ。 
実はその前年、四川省万県で日本船が銃撃され、英国船が拿捕される騒ぎがあった。
英国はただちに軍艦を派遣して万県市内を無差別に砲撃して四川司令官楊森を震え上がらせ、船は解き放たれた。
しかし幣原は「日本は砲撃せず」をわざわざ楊森に伝えた。
南京でも同じ。
総領事館守備兵に発砲を禁じ、支那人に心行くまでの略奪と暴行を許した。
騒ぎが終わった後も総領事夫人の凌辱を表ざたにしなかった。
まず友好だった。
報復砲撃など幣原は一顧することもなかった。 
では支那人は目本の厚情に感謝しただろうか。 
一週間後、今度は漢口で支那人暴徒が日本領事館や邦人を襲撃した。
彼らは邦人の家屋、商店と見ればすべて略奪し、産褥にあった女性が惨殺されたほか邦人数10人が袋叩きにされた。
2500人の邦人のうち200人が着のみ着のままでこの街を脱出した。
支那人は万県も南京も知っていた。
「日本人は何をしても報復しない」「それなら日本人を襲え」と考える。
犬の発想と変わらない。
それゆえ翌昭和3年5月、済南事件を起こした。 
国際的な商都に進駐した蒋介石軍はすぐに日本人狩りを始め、14人を惨殺した。
29歳の女性は輪姦されたうえに乳房を切られ、腹を割かれ、局部に棒を突っ込まれて殺された。 
それでも幣原は寛容を言い、彼女の検死写真は公表しなかった。
日本人の知らない検死写真は江沢民が「石井731部隊の生体実験」に仕立てて今、支那の教科書に載っている。 
福沢諭吉は「隣国の開明を待つ猶予はない。その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし支那朝鮮に接する法も特別の会釈を要せず」と言った。 
だから英米と伍して南京を無差別砲撃すべきだった、とは言いにくい。
砲撃していれば支那人は日本を侮らない。
漢口でも済南でもおそらく通州でも事件は起こらなかった。 
しかし日本人は仮に幣原が黙っていても、昨日までインディアンを皆殺しにしてきた国と同じに支那人を無差別に殺すことにはためらうものだ。 
ではどうすべきだったか。 
あの天安門事件の折、日本は国際社会に伍すことなく経済制裁しなかった。
乞われるまま天皇の支那ご訪問も受け入れた。
銭其探は「これで支那は助かった」と回顧録に書いている。
3万人学生を殺した支那は反省することもなく立ち直って、世界は今、蔓延(はびこ)る支那人に泣いている。
温情は常に裏目に出る。
北朝鮮がやっと正気に戻って拉致被害者の再調査を約束した。
見返りは経済制裁の解除だ。
万景峰号など当然すぐOKが出ると当て込んで、新潟に向かっていた。 
この二つの事象を見ると経済制裁は砲撃以上の効果があることが分かる。 
韓国は日本大使館前に慰安婦像を置く。
そんな不快行為にも日本は今までは幣原流、寛容に処してきたが、もう限界にある。 
日本は温情をやめる。
大使館を閉じて、経済を絶つ。
米倉某らは捐をすると騒ぐが、放っておけ。
多少の損はしても朴槿恵に人の道は教えられる。

 

 

2023/11/5 in Osaka

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