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NHKのクローズアップ現代を司会していた武田が保阪正康を重用していた点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない…

NHKのクローズアップ現代を司会していた武田が保阪正康を重用していた点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない…
2022年05月04日
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。と題して、2019年05月18日に発信した章を再発信する。全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは「劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。

絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立たない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているNHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも東篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。
1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。
しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。
そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 

これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかった。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。



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