「絶対に正しいこと」がわからないから、思うこと

いっせーのせ! で、いっせいに同じ行動をとらないのが、この世界だ。

環境が違う、環境は同じでも考え方の基準が違う、優先順位が違う、大切なものが違う。

あたりまえだけど、それぞれに意思があり、決定し、選び、動く権利がある。


わたしは今、「できるだけ外出を控える」ことを基準にして、世界を見る。

「外出しないことが正しいんだ!」という自分の基準でみると、基準に満たないものに悪意さえわいてしまう。

どうして外出しているのか? どうして家での仕事に切り替えないのか?

私の正しさは、「できるだけ在宅で業務ができるような体制を考えていくこと」。一方の正しさは「できるだけ業務が滞らないように安全に配慮して出社すること」。

違いにはストレスがうまれてしまう。
「はい! それ間違い! だめだめ!」と糾弾してしまいそうなくらいに、私はぴりぴりしていたんだなぁと、感じる日だった。


自分が感染しないための行動は、大切な人を守ることであり、医療を守ることでもあると、私は理解している。

ただ、そのための行動は、絶対何があっても守らなければならないことではないことでもある。
……と言ってしまうと、最大限の配慮をもって自宅にいる人たちに配慮が足りない表現かもしれないけれど……。


いま、ここに、「絶対」が、ない。

命を守るためにはやった方がいいと、わかっていることもある。

でも、これをしてよかった、悪かったを判断できるものがない。これが正しかった、間違いだったと絶対的に判断できるものがない。

だからなのか、「本当に自宅にいることが正しいの?」とか、「本当にこれをしないほうがいいの?」とか、疑問がわくこともある。


いままでの自分は、無意識に選択をしても、命に関わる結果を招くことはなかったし、自分の選択が、他者の命や人生に大きな影響を及ぼすこともなかった。

いま、自分の行動が、自分や他者の命に関わることになるかもしれないという現実を前に、「間違ってはいけない」というプレッシャーに怯えているのかもしれない。


すべてがいつ終わるのか、わからない。
終わりは、どんなカタチで示されるのかもわからない。

それでも、世界が、この問題に「終わり」を示すときを、「あぁ、もっとやっておけばよかったな」という思いで迎えないために。
今、自分ができることを自分はやっておくしかないんだなって、思う。


世界はきれいに分けれないし、いっせいのせ! で同じようには動かない。

私からみた、一方の世界はまだのほほんとしていて、一方の世界は緊迫している。
どちらも私から見えている世界。

2つの世界を一緒にしようとして、すごく混乱してしまったんだ。一方の世界を一方基準で判断して、正しさを強要しようとして、ひとりで怒っていた。


近くても遠くても、私には手が出せないこともある。

私の手に負えるのは、やっぱり私だけなんだ。

大切な人を思うから、選べることがある。


いまは、「自分の中の絶対」を、自分のために握りしめていこう。




ありがとうございます。ロックンロールと生クリームとマンガと物語に使いながら、自分の中のことばを探っていきまます。