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弥太郎ら、「コップの中の嵐」に苦しむ

一月十二日 朝食後、問題の今井純正が弥太郎ら三人組のところに来て、こう主張しました――土佐藩の交易の件で、自分が邪魔をしていると他藩の者(恐らく竹内静渓を指す)讒言ざんげんしたため、今井を「ヒッククリ国元へツレかえ」ろうなどと沙汰されていると耳にしたが、自分は邪魔をしていない、と。三人組は、誰がそんなことを言ったのか、と反問して両者は噛み合みあわず、話し合いは決裂します。

 ここで、今井の一件についてまとめておきます。今井は大坂に出て漢方医学を学んだ後、西洋医学を学ぶため弥太郎らに先駆けて長崎に来て、有力人士との繋がりを持ちました。シーボルト二宮如山ら蘭学方面ばかりではなく、久松や小曾根など有力商家の知遇を得ます。今井は脱藩者だったので金に不自由し、パトロンが欲しかったのだと思われます。

 一介のよそ者の医学生が有力な町年寄と直接知り合えるはずはなく、久松や小曾根の周囲にいる人物の仲立ちがあったはずです。土佐藩が交易、商談のために接触していることを知っていた誰かが、今井を脱藩者とは告げずに紹介、今井はこのコネクションを利用して金を引き出したのでしょう。一医学生に過ぎず脱藩者である今井が、土佐藩士として小曽根や久松と直接結びついたのなら、金の件は措いても越権行為と言えそうです。

 弥太郎らは長崎来着後、以前から土佐藩と商人との仲介をしていた静渓を通じて、今井の件を知ったはずです。しかし、今井は静渓の言を信じないでくれ、と主張しているわけです。今井と静渓の関係は定かでありませんが、今井にとっては「知りすぎた男」だったのでしょう。ただし、静渓は、弥太郎らに対しても久松善兵衛との面会を何度も引き延ばしたり、どこか怪しくもあります。三人組は彼を信頼している様子ですが。

 今井の一件で弥太郎らは大いに悩まされたものの、幕末の揺れ動く世相から見れば「コップの中の嵐」という表現がぴったりの小事件でした。いずれ分かりますが、結局関係した殆どの人にとって大きな意味を持たず、ただ今井純正の人生にとってのみ、小さからぬ影響を及ぼしました。ここで簡単なまとめをしましたが、この後も、込み入った話には深入りしません。

 弥太郎は自らを記録者と任じていたのか、十二日の日記には関係者の詳細な発言や行動の記録を残しました。こうした細かい記述は他にもあり、どれも議事録のようなものであまり面白くはありません。ここでは、悶着の最中の悩ましい時期でも、楽しみや勉強を忘れなかったと分かる一節を引いておきます。袴を着用して久松善兵衛を訪れるなどした帰宅後のこと。

下許君が、今夕は甚だしく悩ましかったので、一杯やろうと提案。下男に命じて酒を買わせ、上階で三人で酌み交わした。随分と愉快。中沢と明日蕎麦店に行く約束をして箸拳を戦わせ、負けた方が蕎麦を奢ることになったので、互いに技量を尽くし、交互に勝ったり負けたり。興を尽くして止めた。明かりの下で、史記の項羽が趙を救援する場面を読み、就寝した。

 この辺りの事情や人物について、弥太郎のもう一つの日記「征西雑録」を読んで新たな情報を得ました。ただし、訂正が必要なほどの問題点はありませんでした。詳しくは下のリンクをご覧ください。

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