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弥太郎、学課の計画を立て自らを戒める

一月二日 早起きすると小雨。たらいの水で顔をすすぐ。着衣を整え、襟を正して、両親を遙拝した。先月十六日夜に定めた学課を、再度書いておく。

 この後、月ごとに作文、作詩をする日を定め(なぜか全て奇数日)、四書五経や唐宋八家とうそうはっかと称された名文家の文章を朗読、史書を閲読することなどを箇条書きにしています(下の写真参照)。夏休み初めに、必ず計画倒れになる勉強の計画を立てていた学校時代を思い出します。

 洋書を読む予定も入っているのですが、果たしてどうなったでしょう? 答えはいずれ明らかになります。続いて、自らへの戒めを記します。

右所定の課程が終わらない場合、人と談話すべからず、門を出るべからず。

 この日、弥太郎は通鑑紀事本末つがんきじほんまつ東坡とうば(唐宋八家の蘇軾そしょく)の文を読んで勉強しました。昨日とは打って変わって非常に寒い中、午後には浴場に行きます。温かな東風が吹いたのは、元旦だけだったようです。

 その後、丹波商人六兵衛と囲碁、夜には下許しももとや六兵衛、止宿先大根屋の老婆と繁華街丸山を散策しました。以下、丸山町の描写ですが、実はこうした情景描写の文章も当時の日記には珍しいものです。

立ち並ぶ高楼の灯火が照り映え、人の声が沸きたつようだ。家々の戸口には彩色された細切りの紙が柳の枝にかけられ、燦然とした輝きに目を奪われる。遊客が地獄門に織り込まれるように往来し、にぎやかな足音が絶えず響く中、帰った。

 大根屋に戻ると、またも六兵衛と夜更けまで囲碁をしたとあります。翌三日は短い記述であり、また弥太郎の勉強ぶりがわかるので、ここに掲載します。「計画表」通りです。実は弥太郎はかなりの勤勉家でした。

三日 明け方に起床。曇り。やや寒い。書経を二冊読む。午前中は蘇軾の文章を、午後は通鑑紀事本末を暮れ方まで、読んだ。夜、漢詩を作ろうとするも出来ず。深夜、眠りにつく。寒さが甚だしく、驚いて何度も夢を破られた。

<参考情報>

 弥太郎の日記は翌日、あるいはその後にまとめて書かれることが多かったようです。三日分の最後には、夜中に中沢寅太郎(次回参照)が土佐から来着したことが書かれていて、翌四日の日記には、弥太郎が中沢に会いに出かけたことが記されています。
 夢の記述も弥太郎の日記の特色の一つで、夢についても自分が経験した事実として記します。この時代には珍しい例でしょう。
「地獄門」は、遊郭の立ち並ぶ丸山町を「地獄」と言い表したもののようです。

 弥太郎が、土佐を出発した前年10月からつけていた日記「征西雑録」の12月16日に下と同じ学課が記されています。「征西雑録」には細かなメモ書きの面がありました(同日記について、詳しくはリンクに示す記事を参照)。

『岩崎彌太郎日記」p3

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