ペットの葬式より、動物たちの鎮魂祭を

1 ペットのお葬式

 私が住む地方の小さな町でも、「ペットのお葬式」の宣伝をよく見かける。ペットの葬式が始まってもうずいぶん年月が過ぎた。始めてペットの葬儀を知った時、「ペットにも葬式をするのか」と驚いたものである。

 しかし、ペットと言えども、家族の一員として、その家庭に暮らしてきたと考えれば、別れを悲しんで葬儀をすることは、おかしくないと納得した。ペットとして飼われた動物は、途中で捨てられたりしなくて、飼い主の下で天寿を全うすれば、次に述べる人間の食用になる動物よりは、ずいぶん幸せだと思う。

2 残酷な殺処分

 いずれ人間に食べられるためだけのために、狭い空間に閉じ込められているニワトリはどうだろう。卵を産むだけ生まされて、用済みと判断されれば、殺処分され肉だけ取られて、捨てられている。考えてみれば大変残酷な話である。
 
 但し、近年はある一定程度の空間をニワトリに与え、過剰なストレスを与えないような配慮をしているというニュースを見たことがある。しかし、さらに悲惨なのは「鳥インフルエンザ」に罹ったニワトリが見つかると、人間の都合のため、数万、時には数十万というニワトリが殺処分される。

3 殺しながらその肉を食べ、さらに殺すことを楽しむとは

 
  昔のことになるが、まだかすかに生きていて、口をパクパクしている「生け作り」の魚を見た。その魚から、刺身を取って食べるのは、子どもながらに可哀そうなことをするものだと思った。

 可哀そうな極めつけは動物の狩猟である。人間が生きるために、我々人間は長年動物を殺して、食料にしてきた。しかし、スポーツとしての狩猟は食用にすることが本来の目的ではない。動物を追い込み、動物が恐怖の中で殺害されるのを楽しんでいるである。

 また、よく引き合いに出されるのが闘牛である。まさに牛を殺し、それを見物して楽しむ残酷ともいえるスポーツであるが、闘牛場にいる人々の多くは熱狂している。このように我々人間は残忍な生き物である。人間以外の動物は、食用にするために動物を殺すことはあっても、楽しみのために他の動物を殺すことがあるのだろうか。

4 動物の権利

 
 この議論は古代から幾度となく議論されてきたが、近年になって真剣になって議論する人が出てきた。それはAnimal Rights(動物の権利)である。このことは、ウィペディアでも「動物の権利」を検索すると詳しく紹介されている。「人種差別は良くない」と同じように「人間と動物の種の間の差別も良くない」という考えである。

 しかし、これは突き詰めると、動物を殺してそれを食べてよいのかということになり、人間の生き方そのものが問われる重大な問題であり、人間にとって大変厳しい問題となる。「動物の権利」を認めると言っても、どこまで認めるのかについては様々な意見があるようだ。

5 生き物である植物はどうなのか

 
 そして、さらに言えば、動物は殺してはいけないが、植物も生き物であるので、小麦や稲など「植物は殺してもいいのか」という問題にまで発展する。肉食を否定する「菜食主義者(ベジタリアン)」がいるが、植物も殺してはいけないとなると、菜食主義者も生存できなくなる。

6 罪深いことをしているという実感を持つこと

 
 そこで、まず我々は動物を殺戮して、その肉を食べているという実感を持つことが大切であると思う。スーパーマーケットに並ぶ魚の刺身やパックに入った牛肉や豚肉を見ただけでは、その実感は湧かないであろう。
 
 以前、テレビの番組で見たシーンが印象的だった。ある畜産学科の生徒が「動物を飼育するのが好きで入学しました」と言った時、その生徒に向かって、先生が「それは大切なことであるが、それだけでは不十分です。私たちは動物を殺してその肉を食べるというこの現実も知る必要があります。その時がやがてやってきます。」と語っていた。

 そして、畜産学科に入学した生徒も、やがて丹精込めて育てたブタなどを殺して、その肉を目の前にする時が来るだろう。その先生の話を聞いて、私は次のシーンを想像した。ある生徒は泣きながら、「私は食べることができません」と訴えるのではないだろうか。これも私の想像であるが、その時先生は、「そうだね、本当に可愛そうだね。でもね、私たちはこうして生きているんだよ」と優しく生徒に教えるのではないだろうか。想像するだけで、思わず、少し胸が熱くなる。

 食事の前、「いただきます」と言う。私は長い間、この言葉は調理をしてくれた人への「感謝の言葉」であると思っていた。しかし、歳を取ってから、これは生きていた生物が人間の食べ物となる時、その生物に対して「あなたを、食べ物として私はいただきます」という生物に対しての感謝の気持ちを表す言葉であることを知った。「なるほど」と納得した。

7 動物たちへの鎮魂祭

 
 そこで、まず私はせめて人間の食用となる動物たちのための鎮魂祭を1年に1度全国的な行事としてしても良いのではないかと思う。我々が生きるためにしている自分たちの罪深い行動(=動物の肉を食べる)を認識し、そして動物との付き合い方を考えてみたらどうかと思う。
 あまりに、現実離れした提案だろうか?

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