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ある一人の男の夢と挫折_5

僕は、とある漫画原作の映画に、演出部として参加する事になりました。
念願の演出部、つまり助監督です。
助監督にはランクがあり、僕はサード助監督という、美術周りの原稿作り、及び現場の進行、カチンコ打ちの担当でした。
制作会社の事務所に行って、顔合わせ、作業を開始します。
この映画では、美術原稿の作成の他に、デジタル画面の制作がサード助監督の担当になっていました。劇中で使用するHP画面や、YouTubeのような画面、LINEのような画面、Googleマップのような画面等を作る必要がありました。
しかし、当然そんな物、作った事がありません。準備期間は2週間。
その期間の内に、作らなければなりません。
セカンド助監督の人に相談しましたが、割と昔の世代の方で、デジタル画面等は作った事がないようでした。
僕は途方に暮れました。
しかし、じっとしていてもしょうがないので、まず、HPの画面は自分で実際に作る事にしました。
HP制作のやり方の本を買って来て、右も左も分からない中、作って行きました。分からない所は、IT系の会社に勤めている友人に聞きながら、なんとか作って行きました。
You Tubeのような画面、LINEのような画面、Googleマップのような画面に関しては、セカンド助監督の人のヒントもあり、パワーポイントで作っていきました。
パワーポイントなら、サラリーマン時代に使っていたので、ある程度の物であれば作れます。
パワーポイントのアニメーション機能を使って、動く画面を作っていきました。
必死に作ったおかげで、なんとか撮影までに準備を終える事ができました。
その一方で、この映画の先行きが不安な一面もありました。
チーフ助監督の人がパソコン、スマホ等のデジタル機器が一切使えず、手書きのスケジュールを書いて、それをセカンド助監督の人がパソコンでデータに起こす、という事をやっていました。
しかし、セカンド助監督にも本来の仕事があるので、そんな事ばかりやっていられません。
不満が溜まり、セカンド助監督とチーフ助監督がけんかしていた事もありました。
そして、スケジュール作りが遅れているせいで、制作部の方のロケ地の手配が遅れる、という悪循環が発生していました。
そんな事もありつつ、役者の方が集まっての本読み、衣装合わせ等も終わり、いよいよ撮影をする事になりました。
最初は静岡県での撮影です。
僕は助監督デビューで、ドキドキしていました。
自主映画では助監督はした事はありましたが、商業映画では初めてです。
いよいよ撮影で、カチンコを叩くというその時、僕は、商業映画の規模の大きさ、仕事のシビアさに、完全に緊張で固くなっていました。
監督の「よーい、スタート!」の声に合わせて、カットナンバーのコールとカチンコを叩きます。
僕は緊張のあまり、カチンコを叩いた後、転んでしまいました。
そんな事もありつつ、撮影は進んでいきます。
撮影は2週間だったのですが、その期間で全て撮り切らないといけないため、1日の撮影内容が多くなっていました。
撮影は押し、初日から深夜にまで及びました。
そして朝は4時起きです。
僕も含め、撮影スタッフは極度の疲労でボロボロになっていきました。
そして、当初から見えていた、監督や他のスタッフと、チーフ助監督との関係が険悪な物になっていきます。
監督は30代の若手監督、それに対してチーフ助監督は50代位の方で、かなり古い価値観を持った、昔の映画人、という感じの方でした。
また、自分に非がある事でも謝らず、色んな事の手配ができていない状況の中で、映画の現場は過酷な物になっていきます。
そんな中、救世主が現れました。セカンド助監督の助っ人が参加してくれたのです。
その方は30代前半で、若いですが、ものすごく仕事のできる方でした。
その方が参加してくれたおかげで、かなり過酷ながらも、なんとか撮影は進んでいきます。
そして、僕は川に落ちたりしながらも、なんとか2週間の撮影が終わりました。
最後、あまりの過酷な撮影で、倒れてしまったスタッフがおり、救急車で運ばれたりする事態にもなり、一部のシーンを残して、撮影は終わりました。
僕は、1日2時間〜4時間程度の睡眠で、一日中動き回り、また分からない事だらけであらゆる人から怒られ、ボロボロになりながら、なんとかやりきりました。
この映画では、体力的にも精神的にもボロボロになりましがた、初の助監督をやり切った達成感を感じ、また自分が過酷な現場の修行で成長した、という実感もありました。
そして、年末を迎え、撮り残しのシーンも撮り終え、翌年、新しい作品に携わる事になります。
それはとあるテレビ局の連続ドラマだったのですが、その現場で、前回を超える過酷さを味わう事になります。

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