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諦める事の大切さ

出口の見えないトンネルを、ストレスを溜めながら歩き続ける。成果が出るかどうかなんて分からない。でも現状は全く好転する予感なんてしない。

そんな日々を繰り返していたら、精神疾患になって歩けなくなった。

今は休息しているし、今後も歩くことはないだろう。

いわゆる《諦めた》というやつだ。

しかしあまりネガティブな感覚ではない。過去が辛すぎて消去法で幸せになっているだけかもしれないが…。

だが《諦める》という言葉自体、元はポジティブな意味から来ている。
《明らかにする》という意味だ。

僕は社会不適合者だということ、そして働けない無能人間であること、知的障害者であることを明らかにしたのである。

それが明らかになっていなかったなら、また歩き始め、精神疾患に再度かかっていただろう。

これらが明らかになったのは最近だ。明らかになっていなかった過去の生活はとても辛かった。無明ゆえ、不適応を起こしていた。

何をしていいのかが分からない…。

適性が分からない…。

その結果無理をして精神を壊した。

世間において《諦め》は悪とされる。

「もっと頑張れ」
「忍耐力が無いなあ」

不適切な環境においては、諦めないことに何の意味も生産性もない。ただの自己満足だ。
ブッダも親鸞も、闇雲に修行にいそしんだとして、得られるものは無かったという。大切なのは中道という、程よい環境と安寧だ。

歩くのは諦めた。
もっと早く諦めておいても良かった。

しかし中道の理念において、厳しすぎるのもいけないが、堕落しすぎるのも良くないのである。

今現在、自分は《堕落し過ぎ》という極端な環境にいる。中道に戻るためには、自分に合った労働環境を見つけて、自分に合ったペースで歩くことが大事なのかもしれない。

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