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《良心を持たない人たち》紹介②


ジョーのジレンマ

ジョーはその日、大事な打ち合わせに出かけることになっていた。
運悪く、家の暖房が壊れたため、業者を呼ぶ手間がかかり、時間を食ってしまった。
業者は家の中で作業をしているが、構わず車で出勤した。

車を飛ばしていると、頭に飼い犬のリーボックが浮かんだ。餌を与えることを忘れていたのだ。

結論を言うと、ジョーは仕事と飼い犬を天秤にかけて、飼い犬を選んだのだ。
打ち合わせ先に断りの電話を入れ、車をUターンさせて家に帰る。

この行動の原動力は?

信じられないという人もいるかと思う。
それもそのはず。ジョーは何日も前から入念に準備をし、当日も急いでいたのだから。

見ず知らずの修理業者が財産がある家にいることもお構いなしで、運転でも危険を顧みなかった。

ここまで読んで、僕は良心が原動力になって行動していると解釈した。
愛犬のために仕事を犠牲にするというのは、良心が無いどころか、人一倍良心が有り余っていると感じる。
良心が無ければ、仕事と飼い犬を天秤にかけたとき、迷いなく仕事をとるだろう。

読者も、ジョーの行動は良心に基づくものだと感じるのではないか?

サイコパスは、犬が死んだ際の《悲しみ》が嫌なのではなく、言い訳をしなければならないという恐怖や面倒くささがあるのだとスタウト氏は説く。

一応、サイコパスも世間体や人の目は気にするらしい。
良心ではないが。

動物を虐待する暴漢にはなりたくなかったとのこと。
世間体を気にすることと良心が無いことは結びつけにくいが、本書にはそう書いてある。

ジョーは鏡に映した自分の姿に満足し、”誇り”に思い続けられるように、仕事の将来をいくぶん犠牲にした。これは立派な、そして非常に人間的なおこないだが、良心ではない。

あまりピンとこないが…。

とにかく良心に基づく行動ではないらしい。
自尊心やこだわり、習慣。
サイコパスも週間やこだわりから優しくすることがあるのだそう。しかし、優しさは行動だが、心理ではない。
損得勘定でやっているのだ。

良心=愛着

心理学的な観点から、作者はジョーは愛着を感じるらしい。

なんだかこの本は回りくどいうえに、結論がよく分からない。スタウト氏の説明が悪いのか、木村氏の日本語訳が悪いのか、それともアメリカの回りくどい文化が悪いのか…。
とにかく非常にわかりにくく、くどい。

作者の結論としてジョーは《良心がある》とのこと。
良心があるゆえに、自己破壊的な行動をとってしまったとのこと。

この話は創作だろう。
無駄な時間だった。

良心は才能?

良心は、全ての人が持っているものではないとスタウト氏は主張する。
一種の才能なのかもしれない。
怒りっぽぞと同じで、個人差があるようだ。鈍い人もいる。
問題が複雑化しているのは、外からでは判断できないということだ。

44ページから神話の話になっていて、今までで最も分かりにくくなっております!

ヒエロニムスは、このエゼキエルが見た幻の、人間の顔は人の理性を、獅子の顔は感情を、牡牛は欲望を、気高い鷲は「(弟殺しの)カインの心の中でも消えることのなかった良心の火花」を表すと考えた。

飛ばしまーーーーーす。


判断の過ち

13世紀に存在した、神を信じている者たちの主張としては、人間は生まれながらに良心を身につけているとのこと。
この思想は今でもある思想だ。

13世紀の神学者は、良心が欠けているのではなく、理性の効きが弱かったのだと考えているのかもしれない。
本書の記述は難解であるため、正確に読解できているか自信が無い。
多分これは神話とかわけわからん分野出してくるスタウト氏が悪い。木村氏の日本語訳は正確だろう。

数百年にわたって、良心にかんする議論は、人間の理性と神から授かった道徳的知識との関係が中心だった。いくつかの説もつけ加えれた。最近では善悪の判断に比率主義プロポーショナリズムをとり、理性が”善”をもたらすための”必要悪”をうながすという、都合のいい抜け道もある─────たとえば、「聖戦」などだ。

ダメだーーー分からん。スタウトーー勉強のし過ぎで頭おかしなったんか…。

自分の行動を客観的に見る

20世紀に良心への解釈は変化した。無神論者であるジークムント・フロイトの提唱する心理理論がヨーロッパとアメリカで広まりまじめた

フロイトの理論として、人間の精神構造を3つに分けている。
《本能》《自我》《超自我》の3つだ。

本能は生まれながらに持っている。遺伝情報に刻まれている機能だ。何かを食べたいと思うのは、人から教えられるものではないだろうし、睡眠も自動的にとらなければならない生まれ持った脳機能だ。

自我は理性だ。合理的に思考し、計画を立て、記憶する。
そのため本能に代わって社会と関わっていく。本能と超自我のつなぎ目になる役割だ。

超自我は後天的に親から教師などから植え付けられるものだ。常識や倫理観がこれにあたる。
超自我は本能と相反する性質を持った精神分野であり、自我から派生するものであるらしい。フロイトは人間は成長過程で価値観を植え付けられるとした。
価値観を植え付けてくる者は神ではなく、他者であるとフロイトは説いたのだ。


無神論者の話になってやっと本書の説明が分かりやすくなった。


精神が成長するとともに超自我の割合が多くなり、人間の思考や行動に干渉してくる。
人間は超自我に支配されるようになるのだ。超自我は《常識》なので、周りと共有されているものだ。それゆえ最終的には他者に強要するようになる。

自分に強要し、他人に教養する。

大人になった私たちは、たいてい自分のスーパーエゴの声を聞く。

過去に見聞きした《教え》が、行動言動をしようとする度に肘で小突いてくるのだ。

自分「これやりたいな〜」
超自我「ゲームやっていると頭が悪くなるよ」
自分「ゲームって体に毒なんだよな…」

いちいち植え付けられたものが語りかけてくるのだ。

僕は大人になって、羽目を外せなくなることが増えた。
賢くなったという見方もできるのだろうが、超自我という鎖にジャラジャラ縛られて、身動きがとれなくなっている状態と解釈していいのかもしれない。

サイコパスかと思いきやサイコパスじゃない認定をされたジョーと、忘れ去られた飼い犬リーボックの話に当てはめれば、仕事をドタキャンするという決断は、超自我によるものと作者のスタウト氏は考えている。

ジョーの人生のどの段階でその超自我が植え付けられたのかは分からない。
しかし「犬を飼ったら最優先にしろ」というような、生類憐みの令思想を過去に植え付けられているということが予想できる。
本人は意識していなくとも超自我の影響は大きい。
フロイトの理論において超自我という概念は単なる《要望》や《声》ではない。
《支配者》であり《操縦者》であり《正義のヒーロー》だ。罪を問い、判決を下し、制裁する─────
一連の過程は、本人の意識外で進行する。

超自我はうまく作用すれば社会性を身につけ、順応させる力になるが、人格を蝕む側面もある。
心理分析学者によると、超自我というものは、人の頭の中でいちいちうるさく口を出してくる。その結果、超自我に晒され続けた人間は、精神疾患になり、最悪自殺をしてしまうのだそうだ。

精神疾患はまだ分かっていないことが多いが《真面目な人》は鬱になりやすいというのは定説だ。
本書を読んで、《真面目な人》というのは超自我の鎖に繋がれまくった人ではないのか?というのが僕の至った考えだ。

本書の記述にもどるが、フロイトは、超自我が確立されるには、子供がエディプスコンプレックスから解放されなければいけないということを主張した。
エディプスコンプレックスとは、幼い子供が異性の親を自分のものにできないことを悟りはじめたときに形成される概念とのこと。僕は初めて聞いた。
「お父さんと結婚できないんだ…」
という気付きを得ることらしい。
女の子ならイメージできる。
ただ男の子でイメージはできない。
母親に甘えている、いわゆるマザーコンプレックスならすんなり分かるが、母親と結婚したがっているというのは分からない。
反抗期のことだろうかと思ったが、だいぶ違った。割と特殊な心理だと思うが…。僕は共感できなかった。母親と結婚したいと思ったことはないから。思う派が一般的なのか?

この感情は家族関係を崩壊させかねないほど危険なものであるため、抑止する必要がある。そしてこの抑止を可能にするのが、物心がついて、急速に成長した子供の超自我なのだ。親に性的な欲望を抱いたり、競争意識が向いた場合、芽生えた超自我の容赦ない圧力で罪悪感を覚え、感情が排除される。
人を社会の一員にするためには、現場監督が必要である。
超自我は、その現場監督の役割を担っているとのことだ。

フロイトの理論が斬新だった点として、これまでの《外からの押し付け》だけではなく《内的な欲求》も関係していると説いたことだ。
規制や善を敬う背景には、社会という大きな家族の中で見捨てられたくないという欲求が深く関わっているらしい。

ここまで本書を読んで、サイコパスというのは超自我の分野機能の働きが弱いのだろうか、と思ってしまった。
自我という理性で本能を抑えてはいる。その理性で「本能欲求を満たすためにはどうすればいいのか」というのを合理的に測る。予想する。しかし超自我は無い(弱い)ため、過程の計算をするだけで、「どう思われているか」というようなことは気にしないということだろうか。超自我が大きくなっているというのは、自意識も大きくなっているということだから。

人の目が気にならないというのは羨ましいが。

感情によっての良心

超自我は自分の見張り役ではあるが、良心ではないと作者は述べているので、ここを勘違いしてはならない。

超自我の土台には《恐怖》がある。
子供の時に親の叱責を恐れたように、超自我からの避難を恐れるようになる。
恐れからしている行動は、良心や優しさとは言わない。

この後にまた神がどうのこうの述べられているので、目を滑らせながら読んでいる。



犯罪は犯さないが、困っている人に手を差し伸べることも無い。
これが良心は無いが超自我に支配されている状態だと思う。

ジョーがリーボックの為にとんぼ返りしたのは、生類憐みの令思想を破ることに対する恐怖からか、それともリーボックが好きだったからか。

違いを確かめるためには、恐怖があったかどうか。これに尽きる。これで分かる。

そしてもうひとつ。
超自我から来る行動は、規範に反することはしない。良心から来る行動が、皮肉にも規範や常識を破ることにつながるのだ。
原動力が良心なのか超自我なのか見極める方法として、重要なポイントだ。
ネガティブな結果を予想して、行動を抑制しているのが超自我なのかもしれない。
ポジティブな結果を予想して、行動を促進しているのが良心なのかもしれない。
良心は本能と似たところがあると僕は思った。


僕は気づいてしまった。
今まで「僕はやさしいから」と思っていた行動は、全部恐怖からくる行動だった。
ヘイトを買わないようにする行為だった。

優しさは気弱さの言い訳なのよ

十戒/中森明菜

明菜ちゃん発破かけてぇ〜ん。

しかし良心が本能と違う点は、誰しもが持っているわけではないというところだと作者のスタウト氏は述べている。
僕は超自我に支配された割合が多かったとこの本を読んで気づいてしまったが、良心はあるのだろうか。
今までとってきた良心が原動力にみえる行動は、超自我によるものだったということなのだから。サイコパスではないにしても、良心もない。

ん?サイコパスというのは、良心は持たない。
超自我はどうなのだろう。
持ってはいるけど超自我に反する恐怖や罪悪感はないのか?
このへんがよく分からなくてこんがらがるというか、調べれば調べるほど、サイコパスという性格がよく分からない概念になっていく。

③に続きます。

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