障害をアイデンティティにするな
自分に言い訳することは増えないが、やる前から諦めることは増えた。
「自分は知的障害があるから」
ということが頭にチラつくのだ。
HSPや血液型に置き換えればウザさが分かるかもしれない。
「HSPだから前に進めない」
「A型だからこんな行動をする」
障害やHSPに限らず、自分が持っている何かひとつの属性に固執する人間は煙たがられるし、視野が狭くなっていると思う。
何かしらのことがキッカケで、そう考えるようになったのだろうが、横文字名称概念と自分を切り離した方が、正確に自己分析できる。
そのレッテルに自分の全てを当てはめられる。
そしてそのうちそのレッテルがアイデンティティになる。
自分の代名詞になるのだ。
何をするにもそのレッテルを引き合いに出して、何かにつけてそれのせいにする。
確かにそれのせいで社会的に劣ったように感じるし、事実困り事が発生しているならば由々しき事態だろう。
しかしいちいちそのレッテルを挨拶のような頻度で出されると、周りがウンザリするだろう。自分の内面で納得できているならいいが。
弱者が言うから説得力
しかしそんな社会的に劣った人間(僕を含む)が、自虐的かつ閉鎖的な意見を言うのではなく、「世の中捨てたもんじゃない」という希望的な意見を述べることに意味と説得力がある。
精神科医YouTuberである益田裕介氏は、そのような弱者を《炭鉱のカナリヤ》に例えた。
世の中の変化に悪い意味で敏感な人たちがいるのだ。
そんな敏感な人たちが、素晴らしいと言う世の中は説得力がある。
無職が言うから説得力がある────
お豆腐メンタルが言うから説得力が生まれる────
そういう意味で、炭鉱のカナリヤの役割をしている層を無下にしてはいけないのだ。
誰からも認められない。
金も人脈も才能もない。
それでも世の中、そして人生を美しいと思えるなら、その人は説得力がある。
「なんでコイツこんな底辺なのに楽しそうなんだ?」
と他の人達の悩みなんてちっぽけだとすら思わせる勢いになるのが理想だ。
なのでやはりポジティブさを全面に出していくのが、自分にとっても周りにとっても良いのではないかと思う。
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