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評価されない事を恐れない

今はもう慣れたが、人に対して何かを主張するというのが苦手だった。

評価されるのが怖かった。
鼻で笑われたり、ヒンシュクを買うのが怖かった。

自己開示というのだろうか。
今はそこまで抵抗がないが、それは専門学校に行ったのが大きかった。
課題は否が応でも開示せねばならなかったから。

今思えば自信が無かったんだと思う。
「酷評されてもこれがオレだし!」
という意思がないとクリエイターには向いていない。
役者がそうだ。
人前で羽目を外すような愚行は恥ずかしい。
しかし本人たちは自信を持っているからできるのだ。

彼らクリエイターは人の価値観を否定することで自信を持っているのではない。自分の価値観を信じていることで自信を持っている

「貴方の価値観も正しいんだろうけど、自分の価値観も面白いんだよね」
たとえそれが他者に理解されなくても、自分は面白く感じるからやっていられる。

誰かに自分の作品や表現を開示するのが怖いと思うということは、どこか自信がないということだろう。

恥ずかしいとか、歪んでいるとか、世間的におかしいとか。
それで折れるような作品や価値観なら、そのことを創るのは辞めた方がいい。自分が創った創作物にも、それを受け取る人々にも失礼だからだ。
自分の子供を「どうせこいつバカなんで。恥ずかしい奴なんで」という親はろくな親じゃないし、子供が出来損ないということが事実だとしても、親がそれを言うのはみっともないと思う。(これも自分の価値観だが)

漫画家を目指していることは、後ろめたかった。
絵が上手いなら公言出来ていたかもしれない…というのも自分を正当化する言い訳なのかもしれない。絵が原哲夫並に上手くても他者に開示できていたかは、今となっては分からない。
専門学校でその内面篭もり癖は矯正され、小説を書いて開示ができた。

自意識過剰

完璧主義や恥ずかしさは軽減されたが、今度は気負うようになってしまった。

「自分の小説を楽しみにしている人がいる…」
「期待されている…」
「なんか変な小説だと思われてるかな!?」
「誤字脱字とか、間違った単語とか無いよね…」
「この表現って正解なの?」

見られるのはやっぱり怖い。不特定多数の書道経験者の前で漢字を書くようなものだ。
僕は字の書き順が滅茶苦茶だし、何より汚い。
しかしそんなプレッシャーを勝手に感じて長続きするはずもなく。
「もっとこうすべきなのに!」
「こんな自分の排泄物、見られたくないな」

理想と現実のギャップで潰れてしまった。

表現の場をnoteに移した。
フィクション作品と違い、世界を展開したり、起承転結を組まなくていいので、小説より向いていると思った。


noteを始めてから、偶然ある動画に出会った。

スマッシュブラザーズのプロデューサーである桜井政博氏の動画だ。

《なぜコラムを続けられたのか》


この動画が大変参考になった。
特に参考になった取り組み方として、手をかけないことと、気負わないこと。
そして何より楽しむことを学んだ。

手をかけないことで時間を無駄にせず、効率的に、かつ停滞や膠着をしないで表現を完成させることができる。
そして何より気負わないことで、プレッシャーから解放される。プレッシャーがあると作業が義務になり楽しくないどころか苦しくてしょうがない。
「期待されている…」
「俺がやらないと誰がやる!」
「責任がある…」
これでは精神が追い詰められ、長く続けられない。
「誰も見てない」
「やってもやらなくても変わらない」
「困ったら適当にやるか」

怠惰に感じるが、リラックスすれば結果的にいいものができるだろう。短期的に燃え尽きるなんてことにも繋がらなくて済む。

手をかけないことも、気負わないことも、長く、かつ楽しむための心得だ。

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