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最後の選択肢

27年前の春、姉は死んだ。


とある金曜日の午後8時すぎ、従兄弟からの電話で姉が瀕死の状態だと聞かされた。

2歳になったばかりの娘は昼間の三輪車遊びが効いたのか、今にも眠りそうだ。
夫は少し遅くなると一時間くらい前に連絡があった。
テレビではmusicstation。安室奈美恵の声が生き生きと響き、週末を盛り上げてくれている。
明日は何をして遊ぼう。家族3人どこへいこう。夫はまた愛車ををいじる気かな。
母屋の義父母が孫娘を連れ出そうと画策しているかな。いや、結婚間近の夫の妹、つまり我が娘のことで頭が一杯に違いない。
そんなあれやこれやに頭を巡らしながら夫の食事のしたく、洗濯物の片付けなどにふうふう息を切らせていた矢先の呼び出し音だった。
「落ち着いて聞けよ、お前の母ちゃんのことじゃないぞ。ねぇちゃんが薬飲んで救急搬送された。ちょっとやばいかも。これるか?出きるだけ早く。」

母ちゃんのこと…。

私の母はおもい認知症を患っており、長いこと寝たきりでそれを父がずっと介護している。姉は実家で小さな塾をやっていて一度は結婚して実家で同居していたが、これまた彼女は重度のうつ病を抱え、相手がその病状にしびれを切らして別れてしまっていた。
なぜ彼女が不眠症からうつ病となったのか、細かい心の動きは私には今でもわからぬままだ。気がついたら薬を服用し毎日フラフラしながら仕事をし介護者である父のサポートをしていた姿を里帰りする度に目にしていただけだった。
彼女の上にもうひとり姉がいるが、早くに遠方に嫁ぎこれまた家庭で問題を抱えていた。
そしてその長女よりさらに実家から遠くへ嫁いでしまった私。しかも姉が心を病んでいるとわかっていながら。
姉からはしょっちゅう電話がかかってきていた。眠れない、今日も父に怒鳴られた。友人が離れていったなど、その内容はだんだん増えていった。
しかも私にだけではない。叔母、従姉妹、友人、長女であるいちばん上の姉。そして何より頼りきっていたのは精神科医だ。助けを求めていたのは明らかなのにみな、どうすることもできなかったわけだ。有効な手段につなげることができず最悪の事態を迎えてしまった。


私は電話を切ってからこれは、覚悟せよ、あえずとも仕方ない、という状況だと察した。
落ち着かない時間を何10分か過ごした。部屋を片付け旅行鞄を引っ張りだし、ふわふわした気分で里帰りの準備に取りかかった。たまに表へ出で暗がりのなか夫の車がかえってくるのをまったり、また家のなかに戻って娘には作り笑いで応じたり。

もう、あまり覚えていないが。

そのうち夫がかえってきた。
事情を説明すると、母屋へ行ってことの次第を話してくれてすぐに車で出発だ、となった。
大きなタッパに炊き立ての3合のご飯を詰め込みその上からふりかけや夕飯の出来るだけ汁の少ないおかずなどをのせてふたをした。
飲み物は途中で買うとして適当に着替えなどを鞄に入れてさあ、出よう!と
玄関を出ると母屋の縁側から義母が一言。

「喪服は持った?」

なんとも言えない気持ちだったが、
あわてて喪服を2人分用意して……そうだ、覚悟していないわけではなかったが心のなかは複雑なキモチで一杯になった。

喪服を車にのせ、夜9時半ごろ出発した。
出発してから100mといかないうちに私はハッとなった。
夫の黒いネクタイがないことを思い出したのだ。
ネクタイは別のところにまとめて収納してあった。なぜ、義母の言葉に違和感を感じたのに黒いネクタイのことを思い出したのか。しかし思い出した以上、なぜか取りに帰らないわけにはいかない思いにかられた。
そして約10分後に、再び出発した。

実家近くの最後のサービスエリアで明け方近く状況の確認で電話した。
昨夜、9時半ごろ姉は息を引き取ったとのことだった。


頑張ってかいてみたもののロッテリアでクリームソーダを飲みながら
フリフリポテトを食べながら涙が止まらなくなった。
作り事を書いているようにつぎつぎと、でもいろんなことが克明に思い出された結果の文章ではあるのだが。




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