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音を聴く(掌編小説)

 ド、ド、ド、ド、ド。
 およそ一週間前だった。ピアノの音が部屋の空気を揺らすようになったのは。迷惑、と感じるくらいに強い音ではない、シャボン玉のような丸いものに包まれたように優しい音で、つい耳を傾けてしまう。
 ド、ド、ド、ド、ド。
絶対に“ド”以外の音が鳴らされることはない。同じ音を連打しているだけのそれは、はたして音楽と言えるのだろうか、と考えていると、今日もまた、ド、ド、ド、ド、ド、と聴こえてくる。ド、を聴いていると、自分がドに取りかこまれていく気がし、この世に“ド”以外の音が存在していないという錯覚を引きおこす。
 窓を閉めるとドは聴こえなくなる。しかし音がなくなると急に寂寥を感じ、またすぐに開けてドを部屋にいれる。
他人の耳には聴こえているのだろうか。ド、が鳴りはじめても誰も反応していないようだし、もしかしたら聴こえるのは自分だけかもしれない。精神の一部がおかしくなって、“ド”が聴こえるようになってしまったのかもしれない。
 と思いながら家の横の緑道を歩く親子に目を向けると、女の子が
「なんかピアノの音するね!」
 と、大きめの声で言った。
「しかも、ずーっと同じ音!」
 母親は子どもに向かって「そうね」と言うだけでそれ以上言及はしない。女の子もすぐに別の話題に切りかえる。
明日天気よくなるかなー? 動物園楽しみ! 一番見たいのはね、ライオン! かっこいいから! と、ピアノとは全く関係のない話を展開している。
音が自分だけでなく他人の耳の鼓膜も揺らしているという事実に、ほっと胸を撫でおろす。
 ド、ド、ド、ド、ド。
 テンポ六十ほどで、途切れることなく約十分鳴らしたところで音は止む。部屋に沈黙が戻ってくる。ときどき、外を歩く人たちの声が勝手に侵入してきて静寂を壊すことはある。だけど一時間のうちせいぜい長くても二、三分であり、その他の時間は静かだ。
気分転換でもしよう、とカーキ色の薄いコートを羽織り外に出て、住宅街をあてもなくふらふらと歩く。耳をどれだけ澄ませても“ド”の音はもうしない。自分はどうやら、無意識のうちに“ド”の音源を探していたらしい。
 一体、どんな人が弾いているのだろうか、女性なのか男性なのか、大人なのか子どもなのか、どうして“ド”しか弾かないのだろうか、どうしていつも同じテンポなのだろうか、もし会うことができたら訊きたいことはたくさんあった。
 すると、聴こえてきた。まるで自分が探しもとめていることを感じとっているようにタイミングがいい。
 ド、ド、ド、ド、ド。
 音は部屋にいるときよりもわずかばかり強く聴こえる。
 ド、ド、ド、ド、ド。
 音源に向かって歩いていく。
空を見ると飛行機が飛んでいる。飛行音はしないし、飛行機という巨大な機体が飛んでいることによる空気の振動も伝わってこない。ここから見えるそれは手のひらよりも小さくて、まさか何十人、百何人が乗っているとは思えない。もっと言うならば、今から海を越えてはるか遠くにある外国まで、あるいは東京から地方へ一度も燃料を補給せずに行くなんてことも考えられない。
 どこでもいいからわたしを遠くにつれていってくれ。
 飛行機に向かって思う。
 ド、は鳴りつづいている。
 飛行機が遠く彼方に飛んでいくと、意識はまた“ド”に集中する。想像では、三十代くらいの女性が、グランドピアノで弾いている。独身で、だけど恋人はいる。見た目はどちらかというと美しく、肌の色は日焼けを知らないように白い。都内の音大を卒業していて、普段はピアノ教室で子どもから大人までいろんな人に教えている。ド、以外にはショパンやベートーヴェン、ドビュッシーなんかを毎日奏でている。
 だけど毎日、ふとしたときに“ド”の音を連打する。
 その意味は?
 そうだな……世界の鎮静かもしれない。“ド”を一定のテンポで十分間鳴らすことが、いわゆる“儀式”なのかもしれない。ピアノを弾くことしかできないから、“ド”を鳴らすことによって世界の平和のために祈っている。
 真ん中の“ド”。
 この音って、とても落ち着くでしょ? 低くもなくて、高くもない。どの音よりも安定していて、一番受けいれられる音。神経をすっと撫でてくれる音。
 きっと「そう思わない?」と訊いてくるだろう。わたしはなんと返事をしたらいいか。
 世界の平和のために、あなたは“ド”を奏でているんですか?
 わたしは世界のためになにもできていない。あなたのように、“ド”を奏でたほうがいいですか?
“ド”を聴いていると、確かに落ちつく気がします。なぜでしょう、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、フラット、シャープ、ほかの高さのド、それらじゃあだめなんです。、真ん中の“ド”だからいいんです。世界の混沌としているところに、多分“ド”はすっと入りこむ。
 その人は笑うだろう。
 そう、“ド”には力があるんです。他の音ではだめ、ドだからいい。ド、はね、言葉では言いあらわせない不思議な力を持っているんです。
 猫が前を通りすぎた。白い猫だった。まるでわたしについてきなよ、というように少し離れたとこで一度こちらを見て数秒止まり、再びゆっくりと歩きだす。その方向に、確かに“ド”がある。もしかしたら、“ド”の音の飼い猫かもしれない。猫はいつも“ド”を聴いているから、わたしが“ド”を求めていることを一目見ただけで理解したのかもしれない。
 すぐにあとを追おうと、猫の消えた路地へと急いだ。しかし、猫の姿はもうどこにもなかった。わたしのことを待っているなんてドラマみたいなことはなかった。猫は猫にすぎない。可愛らしく、しかしマイペースで人を振りまわすのが役割だ。
 だけど、ピアノの音はさきほどよりも強くなった。もう目と鼻の先のような気もしたし、いや、もっともっと先のような気もした。音はまだ続いている。まだ十分経っていないのだ。あるいは、十分以上経過しているものの、わたしに探してほしくてまだ弾きつづけているのだ。
 と思っていると、止んだ。
 住宅街に響いていたドは急にあとかたもなく消えてしまった。そのとき、自分が一体なにをしていたのか、頭が真っ白になり記憶が飛んでいった。
 そう、自分はピアノの“ド”を探しもとめてこの住宅街をうろついている。マンションからそう遠くない住宅街だけれど、ほとんど歩いたことはない。全く知らない、何駅も先の街のように思えた。街に歓迎されていない気がした。
“ド”が、無関係なわたしにこの場にいる意味を与えてくれていたのだ。
 急に居心地が悪くなり、足早に住宅街を去った。なぜだろう、なぜだろう、なぜ“ド”は止んでしまったんだろう。
 いや、なにも理由はない。いつものように十分が経過したのだ。だから、ピアノの持ち主は弾くことを止めたのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 今マンションに帰る気にはなれなかったので、ド以外の音も溢れている駅前に行って気を紛らわせることにした。あちらこちらから音が耳を刺激してきて、ときどきは音の螺旋に自分を埋めたいと思うし、ときどきは逃れたいと思う。今はどうだろうか。“ド”を失った自分は、音を求めている。“ド”ではないほかの音を。
 適当に駅を歩いていると、改札前で募金活動をしていて、中学生くらいの男女が必死に訴えていた。顔が赤くなっている生徒もいた。だけど、ほとんどの大人はーーもちろん自分も大抵の場合は例外でなくーー彼らの前を無言で通りすぎていく。
しかし今日は、ポケットに五十円玉がはいっているのを確認すると、募金箱にいれた。
「ありがとうございます!」
 と、“ド”以外の音で彼女は言った。
「いいえ、おつかれさまです」
 一礼をしてから去った。
 もしこの街中で“ド”を一定のテンポで弾いたとしても、気づく人はほとんどいないだろう。“ド”は大量の音に吞まれてしまい、雑音の一つになるだけだ。
 目的なく歩いているつもりだったが、足は自然とさきほどの住宅街の方向に向いていた。違うルートで行ってみよう。別の道から住宅街にはいったら、違った発見があるかもしれない。お願いだから、また“ド”を奏でてほしい。十分間の“ド”を。
 週末の駅前は、ここにきた七年前と比べると確実に倍以上人が多くなった。都心から電車で二十分。通勤電車は潰されるほどに人で埋めつくされている。みんな朝からストレスを抱えて、“ド”に耳を傾ける余裕もない。もし、電車で誰かがドを奏でたら、人々はどう思うだろうか。真ん中の一番ほどよい高さのドによって、立たされた神経は鎮められるだろうか。
 駅前を抜けると驚くほどに人が減り、十分ほど歩くとさきほどの住宅街にきた。しかし、“ド”の音は聴こえない。
 ぜひ、もう一度、鳴らしてほしい。
 白い猫がまた現れてくれないか。わたしをピアノの主人のもとに導いてくれないか。
 住宅街の横を電車が走る。ごおおおおおおおっという、ピアノの“ド”の音とは正反対の性質を持った音が響きわたる。そのとき、走行音の隙間から聴こえてきた。
 ド、ド、ド、ド、ド。
 まるで心臓の鼓動を奏でているピアノの音。耳を澄ませて、一体どこから聴こえてくるのか、次こそ探る。少しずつ少しずつ、音に近づいていく。ある家の前を通りすぎるとき、庭に植えられている花の美しさに目が奪われる。黄色に赤、ピンク、住宅街に色を与えている花々もまた、この“ド”の音を聴いている。きっと、この人が奏でるほかの音楽も聴いている。だからきっと、こんなにも色鮮やかに咲きほこっている。
さて、と、再び“ド”を目指して歩きだした。
 どく、どく、どく。
 近づいてくるほどにド、よりもはやいテンポで心臓が鳴りだす。まるで身体全体が心臓にでもなったように、心臓の音が“ド”よりも大きく耳を刺激してくる。
 ド、どく、ド、どく。
 近い。
 すぐそこだ。
 ド、ド、ド、ド、ド。
 クリアになってくるピアノの音。ある家の前で音は最大となる。
 今目の前にいる。目を瞑ってピアノの音だけに集中する。ド、ド、ド、ド、ド。本当に心臓の音みたいだ。全人類の、いや、地球の心音が、このピアノによって鳴らされている。非常に心地いい音だ。地球という星が生きている音。
 目を開けたが人の姿は見えない。少しだけ開けられた窓から、音が漏れている。
インターホンがある。指を触れる。これを押したら、きっとピアノの音が止んでピアノを奏でている本人が現れる。
しかし、わたしは押せない。確かめる勇気がない。インターホンに触れ立っていると、自転車が横を通過する。自転車の人がわたしとは全く関係ない人物だと分かっていても、そっちを向けない。目が合いそうだと思ったからだ。なにかを叫ばれそうな気がした。その瞬間、ガラスが割れるときのように、全てが粉々になってしまいそうな気がした。
自転車はなにごともなくわたしからどんどんと離れていく。ふっと息が自然と漏れる。
 そろそろ音が止む頃だった。きっと七分は経過している。あと数分したら“ド”は止む。地球の鼓動は再び沈黙する。平和に対する祈りが中断する。
 インターホンから指を離し深呼吸をして家の前を去る。少しすると、ピアノの音は止んだ。しん、と周囲から音が消失した。時間の流れが静止したようだった。
 わたしはわけもなく走って、自ら空気を動かした。
 そのまま一直線にマンションに帰ってきた。相変わらず部屋には音がない。機械的な冷蔵庫の稼働音がするだけだ。今まで無音に対して不安を覚えたことは一度もないのに、しかし今はこの静けさにどうしてか心が押しつぶされそうになる。だから、動画で検索して適当に音楽を鳴らした。“ド”以外の音もたくさん使われている音楽を。
 だけどどうしてだろうか、それは確かに音楽と言えるのに、わたしには“ド”だけのもののほうがよほど“音楽”に聴こえる。音楽は一定のテンポではなく、遅くなったり速くなったり、揺れている。ゆらゆらと。いくつもの音が、いろいろな楽器の音色で重なっていく。
 今は、いろいろ人間の心を揺さぶってくるできごとが多いでしょう? ニュースを見ていると、本当に不安ばかりで。そういうときは、“ド”が一番効果があるんです。“ド”は不思議です。
 分かります。“ド”は鎮静作用を持っているようです。
 まさにそうですね。親指で、できるだけ同じ力で、音を奏でるんです。祈るときのようにね。
 なにを祈るようにですか?
 なんでもいいんですよ、世界の平和でもいいし、家族の幸せでもいい、自分のことでもいい。とにかく、祈るように、祈りながら、“ド”を奏でる。
 わたしも弾いてみたいです、教えてくれませんか? 
 彼女はわたしをピアノの椅子に座らせて、真ん中の鍵盤を指さして
 ここのド、です。これが真ん中のド。
 と言った。
 わたしはさっそく指を乗せた。
 ド、には親指だけを乗せて。
 言われたとおり、親指だけを乗せる。
 そしたら、ゆっくり弾いてみてください。そっと、撫でるように鍵盤を押すんです。
 わたしは親指をそっと落とした。木でできた鍵盤は、弾いたことのあるキーボードの鍵盤よりもあたたかく柔らかい気がした。ド、と弦の弾く音がした。“ド”は、ぽとん、と波紋のように身体中に広まっていく。
 いいですね、落ちつきのある“ド”です。とてもいいド。そのまま、何度かド、を奏でてみてください。ド、ド、ド、って。
 はい。
 何度か親指を上下させて、ドを弾く。なかなか、全ての音を同じ強さで弾くのは難しかった。
女性は一定のテンポで手を叩きはじめた。心臓の鼓動のはやさだ。わたしはそれに合わせてドを鳴らす。
 なんとも言えない時間だった。この世ではないような不思議な心地がした。ずっとそこにいたくなるような、離れたくないように思わせてくれる時間だった。
 いいですね、その調子です。
 ありがとうございます。なんとなく、分かった気がします。
 じゃあ、これからも奏でてくださいね。ド、を。ピアノがなくても、心のなかで奏でるのもいいんですよ。
 心のなかで。
 そう、祈りですから。祈ることは、なによりも大切なことなんです。
 祈り……。
 音楽が止んで、また部屋に静寂が戻ってくる。ふと空を見るとオレンジ色に染まっていて、腹が一つ鳴った。もうそんな時間になってしまったのか。
適当な食材で夕食を作り、シャワーを浴び、小説ーー本当は聖書が読みたい気分だったーーを読み、眠りについた。
 次の日の早朝、散歩をすることにした。朝の空気はひんやりとしており、どの時間帯よりも澄んでいる気がした。昨日の住宅街に向けて歩く。猫は通りすぎるだろうかと期待して歩くも、映画みたいなことは起こらない。空を見ると飛行機も飛んでいない。
 まだなにも食べていないせいか、急激に空腹が襲ってきたので住宅街に行く前にコンビニに寄った。片手で食べられるおにぎりを一つ買って近くの公園のベンチに座って食べる。風が吹くたびに、木々の緑が揺らされるのを目にし、“平和”だと思った。なんて平和なのだろうか。こんなにも平和でいいのだろうか、いや、いいのだろう。風を浴びながら食べすすめる。平和についての自問自答を繰りかえしていると、いつの間にかおにぎりは消えていた。さて、と腰を上げて住宅街へと歩きだす。あの家に近づいてくるが、“ド”は聴こえない。耳を澄ませても、日曜日の朝の静寂の音しか感じられない。
 そもそも、一体、自分はあの家の前に行ってなにがしたいというのだろうか。ピアノを弾いている本人を確かめたいというのだろうか、それともピアノを教えてほしいとでもいうのだろうか。もし自分の想像と違っていた場合ひどく落胆しないだろうか。
 ピアノの家のある路地へとはいるが、白猫はいないし、音も鳴っていない。一歩一歩近づく。平和のなかで。平和を壊すものがなにもないこの状況で。
 家の少し手前で立ちどまって深呼吸をした。朝は空気がいいな、とくに休日の朝は。
 あと家三軒分歩けば、ピアノの家の前に着く、はやる心臓のあたりに手を当て緊張した身体で近づいていくと、予想外のことが起きた。人が出てきた。咄嗟に電柱の陰に隠れた。
深呼吸を数度し、そっと陰から出て家からその人を見る。六十代ほどの、随分と家庭的でふくよかな女性だった。女性はこちらを見た。軽く頭を下げてどこかへと行ってしまった。
 家の前を通るとき、昨日少しだけ開いていた窓の部屋をちらりと見た。今は閉まっていた。きっと、まだピアノの音の持ち主は寝ているのだろう。
心のなかで、“ド”を奏でて祈った。

                               
                   了



 

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