見出し画像

壁(掌編小説)



 わたしは壁と一体化するのが得意である。さて、どういうときに壁になるのかと言えば、例えば妻と娘がつまらぬ言い争いをしているとき、社内でなにやら火の粉を食らったとき、街中で不審者が平和をぶっ壊しているとき、わたしは壁に身体をぴたりと寄せ、壁の一部になる。壁はわたしを吸収し、わたしは壁の内部に入る。壁になっている間、わたしはわたしという存在を手放し、壁という生命を身体に吹き込まれる。壁の中に入ったわたしを、第三者は見ることはできない。よって、わたしは完全に独りの世界へと飛び立つことができるのだ。
 しかし、壁になるのにも絶対的な条件があり、なにかというと、第三者の存在があるということ、またその存在がわたしにとって有益ではない、むしろ損害すら与えてくるおそれのある人物だということだ。
 一日九時間ほどの労働を終え帰宅すると、またなにやら妻と娘が言い争いをしている声が我が家の隅々まで響いていた。一日酷使した身体と女の甲高い声は絶対に調和することはない。外まで漏れ出す二人の感情的な声に、わたしは今晩もまた壁になる準備をする。リビングに顔を出すと二人の声が一瞬ぴたりと止み、妻がわたしに迫ってくる。
「あなた、この子ったら、ど、同性と付き合ってるなんて言うのよ?!」
 眉を中心に寄せ、目は見開き、鼻からは荒々しい感情が漏れ出している。
「まあ、今の時代はそんなことでぎゃあぎゃあ言うんもんじゃないよ」
 娘の肩を持つと妻の眉は吊り上がり
「じゃあ将来どうするっていうの、この子は」
「それは、自分自身で考えるんじゃないか。自分の責任なんだから。もう子どもじゃないんだ」
 と娘のことを少しばかり突き放すと
「お父さんって結局無責任だよね」
 と冷淡な声がわたしを襲ってくる。わたしの返答が気に入らなかったのか、二人はまた二人だけで論争を始める。テーブルの上に置かれた夕食を、二人の感情的な声が飛び交う横で急いで食べ、リビングから去り風呂に入り自室に行こうとするが、二階に行く直前に妻に引き留められ、再びリビングに行かなくてはならくなった。そこでは相変わらず冷静とは言えない話し合いをしている二人がいる。わたしを呼び止めたにも関わらず二人は互いの顔を睨み合うばかりで、「もう夜なんだから静かにしないか」というわたしの意見などには耳を傾けようともしない。なぜわたしは今ここにいるのか、わたしの存在意義とはなんだろうか。わたしは例の如く壁に背中をくっつけた。白い壁はわたしの日に焼けた腕や紺色のパジャマを吸収していき、全体を同じ白色に染め上げる。妻と娘はわたしが消えていることに気付かずに言い争いを繰り広げる。息子が帰って来た音がするが、彼はリビングには顔を見せずにそのまま二階の自室へと上っていく。息子は二人の言い争いに関わろうとはしない。いつだって一人離れたところにいて、こちらを見さえしない。壁から伝わる息子が階段を上る振動音が、心臓を直接打つ。
 わたしは家族というものから離れ、目の前に広がる自分とは無縁の家族の無様な争いを観察することにした。女が好きだという女である娘、社会の多様性に順応できない、頭のかたい妻。二人は磁石のように強く反発しあい、互いに互いの意見を一切耳に入れようとはしない。娘はふてくされてスマホをいじり始め、妻はそれを取り上げるのだが、そのことでまた新たな論争が始まる。
「返してよ」
「その恋人とやらに連絡でもしてるわけ?」
 強く握られたスマホはしかし当たり前に形を変えず、その代わり妻の手がだんだんと赤みを増していく。
「違うし。ただSNS見てるだけだし。あんたと話し合っても埒が開かないから」
 娘は火の中に油を思いきり注いだ。あんたと言われた妻は激怒し、赤くなっている顔をさらに紅潮させる。二人はわたしの存在など微塵も気にしていない。そもそもわたしが壁になる前から、二人は、いや息子も含めて三人はわたしのことなど空気であるかのように接してきた。父親など、所詮家族のATMにしか過ぎないと言っているかのように。
 ATMという役割以外に、一体わたしという存在はなんのためにあるのか、家族の一人一人に質問を投げかけたらなんという答えが返ってくるのか。
「ねえ、お父さんもなにか言いなさいよ」
 と妻はようやくわたしの姿を見ようとする。
「なによ、いないじゃない。いつもいつも、役に立たない父親だわ」
 妻は深くため息をつく。それは娘にではなくわたしに向けられたものだった。
「いつもそうなのよ、他人みたいな顔をして」
 妻の怒りの矛先は娘ではなくわたしに向いているようだ。娘はそのタイミングを逃しやしないというように、妻の手からスマホを取り上げ部屋を出て行く。妻と娘の言い争いが一旦幕を閉じ、妻もまた部屋をあとにする。誰もいなくなった部屋の中、壁から出ようとしたが、いつものように簡単には壁から抜け出すことができず、まるで本当に壁がわたしの一部になってしまったかのように強固にくっついている。力づくで壁を剥がすと、わたしは何食わぬ顔で妻のいるであろう部屋へと向かった。
「あなた、今までどこに行ってたのよ」
 相変わらず妻は怒りの籠った声を出していた。
「ちょっと外の空気を吸いにね」
「ちゃんとあの子のこと考えてよね。父親なんだから」
「分かってる、分かってる」
 妻はなにかを言っている。聞いてる? とも、わたしに意見を求めたりもせず、ただただなにかを途切れることなく呟いている。わたしはその言葉が行き交っている中で目を瞑り、妻の存在ごとシャットダウンした。
 翌朝、家を出るタイミングが娘と偶々合ったので
「あんまりお母さんを悩ませるんじゃないぞ」
 と言うと
「それはあんたも同じでしょ」
 と、娘は先に扉を開けて早々と家を出て行った。高校生になった娘の背中は、いつの間にか広くなっていた。わたしの記憶の中ではまだ、娘は小学生だというのに。
 わたしは娘に言われた言葉を反復する。あんたも同じ、あんたも同じ、まあ別にいいだろう、という答えがわたしの頭の中で形成された。
 
 会社に着くと、なにやら朝から騒がしい空気がわたしの部署周辺を覆っている。しかもそれはなにやら“いいこと”という雰囲気ではない。
「どうした?」
「ああ、課長。実は新人がミスしまして」
「ミス?」
「詳しいことは分からないんですが、とにかく……あ、部長」
 わたしは新人と共に別室へ呼ばれ立ったまま話を聞かされることになった。新人は夏の終わりの向日葵のように頭を項垂れ、しかし部長の視線はわたしに向いている。
「まあまあ、新人ですし多めに見ても」
「ああ、もちろん多めに見ている。しかし、ミスはミス。きちんと反省してもらわなければね。それに、新人なんだから、失敗から吸収できるはずだ。しかしそれを怠れば……」
 部長の視線はわたしから新人へと移動し、完全にロックオンしたようだった。わたしはすぐ後ろにある壁に背中をくっつけた。途中から新人の教育係の女性社員が加わり、二人は話を聞きながら部長に幾度となく頭を下げている。三人の視線が完全にわたしに向いていない今、壁の中に入り込みそこから彼らの様子を眺める。新人はもはや会社を辞めそうな勢いで背筋を丸め、教育係もまた見える横顔は蒼白だ。
 部長の、淡々した、しかし確実に神経を蝕んでいく言葉が二人の身体を蛇のように締め、心までもを破壊していく。しかしこれが社会の洗礼なのだ、社会というものの実態なのだ、これに耐えなければわたしたちは立派な社会人になれやしない、わたしは二人の後ろで言葉をぶつける。
 部長は全ての言葉を吐き終わったのか、二人を残して部屋を出て行った。もうわたしの存在は一切気にしていない。二人は肩を寄せ合い、部長のあとに続いて自席へと戻る。わたしは壁を抜け出す。しかしやはり、壁はいつもよりもわたしに強くくつっくいており、簡単には剥がれない。
 格闘しながら壁を出て部署に戻ると、二人の姿はどこにもなかった。
「あの二人は?」
「ああ、多分給湯室のほうですかね」
 わたしはとりあえず様子を見てみることにした。給湯室に近づくと、二人の会話が途切れ途切れに聞こえて、その声の間に鼻を啜る音もあった。わたしは自動販売機で二本のコーヒーを買い二人に近付いた。
「まあ、誰にでも失敗はあるよ」
 わたしの声に反応した二人が顔をこちらに向けてきた。
「ほら、コーヒーでも飲んで」
 しかし彼の教育係である彼女は「わたしコーヒーは飲まないので」と言い受け取ろうとしない。新人は新人で「すみませんでした」と言うばかりで、やはりコーヒーを受け取ろうとしない。教育係が給湯室から出ると、新人も軽い会釈をし後を追う。わたしは一人残される。缶コーヒーは、わたしの手から温かさを奪っていく。部署に戻ると、デスクの引き出しにまだ冷たいコーヒーを二つ並べてしまった。
 午後一で部長に再び、今度はわたしのみが呼び出され「ちゃんと課の面倒頼むよ」と、コーヒーを一本渡された。それはわたしが朝に部下に買ったものと同じだったが、わたしは彼女のように突き返すことはできず、再び冷たいそれを手にした。缶の表面についた水滴が酷く冷たく感じた。蓋を開けて飲むふりをし、給湯室で中身を全て捨てた。
 わたしは帰りに「せっかくだからなにかみんなで食べに行こう」と誘ったが、課の皆は用事があると言い、結局同期の一人と二人で食事に行くことになった。
 居酒屋に来るのはウイルスの流行のせいで数年ぶりだった。
「家族も部下も、態度が冷たいよな」
「ま、そんなもんだよ人生。むしろ、オヤジとか言われる俺らに優しくしてくれる人間の方が少ないんだからさ」
「まあ、確かに。オヤジの居場所ってどこなんだろな」
「そりゃ、こういうところとかさ。男同士酒挟んで互いに愚痴こぼしてるのがお似合いってさ」
 テーブルの上に乗っているスマホが、ひっきりなしに着信を知らせてきて、誰かと思い覗くと妻からだった。どうせまた、娘と言い争いになりどうにかしろと言う電話だろうと思うと、せっかくの飲みの場で取る気にすらなれなかった。うるさく鳴るスマホの電源を切って、わたしはオヤジの飲み会を楽しんだ。久しぶりに気分が晴れる時間で、壁になりたい瞬間が一瞬もなかった。居酒屋の喧騒は、しかし耳障りな喧騒ではなかった。
 わたしはアルコールに包まれながら帰宅した。そろそろ秋になりそうな空気が、熱くなった身体を冷ます。家の一階の灯りは全て消えており、二階の各々の部屋の明かりが三箇所灯っている。
 そっと鍵を開けて中に入り、ベッドルームに行くと妻がベッドに座っていた。
「なにしてきたの?」
 明らかに機嫌の悪そうな声だった。
「ああ、いや、久しぶりに飲んできただけだよ」
「スマホの電源を切ってまで? あの子のことを話し合いたかったのに」
「明日でもいいじゃないか」
「あなたっていつもそう! 話し合いたいときにいつもいない。家族の中で問題があっても自分だけいつも蚊帳の外」
「まあまあ落ち着いて、とりあえずシャワー浴びてくるから」
「そうやってまた逃げるのね」
 妻は予想を遥かに超える怒りを抱えている。こうなるともうわたしには手のつけようがない。また壁になるしか方法はない。
 なるべく時間をかけて、頭の上に多くの泡を作り隅々まで洗う。身体も、足のつま先、足裏、背中の中心、普段ならば飛ばしてまうところまで丁寧に磨き、熱いシャワーで流す。三人が使った後の湯に身体を沈め、自分という存在を消すための準備を始める。風呂に浸かりながら、歯も同時に磨く。全てを清潔にし終えた後、洗濯されて汚れの取れた服装に身を包み、不機嫌な妻のところに戻る。
 わたしは壁側に背を向けて立ち、妻と向き合った。妻は、多様性の時代だからと言って〜、自分の子どもが普通の感覚じゃないのに〜、親としての自覚〜、そんな話を途切れることなく吐き出す。彼女が水を飲みに行くと部屋を出た瞬間、わたしは壁に背中をついて壁と一体化する。背中が、腕が、脚が、どんどんと壁に飲み込まれていき、ついに全身が壁の中へと入った瞬間、妻が帰ってきた。しかし、わたしはすでに妻の目には映らない。
「ちょっと、どこ行ったのよ」
 妻の叫び声が、壁を通してぼんやりと聞こえる。妻は壁に向かって枕を思い切り投げ、わたしが埋まった壁にヒットする。しかし痛くもなければ痒くもない。書斎に行ったのね、と言いながら再び妻は部屋を出て行ったので、その間に壁から出ようとするが、今までのように壁はわたしを外に出してくれない。壁はいつものように柔らかくはなく、かたい。叩いてもまるで音が壁に吸収されているかのように響かない。
「もう、本当にどこに行ったのよ」
 と言いながら帰って来た妻はどこかへと電話をかけ、なにかを話している。
 四方八方を見渡しているうちに、わたしは一つ気付いてしまった。壁の中を歩けることに。壁の中はどこまでも白い空間で覆われており、わたしはとりあえず奥へと行ってみた。しかしなにもない。次は右へ、その次は左へ、なにもない場所をひたすら歩き続ける。ときおり座り休憩し、また再び歩きなにかを探す。もうどれくらい歩いたか分からずどうしようかと思っていると扉が目の前に現れた。躊躇することなく開くと、そこは会社だった。わたしの席は空白になっていて、しかし皆はいつも通り仕事を進めている。
「課長いないと雰囲気いいよね」
「まあ、あの人独りよがりだから」
 そう言ったのは同僚だった。
「課長と仲良かったですよね?」
「ただの同僚。正直一緒にいるとつまんないから」
 同僚は笑う。わたしはそれを壁の内側から見る。同僚が笑うのに合わせて、他の者も声を出して笑っている。わたしはやはり壁の内側からその光景を見る。缶コーヒーが二本、引き出しの中に入っているのが見える。部下に受け取ってもらえなかったコーヒーは、いつまでもそこに眠り続ける。
 わたしは家に戻りベッドルームを眺めた。そのままなにもせずにぼーっと過ごした。壁沿いに歩いていると家の中を移動できることが分かったので、一階へと下りてリビングに来た。誰かが帰ってくる音がし、見てみると妻だった。そのあとに娘が帰ってきた。二人はほとんど顔を合わさずに、娘は自室へ妻はキッチンに立つ。誰もわたしのことを気にしていない。まるで家族というものの中にわたしという存在が初めからいなかったかのようだ。
 日を経ることにわたしの痕跡が消える。会社でも、日々デスクの上のものが消えてなくなる。しかしわたしは壁から出られない。わたしのことを話題にする人もいなくなってしまった。
 ついに壁の中に入って十日目、家の中からも、会社の中からも、そしておそらく人々の記憶からもわたしという存在は奇麗さっぱりと消失してしまった。

                                       了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?