夏休みの”宿題”
宿題、大嫌いだったし、今も大嫌いだ。
毎日の宿題はもちろんだし、夏休みの宿題も。
夏休みの宿題は、要らない。
理由は、3つ。
1つ、「宿題=苦行」の構図があり、”やっつけ感”が全面にでる。
2つ、子どもが「その学習が必要なのか」を考える余地がない。
3つ、子どもの”余白”が奪われる。
私たち教師も、保護者も、つい子どもを管理したがる。
分刻みの学校生活。担当者さえ曖昧な細かすぎるルール。今だ一斉一律で揃えることを強いられる授業や行動。学校で一日フルにがんばって(耐えて)いる。
放課後も、自由時間はあまりない。学童、習い事、そして”学年✕10分”と推奨される家庭学習。自学と称して強制される宿題(「先生、自学が宿題って、自主学習じゃないですよね。」以前、子どもに笑いながら指摘された)。面白くも何ともない宿題は、やがて”やっつけ仕事”になり、学習の必要性も考えず、言われた通りのことをする”思考停止”状態になる。
また、家族とゆっくり団らんする。草花や生き物に夢中になる。空想にふける。好きな本をひたすら読む。未知の体験をする。ぼーっと空や木々を眺める・・・。こんな素敵な時間、子どもたちはどれくらい確保できているか。
大人は、想像力をもっとはたらかせたほうがいい。(私自身も)
それでも、宿題を推進する多くの大人は言う。
「家での学習習慣は大切だから。」
しかし、
・学習が楽しいと思えず、
・必要かどうかの意味もたいして考えず、
・子どもの余白を(ついでに睡眠時間も)奪う。
そういう形式の宿題をさせてまでも、「学習習慣」をつけるのか。いつまでたっても、「学び=楽しい」と結びつかないだろう。
私たちの多くは、日本の教育を受けてきた。大人にとっても、宿題に対して、マイナス感情が多いだろう。そもそも宿題は、「宿」の「題」と書く。
「題」→解決を求められている事柄
「宿」→人が住まう場所
「家に持ち帰って、解決を求めるもの」、それが「宿題」。つまり、出す側が、時間と場所を指定している。しかも、全員が”同じ内容、同じ量”が一般的。「今日は、宿題なしです」と、言おうものなら、たいていの日本の教室では大歓声があがる。
自学級では、「宿題」ではなく「課題」としている。しかし、「宿題」的な性質を拭えないもどかしさがある・・・。
夏休みまで、10日余り。さて、夏の「課題」をどうするか。立ち止まって考えてみる。
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