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はらいそ通信

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互井観章のインド旅行記。 "はらいそ" とはポルトガル語で「楽園」を意味する。
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インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.7

お釈迦さまは、晩年、最後の旅をする中で商業都市ヴァイシャーリーを訪れた。 この地をお釈尊さまは何度も訪れ、時には長く逗留された懐かしい土地だった。その思い出深い土地で、お釈迦さまは発病した。余命の短いことを悟ったお釈迦さまは旅を共にしてきた弟子のアーナンダに有名な法話をしたという。 それが「法をよりどころにせよ」という言葉だった。 さらにお釈迦さまは とアーナンダに伝えたという。 昨日までいたコルカタの町のエゴむき出しの喧騒とはうって変わり、のどかなインドの農村地帯の

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.6

そう、何事も腹一杯ではいけないのである。にも関わらず、インド一日目にして、もう食べられない程、お腹一杯である。「コルカタの街を体験すれば、あとはどこ行っても大丈夫ですよ」って、今回の旅の企画をお願いした旅行会社のNさんはにっこり笑うのだが、愛想笑いを返すのが精一杯である。 考えてみれば、昨晩遅くにコルカタのホテルに入り、朝から一日、世界で一番最悪な街といわれるコルカタの街を歩き回り、病人や体の不自由な人、死人や葬儀に出会い、濃密な生老病死を味わった。お釈迦さまの出家の理由に

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.5

「経王寺の旅行は、普通の旅行では味わえないオプションが売りなんです」って、いつも言ってきた。確かに過去の団参(団体参拝)において、旅行会社の企画とは違い、特別にご開帳やご祈祷を受けたりしてきた。だから、今回のインド旅行も他とは違う企画を考えていた。それが「マザーハウス見学」だった。 マザーハウスはマザー・テレサがコルカタで始めた活動。「死を待つ人々の家」というホスピスを開設したのがはじまりで、路上やスラムで死ぬことを待つしかない人が安らかに死を迎えることのできる家を作った。

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.4

 超豪華なホテルを満喫することもなく後にした私たちは、コルカタの街に繰り出した。コルカタ、昔の言い方はカルカッタ。インドの西に位置し、人口は約450万人。イギリス人曰く「この宇宙でもっとも最悪の町」といわれたコルカタは、路上生活者は200万人とも300万人とも言われる。ある意味で最もインドらしい街ともいえる。 私たちを乗せたバスは、街の中心部に向った。とにかく、人と車の大混乱。コルカタ中の人と車が目の前に集まっているような状態。喧騒と無秩序。なんじゃこりゃって感じ。「インド

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.3

日本を出発する前に、友人から『インドの洗礼』の話を聞いた。我々日本人が、インドを旅行する際に必ず受けなければならない洗礼があるという。1つめは「物乞い」、2つめが「狂ったように走るバス」、3つめが「臭い」だそうだ。早くその洗礼を受けて慣れてしまうことがインド旅行の秘訣だといわれた。 幸せなことに、真夜中のコルカタに到着して、それを全部体験した。バスに乗るまでの短い距離、乳飲み子を抱えた母親が呪文のように「ミルクミルク・・・」とささやきながらついて来る。幼稚園児くらいの子ども

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.2

三島由紀夫が最後の晩餐に選んだのは、新橋の鳥鍋料理だった。帰り際に「こんな美人がいるなら、あの世から来ようかな」と女将さんに言ったそうである。そして、私が最後の晩餐に選んだのは、やはり日本食だった。季節の素材を生かした「先き付」、白身と赤身を程よく合わせた「御造り」、てんぷらや煮物、炊き込みご飯にお味噌汁。もちろん地元で作られた冷酒を添えて豪華な夕食である。あぁ、これで心おきなく旅立てる。さらば愛しき日本食、生きて帰ってきたらまた会おう!と、成田のホテルで一人盛り上がる。世間

インド旅行記 ー はらいそ通信 - vol.1

  横尾忠則さんがいなかったら、僕はインドには興味を持たなかったかもしれない。正確に言えば、横尾さんが描いた細野晴臣さんのLPジャケットを見なかったら、ということである。 細野さんは日本を代表するミュージシャンの一人。坂本龍一さんたちとYMOを結成した中心人物である。その細野さんのアルバムジャケットを描いたのが横尾忠則さんだ。キテレツ、摩訶不思議で暑苦しく、そしてなぜか危ない感じがするジャケットだった。その絵はどう見てもインドだった。初めてレコード屋でそのアルバムを手にした