どうにかなりたイさんの感想を読んで(「『観測するわたし』と『実存するわたし』」の補説)

本記事は、私の雑記(以下、本論考)に対する感想であるどうにかなりたイさんの記事(https://note.com/arai_dounika/n/ndc012c9d1a51)への反応です。

まず、私の拙い記述に対して、明快な疑問と感想とを投げかけてくださり、またおすすめの書籍を紹介してくださったどうにかなりたイさんに、心より感謝いたします。
さて、そのうえで、私はどうにかなりたイさんが提示してくれた疑問の解消を試みたい。「試みたい」とあやふやなのは、どうにかなりたイさんの仰る通り、本論考の内容は、一人称に対し過剰な特権化を発生させているように見えかねないからである。
誤解のあり得る部分については説明を尽くすが、もしかすると、一定の誤解が解けたあたりで、本論考は別の論理と根本的な対決構造を取らざるを得ないやもしれない。そのうえで、私は本論考について、なるべくの誤解を解いておきたい所存である。

ではここから、どうにかなりたイさんの記事を私の言葉も交えつつ、本記事において反応したいところを概観する。
まず、どうにかなりたイさんは、本論考が「一人称を過剰に特権化」されていることを指摘する。
例えば、”あなた”や”石ころ”の視点や感覚の実態は、構造的に知り得ないのであって、それを持たないと独断的に(独在論的観点からも)否定すべきではない。
そもそも、無条件に「世界はXから開けている」とするならば、Xには”あなた”や”石ころ”が入ってもいいはずである。そして、そのこともまた、思弁の特権ではないだろうか。
また、主体を「視点を有するもの」と定義するなら、世界を開いているのは「私」ではなく「私の眼球および視神経」ではないのか?とも指摘する。
このとき、眼球または視力を失った私にとって、世界は完全に閉ざされたことになる。これは「可感性を世界の主体の条件としている観念論に付きまとう」問題である。
この問題点の例として「世界のどこかにいる可感的主体(私を含む)に全身麻酔をかけたら世界は消滅してしまう」という主張が挙げられる。これは直観にそぐわない。「思惟するものは存在する」とは、麻酔によって偽となりうる。
そして、どうにかなりたイさんは、自らの視線恐怖を始点に、世界とは「私が開く」ものではなく、その逆で「私は世界に曝かれている」という直観こそ私には馴染む表現であるということを示す。その意味において「客観的世界を「あなた」と二人称で呼ぶことに首肯できる。なぜなら世界はこちらを親しげにじっとりと見つめ、一方的に対話を試みてくるからだ」とする。
また、この「開かれ」と「暴かれ」の対立は、実存においてハイデガーの楽観(存在を三人称からの贈与と表現する)とレヴィナスの悲観(il y aとして非人称性を強調する)の対立にも似ていることを指す。
最後に、どうにかなりたイさんは冒頭から本論考と実存に関する態度が違っていたことを明確に表明され、「視点を持たないと前提付けられたあなた(=客観的世界)と、私はコミュニケーションをとることが出来るのだろうか。「わたし」の概念は複雑で、「あなた」との関係は時として錯綜しているように見える」ことや、「「『あなた』の意味は無意味と重なる」のような禅問答的撞着語法や「無限背進という無限の川の流れは調停される」といった比喩は、詩的修辞によって読者を煙に巻いていると取られかねない」ことを指摘した。

ここまでが、どうにかなりたイさんの記事の意図を、曲げぬよう意識し解釈を加えたものである。そしてここから、重要な問題点を挙げていく。
まず一つ目に、本論考が「一人称を過剰に特権化」されている、という指摘。二つ目に、世界を開いている主体の条件が、可感性になっているのではないかという指摘。三つ目に、「開かれ」と「暴かれ」に類推される本論考の位置づけである。
端的に言えば、これらは本論考の誤解に基づいていると私は思っている。では、それらがなぜ誤解となるのか。このことを順を追って説明していく。

まず、本論考が「一人称を過剰に特権化」しているという指摘。
これはおそらく、”私”と「わたし」の混同によるものであると思う。
どうにかなりたイさんの文脈において、これらはどちらも一人称的なものであると認めていることがうかがえる。
しかし、「わたし」とは、原理的に非人称的なものである。また、私(筆者)は”私”のことは特権化していない。このことからこの指摘は「非人称を過剰に特権化」と言い換えるのが適切であるように思う。
「わたし」が非人称的であることの理由において、「わたし」とは存在の淵源を意味することが挙げられる。
存在(の淵源)が無条件に「特権化」されるのは、私たちが存在するものである以上、それは権力構造さえ超えて、”より”(more than)特権的であるのは必然的なことである。
では、(恐らく混同の要因となっている)「実存するわたし」に出てくる「あなた」とは何か。これは意味の淵源であり、「実存するわたし」の志向するものではある。しかし、「あなた」とは存在ではないのである(これが非常に重要である)。
そのため、「あなた」を存在の観点から捉え直せば、「あなた」は「わたし」に存在として包含されてしまう(これは「わたし」が膜状のものであるという意味ではなく、また「わたし」の外を明示または暗示するものではない――これと、本論考において「観察するわたし」が「観察するわたし」に重なる、という表現は、究極的に一致する――)ことになる。「わたし」とは非人称的なものであり、「わたし」という一人称的な言葉を用いるわけは、「あなた」という意味の淵源がそれに対応しているからであるが、決して「あなた」は「わたし」と癒着せず独立に存在しているわけではない。よって原理的に(究極的に)「わたし」とは非人称なのである(これは余談に近いが、では、なぜ「観測するわたし」も「わたし」なのか?それは、我々が「実存するわたし」からしか何事も表明することができず「観測するわたし」とはそうした「わたし」と「あなた」の関係によって表現せざるを得ないものだからである)。

ここにおいて、「わたし」というものが非人称であることは表明された。このことから、本論考において「わたし」が「思弁によってとらえられるべき」事柄であることが理解されると思う。そもそも「わたし」とは非人称的なものであり、よってそこに「石ころ」や「あなた」という”存在と独立した存在”が入り込む余地はない。もし入り込むとすれば、それは「わたし」と同化しているのだ。

そしてここから”私”を捉え直すと、その二つは文字上一人称を取りながらその実違うものを表していることが発見されるだろう。ここから、第二の指摘「世界を開いている主体の条件が、可感性になっているのではないか」の誤解を解きたい。
この指摘において、「世界を開いている主体の条件」として言われているのは、”私”の方だろう。そして、そのことから世界の存在を論じている、という風に解釈しているものと私は受け取った。しかし、本論考で私(筆者)は「世界を開く」ことと「世界が存在している(世界を存在せしめる)」ことを区別している。
そして重要なのが、”私”は「世界を開く」が、世界を存在させることはできない、ということである。世界を存在させるのは「わたし」であって、”私”ではない。実は本論考において”私”が「世界を開く」とは、一般論的な話をしている。というのも、”私”とは「視点を有する主体である」というのが本論考の定義であったが、それはつまり”感覚質を持つ”と言い換えてもいい。感覚質とは視点の本質である。おいしいという感じ、赤いという感じ、それらはすべて”私”のみが有することであり、他人もそれを言語などにより表明するが、”私”はそのあるはずの他人の感覚質に到達することはできない。また、他人さえ、”私”は己の感覚質の中で咀嚼する(人の痛み、とは、”私”がけがをすることなどとは区別されるが、それもまた”私”の痛みに他ならない)。
そのため、”私”とは「視点を有する主体」なのである。このことから、「視点」とは端的に眼球や視神経を表しているわけではない。確かに、全身麻酔をするとき”私”はないが、それが言えるということは、”私”が全身麻酔の後覚醒し、視点を以て「ない」ということを現したということに他ならない。「ない」ということも、やはり己の感覚質、視点によって嚥下されるものであり、もし可感性が問題になることがあるとすれば、それは死後の問題であろう。死後は「絶対に」”私”は”私”でありえない。そのため、これは「わたし」の話からずれ、一般論に近いものである。

だが、「わたし」の話はそうではない。「思惟するものは存在する」とは”私”の話であって、「わたし」はその限りではない。「思惟するものは存在する」とは、思惟によって”私”を対象化し、存在していると認めることができる、という話である(そう、”私”とは対象化されるのだ)。
だが、これが「存在していること」、これは”私”の範囲ではない。”私”と「わたし」とは、その存在性によって区別される。”私”には感覚質があり、それにより他人の有するであろう”私”とは並列されない(よって、私から世界は開けている)が、「それが存在している理由はどこにもないのだ」(本論考で「私には感覚質があるが、それがあったとして、世界は存在していなくても良かったのである」と表現した意図はここにある)。感覚質、ひいては視点とは、それが存在の理由になるのではないのだ。それを存在に直結させるためには飛躍が生じ、ではこの飛躍をなくそうとすると、「存在はあった」としか表現せざるを得なくなる(飛躍をなくすとはトートロジーにならざるを得ない)。それを突き詰めたのが、この「わたし」概念なのである。よって、本論考は、語り得ぬもの(文字によってそのものに到達せず、ただ示すしかないもの)を語り得るように試みたものである。

だから、「私は世界に "明かされて" 存在する」とは真である。私とは「実存するわたし」の生み出した(見出した)意味なのだから、それが客観的世界とあなた(通常の意味での二人称)として対話することも尤もである。しかし、ここでは”私”さえ客観的世界の住人であることには留意が必要である。よって、”私”と客観的世界がコミュニケーションを取れるのか、という問題は、否である。なぜなら、純粋なコミュニケーションとは、ある存在と独立した別の存在が、相互に語り合うことだからである。
では、「実存するわたし」にとっての「あなた」を考えるのであれば、私も、客観的世界も、それは「あなた」という背進不可能な意味からやってきたものである(よって、「あなた」とは一般的な意味の範疇では無意味であるほかにない)。かつ、「実存するわたし」はそうしてそれらが「無意味であることをしりながら」意味を見出している。この「禅問答的撞着語法」は、存在(「わたし」)と意味(「あなた」)の関係性を把握していなければ、捉えるのは難しい。改めて表すと、意味と(無根拠な)存在に収れんするものであり、意味は徹底的に存在に無力である。よって「『あなた』の意味は無意味と重なる」という表現を捉えるためには、そうした存在と意味との真の意味で隔絶した関係に注意しなければならない。

さて、そして第三の指摘「「開かれ」と「暴かれ」に類推される本論考の位置づけ」である。私はハイデガーとレヴィナスの文脈については寡聞にして知らないので、決定的にそれを表現することはできないが、この文脈においてあえて示すとするならば、「実存するわたし」とは、むしろレヴィナス的なものであると思う。しかし同時に、ハイデガー的でもある。意味は徹底的に存在に無力でありながら、しかし我々(”私”たち)はそれを通してしか”息をする”(何かをを認める)ことができない(という風に捉えざるを得ない)。よって、意味は我々(”私”たち)にとって、豊饒なものでしかないと言い切らなければいけない。これを否定するということは、端的に己のみで自殺をするということであり、ナイフやロープもなしに自殺をするというのは不可能なことだからである。我々は意味を全面的に認めざるを得ないのだ。意味という定義が、すでに無意味なものであったとしても。
(追記 : 意味とは豊饒なものである、とは、三島由紀夫の「豊饒の海」というタイトルの由来に倣って、意味とは同時に月の海のように乾ききったものである、という文脈も含まれている ここだけ文章の毛色が違うのはそれをレトリカルかつ端的に、あわよくば倫理的に示すつもりであったが、書くのを忘れていた とはいえ、意図がくみ取れないことはないので、このまま残しておく)

さて、ここまでくるとまさに「「わたし」の概念は複雑で、「あなた」との関係は時として錯綜している」本論考が、掴めてくるのではないかと思う。「わたし」と「あなた」の隔絶した関係性、というのが、本論考理解には非常に重要なのだ。
では、最後の「『無限背進という無限の川の流れは調停される』」とはどういったことだったのか、について説明して、この記事を終わりたいと思う。
「あなた」とは結局無意味なものである。しかしながら、もしこの「あなた」を突き詰めていく過程があるとするならば、「あなた」はその常に一歩先を行っているはずである(「あなた」とは無意味(存在に収れんするもの)でありながら、意味の自明の条件であるのだから)。川の流れとは、まさにその例えである。もし無限の川の流れがあるとするならば、その川は無限に表情を変えるだろう。つまり、「あなた」にどれだけ近づいても、その川はその貌を変え続ける。では、この無限の川の流れが「現に現れている」とはどういうことなのか。それは、やはり「わたし」という存在によってだろう。「わたし」とは、「存在する」というただ一点において、川の流れを一点で見ているということによって、「あなた」の無限背進を観測し続けることができる。とはいえ、これはもし「あなた」の無限背進というものが、本当にあるのだとすればの話である。この「あなた」の無限背進とは、そもそもどういったことが厳密に定義されるのか、などといったことを、本論考において今後の展望として据え置くことにしたのだ。

どうにかなりたイさんの記事は、本論考を整理するうえで、多大な貢献をしていただいた。改めて、心より感謝を申し上げるとともに、重ねてお礼申し上げます。

追伸
私は独在論については寡聞にして詳しくないが、永井均には興味があったので、たまたま図書館から借りていた「私・今・そして神」を読んだ。
ここに本論考の象徴ともなり得るような一文があった。

開闢それ自体が、その内部であとから生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。(強調筆者)

永井均『私・今・そして神』(p.43)

この「最初から嘘みたいなもの」というのは、意味の場にいる私たちにどのようにして捉えられるのか?というところを煮詰めたのが、本論考である。この文章によって、”私”や客観世界などという意味は、「最初から嘘みたいなもの」というのでは足りず、「最初から〈嘘〉」であるということが、より判然すると思う。

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