「『観測するわたし』と『実存するわたし』」を読んで

 同一さんの記事 ( https://note.com/smugsonatine/n/n3bb5f146d9d9 ) の感想です。

 実存哲学やここまでの文脈を知らないからとんちんかんな感想になってしまうかもしれないけど、私には同一さんが一人称を過剰に特権化しているように感じられた。
 まず視点という概念について、一人称は「私とは視点を有する主体である」と楽観的に結論付けているのに対して、二人称や三人称については「あなたは私のように視点を持たない」「石ころはなおさら視点を持たない」と独断的に否定している。しかし、独在論が認めるように、 "私" には "あなた" や石ころが如何様な視点や感覚を持つのか、その実態は構造的に知り得ないはずである。
 前提とする議論もなく無条件に「世界はXから開かれている」と断言していいのなら、Xには「私」ではなく「あなた」や「石ころ」が入ってもいいはずである。「石ころから開かれている世界」について志向できることも思弁の特権ではないだろうか。

 また主体を「視点を有するもの」と定義するなら、世界を開いているのは「私」ではなく「私の眼球および視神経」ではないのか? 私と私の眼球は、切り離してしまえば別物である。この場合、眼球や視力を失った私にとって、世界は完全に閉ざされたということになってしまう。
 これは可感性(五感やそれに当たる能力を有すること)を世界の主体の条件としている観念論に付きまとう問題である。世界のどこかにいる可感的主体(私を含む)に全身麻酔をかけたら世界は消滅してしまう、という主張は端的に直観にそぐわない。「思惟するものは存在する」という命題は麻酔によって偽となりうるのだ。

 私がここまで一人称の主体化に懐疑的なのは、私が視線恐怖持ちだからかもしれない。私には「私が世界を開いている」のではなく、その逆の「私は世界に曝かれている」という言葉の方がしっくりくる。世界が、他人の眼が、街灯の光が、私の肉体が、頓服薬が、脳神経が、それを構成する粒子の束が、私自身を苦痛と快楽の渦中に放り込んでいるのだ。
 私は観測主体(observer)ではなく観測対象(observee, こんな単語あったっけ……)なのだ。私は世界に "明かされて" 存在する。その意味でなら、客観的世界を「あなた」と二人称で呼ぶことに首肯できる。なぜなら世界はこちらを親しげにじっとりと見つめ、一方的に対話を試みてくるからだ。

 「existence」に関して有名な話がある。ハイデガーは存在することをドイツ語で「es gibt」(gibt は geben,「与える」の三単現)と三人称からの贈与として表現したのだが、その弟子のレヴィナスはフランス語で「il y a」(~がある)とし、その "il" の非人称性を強調したのだ。
 存在論においてハイデガーは実存を豊穣な活動、レヴィナスは不眠の中でのざわめきと表現している。この楽観と悲観の対立は、世界が同一さんにとって"私"からの「開かれ」、なりたイにとって"私"の「曝かれ」であることに似ていると思う。
 レヴィナスのハイデガー批判は『倫理と無限』(西山雄二訳, ちくま学芸文庫, 2010)が読みやすいのでおすすめなのだ。実存批判はきっと同一さんの興味の範疇にあると思う。

 冒頭から実存に関する態度が違ったので、他の大部分に関しては正直あまり理解できなかった。視点を持たないと前提付けられたあなた(=客観的世界)と、私はコミュニケーションをとることが出来るのだろうか。「わたし」の概念は複雑で、「あなた」との関係は時として錯綜しているように見える。
 「『あなた』の意味は無意味と重なる」のような禅問答的撞着語法や「無限背進という無限の川の流れは調停される」といった比喩は、詩的修辞によって読者を煙に巻いていると取られかねない。文体は好みの問題だけど、アライさんには難解すぎたのだ……。

 ともあれ、読みごたえのある論考なのだ。アライさんの理解の追い付いてない部分もあるから、同一さんの他の記事と合わせてじっくり読むのだ。

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