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娘たちよ、われらの手で エケミニ・ピウス(ナイジェリア)

COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 
もくじ  巻頭エッセイ(ニイ・パークス)

エケミニ・ピウス(Ekemini Pius)はナイジェリア南東部の街、カラバル在住の作家、編集者。2019年ワワ文学フェローシップの卒業生で、ケンデカ賞アフリカ文学アンソロジー、アフロ文学マガジン、イセレ・マガジンなどで作品を発表。『Daughters, By Our Hands』で、2023年度ケイン賞最終候補(5人)の一人となる。(作品の後に作家のことば)

Ekemini Pius, photo by Offlong Ekpenyong
From World Literature Today


I.

エメがパニックに陥ったのは、娘のアニエマがあと5ヶ月で18歳を迎えるというときだった。娘は明らかに女へと変化し始めていた。14歳で生理がはじまり、定規のように固くまっすぐだった体に丸みが増し、胸や尻が膨らんでカーブを描くようになった。いまでは自分が、一人前の女になりつつあるのを十分自覚してるような歩きぶりである。でもエメは不満だった。娘の手首を万力のように締めつけグッと引き寄せると、じっと手のひらを見た。アニエマの手のひらに延びる細い線が、アスファルトの広々とした道路に続く道なのかしげしげと確かめる。そしてすばやく娘の手をひっくり返し、その指の先を見つめてがっかりする。固い爪が生えているはずの場所、甘皮に食い込むようにそこに爪が伸びてこなければ、アニエマはブリーダーにはなれない。

エメはぷっくりとした小さな女で、熱い炭の上を跳びはねるみたいに、今にも駆け出しそうな歩き方をした。目は何かに歯向かうように大きく見開かれ、鼻は顔の中央で平たく全面降伏していた。暗褐色の肌は光があたるとつやつやと反射し、小さな体から出ているとは思えない大声でしゃべった。部屋に鳴り響くエメの声は、ほかの人を黙らせた。その声によってエメは存在感を増し、同時に背丈も数センチ増したように見えた。しかし何か心配ごとがあると体が縮んで、いつも以上に小さくなった。自分の心配ごとを預けられる相手を手当たりしだい探し、身が軽くなって気分が安らぐまで威嚇でもするように跳ねまわる。(預けられた女たちには、エメにそれを返せる当てはない)

II.

今夜も、エメは娘の手をとると額にシワを寄せた。二人はペストリーショップでワッフルバーガーを食べていた。大きなエアコンから冷たい風が吹きつけ、アニエマは柄物のコートを身に引き寄せた。店内はミートパイの美味しそうな匂いに包まれている。テーブル越しに話すお客たちの低い声と、銀の縁取りの白い皿にナイフとフォークがあたる音が混じり合う。白シャツに黒ズボンのウェイターが、客に会釈しながら食べものを配り、皿を片づけていた。店の外では、交通渋滞の中、車が我先にとクラクションを鳴らし合っている。道の脇では街灯が見張り番のように並びたち、鈍い灯りをアスファルトに放っていた。

アニエマは居心地悪そうに椅子の上で身をよじり、母親の視線を避けようと、バーガーに目を落とした。母親の目がアニエマの額を射抜く。アニエマの黒く豊かなアフロヘアが卵形の顔を縁取り、繁茂する草のように頭を覆っていた。天井から吊るされたシャンデリアの柔らかな光の下で、キャラメル色の肌が輝いている。

「あと4ヶ月で18歳の誕生日がくるというのに、まだ爪が生えてこない」 エメはアニエマの指先を見て言った。

アニエマはくちびるを噛んだ。何て言い返せばいいんだ。「あたし、ブリーダーに生まれてこなかったんだ、きっと」 やっと聞こえるくらいの小さな声で言う。

エメはつかんでいる娘の手首をきつく握り、眉をひそめた。「ウチんとこの女はみんな、自分の爪で受胎して、みんな子どもを産んでるんだよ。あんただけ違うなんてことはない。いい血が流れてるんだから」

「だけど友だちでブリーダーになった子たちはみんな、15か16で爪が生えてた。あまり期待させてママをがっかりさせたくはないんだ」 アニエマが言った。

「いつもいつもその時期に生えるとは限らないんだよ」 エメはピシャリと言う。「わかってるのは、18歳までに爪が生えなかったら、もう生えないってことだけ。だけど誕生日の前の晩に生えるってこともあるんだからね」

母親は腹立ち紛れにそう言ってる、アニエマはそう思った。この母は耳を貸そうとする者には、自分の娘はブリーダーになると自慢していた。その一方で、ブリーダーではない女たちを「かろうじて女」と呼んでさげずんでいた。もし爪が生えてこなかったら、母親は人々のあざけりを受け、その重圧で体を縮ませるだろう。そうアニエマは思っていた。母親は何よりも、自分が間違っていたと証明されることを恐れていた。

「わかったよ、ママ。でもあたしに爪が生えてきたとしても、25歳くらいまでは自分を受胎させたくはないんだ。その準備ができてるとは思えない」 アニエマはナプキンで口元についたサラダの切れ端を拭った。

エメがアニエマを睨んだ。その目には苛立ちがあった。「あんたは消極的すぎる。この母の娘として、消極的すぎる。どう考えているんだい? なんで25まで待つのさ。あたしは早く孫を抱いてみたいよ」 タイル張りの床をガガッと鳴らしながらエメは椅子を後ろにさげ、ウェイターに勘定書きをもってくるよう合図した。その間、目の端で娘を見据えていた。エメはウェイトレスの手にクシャクシャの札を押し込むと、足音をたてて店を出ていった。残されたアニエマは母親を追いかけようと、椅子からあわてて立ち上がる。

III.

ある朝(18歳の誕生日の1ヶ月前だった)、目が覚めると、アニエマは自分の指先に爪が生えているのに気づいた。ベッドカバーをはね飛ばし、母親の部屋に飛んでいった。ドアを勢いよく開けて中に入ると、母親はびっくりして手にしていた聖書を落とした。アニエマは指先を母親の目の前に突き出した。エメは目を突かれそうになってのけぞる。エメは娘の指を見て顔を紅潮させた。アニエマを腕の中にしっかり収め、背中をやすりでこするみたいに強くさすった。そして抱きしめていた手を離すと、娘の肩をつかんでタバコのしみのあるギザギザした歯を見せて笑った。

「あんたにはいい血が流れてるって思ってた。何度も言ったけど、うちの女たちはみんな爪を生やして、受胎して自分の子を持ってきた。どうしてあんただけ、違うなんて思ったんだい?」 そう言って肩を揺らして笑い声をあげた。間近に顔を寄せていたアニエマは、母親のタバコ臭い息が顔にかかり鼻にシワを寄せる。

部屋に朝一番の風が吹き込むと、エメの顔を髪がおおい、ダブダブしたナイトガウンを膨らませ、窓に掛けられたロールスクリーンを揺らした。壁にはエメの母親(アニエマの祖母)の若かった頃のぷっくりした姿を捉えた、数枚の肖像写真が掛けられている。エメはベッドに腰掛けるよう娘を誘った。

娘の手を取ると、部屋の電球の灯りを受けて輝く、薄ピンクの爪をほめそやした。最後の最後に起きたこの奇跡に、喉元に熱いものが込み上げる。

エメは娘を見上げ、荒れて硬くなった手のひらでその頬を包んだ。「アニエマ、いい、これからの計画を立てなくちゃね。あんた、子どもをもつ準備ができてないって言ったよね、でも計画を立てるくらいはできるでしょ」

アニエマは母親の訴えかけるような目を逃れ、壁に掛けられた埃で曇った鏡に視線を移した。「うーん」とアニエマ。

エメは信じられない思いで目をパチパチさせた。期待はなかった。娘はこのことをすぐにでも話し合いたいとは思っていない。でもエメはやっとチャンスを得たのだ。矢が飛び出すように口から言葉がこぼれ出た。「何人くらい、女の子が欲しいの?」

「一人でいい」

「どうして? 10個の爪があるのに。4人でも5人でも娘が持てるのに、またどうして?」 エメが目を細めた。

「でも母さんだって、あたし一人じゃない」 鏡から目をそらして母親の顔を見つめた。

「あの時代は厳しかったの、だから一人しか育てられなかった。だけど今は違う。あんたは医学を学ぶこともできるし、高級取りの医者にだってなれる。少なくとも4人の娘は育てられる」 エメは娘の肩をやさしく揺すった。

「オーケー、わかった」 アニエマはとりあえずそう答えると、母親の手から逃れた。娘の肩に置かれていたエメの手がポトリとベッドに落ちた。アニエマはひょろりとした体を伸ばすと、サンダルに足を突っ込んだ。

エメはブラインドを上げようと、窓のところに行く。鳥たちが庭に咲くイクソラの花々の上を飛びまわり、チュンチュンとけたたましく鳴いている。伝道師の哀調を帯びた声が朝のひんやりした空気を縫って、目覚めたばかりの近隣の人々に、自らの道を改め、神の元に戻るよう訴えていた。

「自分が欲しい娘の数を決めたら、あとの爪はどうするつもりなの?」 エメが腕を組んで訊く。

「とっておく」 アニエマは自分の決意を示すように拳をにぎり、強い調子で言った。「とっておくよ」

エメは驚いて目を見開き、顔を前に突き出した。「どういうことなの? ノン・ブリーダーの、『かろうじて女たち』に売れば、どんだけ稼げるか知ってるよね」

「ママ、『かろうじて女』なんていないの。爪が生えてこないのは、あの人たちのせいなの?」 あきれた表情のアニエマ。

「どうかしら。だけどね、あたしが9個の爪を売ることでいくら稼いだか、知ってる? この家を買って、街で商売を始められたんだよ」 エメは自分の手を差し出し、かつて爪のあった場所を娘に見せた。

「母さんは必死になってる人たちを騙したんだ。聖書に騙してはいけないって書いてある」 アニエマの声には怒りがこもっていた。

エメは網戸の網目にこびりついた汚れを取りながら、ひきつった笑いを見せた。「あんた、騙すっていうのが何かわかってんの? あの人たちは指に爪をくっつけるだけ、それを安くしろって? 命を手渡すことへの報酬じゃないの? あんた、あたしの体から生まれた人間とは思えないよ」 エメは腹をポンと叩いて言った。

アニエマはあきれかえってため息をついた。もちろんアニエマだって、爪がどのように働くかはわかってる。自分の指先に爪を貼りつけた女は、3週間のうちに、爪の持ち主の遺伝子情報が本人のものと置き換えられ、その指を膣に入れれば、それが体内を通って卵子に行き着き授精、妊娠が起きる。母親の言い分を聞くのに疲れ果てたアニエマはため息をつくと、仕事に出かけるために、ゆるゆるのサンダルを穿いた足を床に叩きつけるようにして部屋を出ていった。

アニエマは風呂の湯を沸かそうと、ストーブの火をつけた。母親に嘘をついたことで胸に痛みを感じていた。とはいえ一人だけ娘を産むと言ったのは、そうとでも言わないと何人産むんだとしつこく迫る母親を止められないからだ。アニエマは自分の人生を、生涯にわたる重荷と感じていた。それに加えて娘を育てるなどという重圧には耐えられそうもなかった。それとも、母親の強欲さを自分が償っているのだろうか。アニエマは自分とは違い、娘を育てたいと願っている貧しい女たちに爪を与えようと、心の中で誓った。やかんの湯が沸き、アニエマはわれに返った。

IV.

アニエマの変化は、縫い子として働いているママ・シンシア・ファッション・ワールドの従業員たちに衝撃を与えた。ママ・シンシアの店は、シンガーミシンが壁際に5台ずつ、全部で10台並ぶ大きな部屋だった。もう一つの壁には巨大な棚が設置され、布製の袋やツヤツヤした表紙のファッション雑誌が積まれている。裁断された様々な布切れ、不要な布が床の上に散らばっていた。大きな姿見が二つ壁に掛けられ、そこで顧客たちが試着をした。

アニエマの縫い子仲間たちは、この数ヶ月間、すご腕のエメの娘が(自分たちのように)ノン・ブリーダーになってしまうのかどうか見届けたいと、裏でコソコソ噂話をしていた。アニエマが店にやって来ると、みんなの目が指先に釘づけになった。まだ爪が生えてないと見てとると、目を輝かせてウィンクしあった。その朝、アニエマが爪をこれ見よがしに見せながら店に入って来ると、ミシンのカタカタいう音と女の子たちのおしゃべりが突然やみ、息をのむ喘ぎ声に変わった。試着をしていた顧客も、アニエマを賞賛の目で見つめ、帰り際に何とかして電話番号を聞き出そうとした。アニエマは店の空気が変わったのを感じていた。敵意が消えて、笑みが自分に向けられていた。

店のオーナーのママ・シンシアは、アニエマについてゴシップを流し、それを煽り、自分が嫌っていることをあからさまにし、他の女の子たちを喜ばせるために不公平な仕事の配分さえしていたのに、いまやアニエマにおずおずと笑顔を向けている。ママ・シンシア自身、ノン・ブリーダーで娘を死ぬほど欲しがっていたが、高くて手が出なかった。店の収入では高い料金は払えないと、いつも終わりのない泣きごとを漏らしていた。ママ・シンシアはわし鼻に薄いくちびるの、立派な尻の持ち主で、大声で命令を下しながら、あら探しをするようにして店の中を歩きまわった。そのママ・シンシアがスツールを引き寄せ、アニエマの隣に腰をかけた。天井には三つも扇風機が回っているというのに、汗の玉が首元にたまっている。

「アニエマ、あんたはあの母親の本物の娘だわね。その爪、なんてきれいなのかしら」 口元に欲望があふれていた。

「それはどうも」 アニエマはそっけく言い、テーブルの上で裁断したりチョークで印を付けていたタフタに集中し、店主と目が合わないようにした。

「これが手に入ったんだから、もう服を作る必要はないんじゃないの。あなたの分は他の子たちにやらせるから」 ママ・シンシアは肩越しに誰も聞いてないことを確かめてそう言った。

「ご心配なく。今日中に担当分の仕事は済ませます」 アニエマはハサミをパチンと鳴らし、怒りのこもった声で返した。

ママ・シンシアは手を広げて同意した。「かまわないわよ、アニエマちゃん。楽にすればいいと思っただけ」 そう言うとアニエマの爪を見て、ストールをテーブルにさらに近づけた。咳払いを一つして、こう囁いた。「その爪、一つだとおいくら?」

「売るつもりはありません」

「ハーバ(なんてことを)、お願いだからそんなこと言わないで。10人も女の子を産むなんてあり得ないでしょ。自分で使わない分は、売りたいにきまってる」 ママ・シンシアの声は今やプリンのように柔らかく、どんな形にも押し潰せるくらいヘニョヘニョである。あの意地の悪いボスが、こうも下手に出てくるとは。物欲しさがこんなにも人を変えてしまうのか、アニエマはびっくりしていた。

「売らないって、あたし言いましたけど」

「アニエマ、お願いだから。娘をなんとしても欲しいの。お願いよ」

アニエマがいたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。「わかりました、20万でどうです? 20万で一つあげます」

ママ・シンシアは座っていたスツールをガガガッと音をたてて後ろに引いた。見習いの女の子たちが振り返り、ママ・シンシアがにらみつける。女の子たちは仕事に戻った。

「20万ナイラですって? 法外な値段じゃないの。そんなお金、いったいどこで手に入れられると?」

アニエマはいい気味だと思い、湧き上がる笑いをなんとか堪えた。この女をやっつけて、死にものぐるいで欲しがっているものを断るのはいい気分。アニエマは大きく咳払いをするとこう言った。「20万払わなければ、なしです」

スツールがギギーッと音をたて、ママ・シンシアが立ち上がってスカートのひだを整えた。彼女にはわかっていた、アニエマには何を言ったところで無駄だろう。この子は自分に仕返しをしようとしている。縫い子たちの仕事のペースが落ちていることにママ・シンシアは気づいた。ミシンの針がカタカタと布の上を快調に走ってはいなかった。女の子たちは布地をひっくり返し、足元のペダルを踏んで仕事をしている振りをしていたが、耳も体も傾けて二人の話の切れ端を拾っていた。ママ・シンシアは一番近いミシンに歩みよると、そこにいる縫い子の耳を引っ張った。「この兎耳で何きいてんだよ。母さんから行儀を教わらなかったのかい?」

唐突にあちこちでミシンのペダルが音を立てはじめた。ミシン針が布地を走り、アリの兵隊が並ぶように線を描いていった。ママ・シンシアは縫い子の耳から手を離し、アニエマを睨みつけると、足音をたてて店を出ていった。

店主が出ていくと、また作業のペースが落ちた。縫い子たちはアニエマの方を落ち着かない目つきで見た。あの店主をみんなの前であんな風に扱ったことで、この先この人はどうやっていくのだろうか。以前にママ・シンシアに爪の値つけをしたブリーダーの子は、すぐに解雇された。その女の子の母親が店にやって来て、なぜ娘は解雇されたのかと訊くと、ママ・シンシアは高価な布地を盗もうとして見つかったと答えた。女の子はしてないと言って泣いたが、ママ・シンシアはびっくりしている縫い子たちを平然と見渡し、何も言わなかった。女の子の母親が目に涙をためて、娘と店を出ていったとき、縫い子たちはトカゲのごとくおとなしく頷くばかりだった。

ママ・シンシアは口に楊枝をくわえ、ハイネケンの缶を手に店に戻ってきた。アニエマのミシンに近づくと、バッグに持ち物を詰めているところだった。

アニエマは笑顔でこう言った。「あたしをクビにする必要はないの。やめるんだから」

床のボタンや布の切れ端を音をたてて踏みちらしながら、アニエマがさっそうと店を出て行くと、ママ・シンシアは怒りで顔を赤くさせた。この店主は縫い子をクビにすることに喜びを感じていた。それを告げたとき、彼らの顔が引きつるのを、ひれ伏し、泣いて懇願するのを見て楽しんだ。しかしアニエマは爪を売ることを断っただけでなく、解雇される前に自分からやめたのだ。ママ・シンシアのくちびるが震え、顎にビールが垂れて、シフォンのブラウスを濡らした。

停電になり、天井の扇風機がゆっくり止まった。蒸し暑い午後の熱気が部屋をおおい、体から汗が滲み出る。ママ・シンシアの脇の下のシミも広がっている。ファッション雑誌を手に取ると、ママ・シンシアはバタバタとそれで煽いだ。そして縫い子たちの方を向くと、怒鳴り声をあげた。「外に出て待ってな。あんたたちの体から熱気があがってるんだよ。店主を殺すんじゃない」

V.

ある日の夕方、アニエマが市場から右手の三つの爪をなくして戻ってきた。エメは自分がどれほどの狂気を内に抱えているか、そのときまで知らなかった。エメは買い物袋をキッチンの台の上に放り投げた。コンソメキューブと玉ねぎが袋からこぼれ出る。娘の前に立ちはだかると、エメのワインレッドのブーブーが羽のように両脇でふくらんだ。レンジの上には肉料理の鍋があり、そこから上がる湯気が、二人の緊迫した空気と混じり合った。
*ブーブーとは、西アフリカを中心に着られている伝統的な広袖のローブで、正装の役割も持つようだ。

「その爪はどうしたの?」 エメの声には驚きと苛立ちがあった。「あんたに訊いてるの、どこにやったの?」

「ある人にやった」 アニエマは答えた。母親の激しい怒りに動揺していたとしても、それを見せることはなかった。

「誰にあげたの?」

「市場からの帰りに、バスの車掌に」

「どういうことなの。ちゃんと言わないと、このカボチャを口ん中に押し込むよ」 キッチンの台の上のカボチャを指して、エメは声を荒げた。

「親切なバスの車掌さんに会って、その人ノン・ブリーダーだった。バスが混雑してて乗るとき財布をなくした、そしたらその人がただで乗せてくれた。だからお礼としてあたしの爪を三つあげたんだ」

エメは自分の胸をつかむと、娘に押しつけた。「あんたはあたしの乳を吸ったことがないみたいに、犬の乳でも吸って育ったみたいにふるまうのかい? 車掌にはただありがとうと言えばよかった。ありがとうとただ言えばいいんだよ。自分のやったことがわかってるのかい?」

「その人、もうすぐ閉経だって言ってた。あと2年か3年先にね。バスの車掌という仕事では、一月やっていけない、娘のために爪を買う貯金もできないって。だからあたしは爪を三つその人にあげた。それでいっぺんに三つ子を産めば閉経に間に合う」

エメは手で自分の耳をきつくおおった。嫌なものが耳に入ってこないように、とでもいうように。「あんたは愚かな子だ。賢い女の家系に生まれたのに、愚かであることを選んだ。世界を救おうとでも思ってんだね。あたしが世界を救おうと思ってたら、この家を建てられたと思うかい? だたで自分の爪を人にやってたら。バカな子だよ」

アニエマはじっと母親の目を見つめ、きびすを返して出ていった。母親が拳を振り上げて大声で追いかけてくると思った。

しかしエメはその場に立ちすくんでいた。娘のアニエマがあんな風に自分のもとを立ち去るなんて。そこにいたのは別の、新しい、エメの知らない女だった。新たな出来事というのは予測不可能、拳と罵声でこの女を追っても無駄だ。

VI.

玄関のチャイムが鳴って、アニエマがドアを開けると、3人の小さな女の子を連れた女性が立っていた。その人は花模様のブーブーを着て、手首にはシルバーのブレスレット、炎天下にいるせいで化粧が汗で流れていた。そっくり同じ顔の3人の女の子たちは2歳くらいか、お揃いの服を着ていた。その子たちは母親のブーブーをしっかりつかみ、アニエマを不安そうに見ていた。アニエマは子どもたちに笑いかけ、安心させようとした。

「何か困ったことでも、奥さん」 背後のドアを指でポンポンと叩きながら、アニエマが尋ねた。

女性は笑顔になり、きれいな歯並びを見せて、柔らかな声をたてて笑った。「わたしを覚えてないの? よく顔を見て」

アニエマは目を細めた。頬骨の高いところは友だちのバッシーを思わせたが、彼女は背がもっと低くてがっちりしている。この人は背が高くてほっそりしていた。「ごめんなさい、よく覚えてなくて。どなたでしたっけ?」

「バスの車掌です、3年前にあなたから爪をもらった。この子たちがその娘です。あなたにご挨拶させようと思って連れてきたの」 その人は3人の娘を前に押し出した。「アネフィオク、ウウェム、ウシエール、あなたたちの叔母さんよ、ご挨拶して」

アニエマは後ずさり、思わず口を手でおおった。それから女の子たちを胸にきつく抱きしめた。女の子たちはお母さんによく似ていたが、アニエマは自分がこの子たちの命の源であることに気づき、畏怖の念を感じた。そして家の中に向かって大声で母親を呼んだ。エメにこの子たちを見せたいと思った。

訳:だいこくかずえ
出典:ISELE Magazine

エキミニ・ピウス
この小説のアイディアは、夜、道を歩いているときに浮かんだもの。女性だけで子どもが産める世界があったとしたら、それはどんなものかという。わたしの書くものは社会的な出来事から発想されたものではないが、書いたものが社会に反響するのはとても嬉しい。
子どもの頃は、両親の本棚にある本を何でも読んでいた。チヌア・アチェベ、シプリアン・エクエンシー、ブチ・エメチェタなどの作家から、熱心なエホバの証人の人が置いていくパンフレット、母親のビジネス書まで、何でも読んでいた。わたしの小説に影響を与えた人としては、チカ・ウニグウェ、チママンダ・アディーチェなどがいる。スペキュレイティブ・フィクションのレスリー・アリマにも大きな影響を受けていて、彼女の小説を読んだことで、『娘たちよ、われらの手で』が書けたと思っている。
チヌア・アチェベのエッセイは非常に好きで、中でも「Morning Yet on Creation Day」は素晴らしいと思う。

The RepublicWorld Literature Todayのインタビューから引用。

Title photo by Stars Foundation / Kristian Buus (CC BY-NC-ND 2.0)
Makurdi, Benue state (Nigeria)


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