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[エストニアの小説] 第7話 #9 白い帽子の女(全10回・火金更新)

 「いや、出ていかない」 ニペルナーティがきっぱりと言った。「明日ではない、いずれにしても」
 「ほらね、あたしの言ったとおり、あんたは臆病者なんだ」 マレットは勝ち誇ったように言った。「木切れや棒で打たれたら、あんたはすぐに言うことをきく。ヨストーセの森にあんたを行かせることができれば、幸せはもうすぐそこ」「幸せがすぐ手に入るんだな!」 ニペルナーティが心動かされ声をあげた。「可愛いマレット、よく言った。青い海、緑の森、きみがいて、仕事がある。そして幸せが春のお日様みたいに、小屋の隙間という隙間から中をのぞき込んでいる!」
 ニペルナーティは唐突に立ち上がり、セカセカと部屋の中を歩きまわった。と、その顔を急に曇らせると、太い眉毛が目をおおった。ニペルナーティは手で額をぬぐうとため息をついた。手が震えていた。
 「いったいどうしたの?」 マレットが心配して駆け寄った。
 「なんでもない」 ニペルナーティはそう答えて、笑おうとした。
 「いいえ、放ってはおけない」とマレット。「どうしたのか、あたしに言わなくちゃ」
 「ほら、きみはわたしのことを信じようとしない」 ニペルナーティがため息をついた。「わたしが嘘をついてると、きみはまた言うだろう。いいかい、マレット、きみが幸せについて話しているとき、わたしは心底感動した。だがすぐに思い出したんだ。ここに長くいたら、カテリーナ・イェーが何と言うだろうとね。彼女にはもう手紙を書いた。『すぐにあなたの所に行きます、待っていてください、お元気で』とね。なのにわたしはまだここを発っていない」
 「カテリーナ・イェーですって?」
 マレットはニペルナーティを押しやり、がっかりした様子。悲しげな顔でテーブルにつくと、ため息をついた。
 「ほらやっぱり」 ニペルナーティが言った。「わたしの悲しみの理由を言うんじゃなかった。きみはわたしを信じない。わたしの言葉の何一つ、信じようとしない。わたしが嘘をついてると思ってる。だけど嘘なんかついてない、少なくとも叔母のカタリーナ・イェーについては」

 「あー、なんということ」とニペルナーティ。「太陽が消えて、空から雪が舞いはじめたみたいだ、今のわたしはそれと同じように打ちひしがれている。わたしのどんな言葉も、もう力をもたない。わたしの口にしたことはすべて、か細いクモの糸で縫い合わされているみたいだ。そしてわたしは役立たずだ。最も真実に近いことも、嘘のように響く。可愛いマレット、顔をそむけないで、わたしの言うことを聞いてほしい。ペイプシ湖があって、ムストベーの浜があって、そこに女性が住んでいて、その人がわたしの叔母だというのが、あり得ないというのかな? どんな人も叔母さんの一人や二人はいる、どうしてわたしにはいないと言える? この叔母が長い年月をかけて、ちょっとした財産を築いたことがあり得ないと、どうしてきみには思えるのかな? それほど大きな財産じゃない。いいかい、わたしは正直に言ってるんだ。それほど大きな財産じゃない、いくつかの質素な荷船、漁の網、おんぼろの古い船が一つ、二つ。川にも湖にも大きな船などないんだよ。船は、小さなマッチ箱に比べられるくらいだ。小さな川のさざなみにも、木の実の殻みたいに上下する。10人も人を乗せれば、船長はこう言うだろう。『なんてこった、この事態は、今日はギュウギュウ詰めだ、船は満杯、これ以上は無理だ』」

 「エマヨキ川の船や財宝っていうのはそんなものなんだ。きみは海のことや船のことを知ってるだろう? 大きな船が行き過ぎれば、光が当たって、水面がそこらじゅう緑色になる。だけどペイプシ湖やエマヨキ川の船の灯りは、霧の中のロウソクみたいなもの、辺りを照らしたりしない。暗闇の中で見るホクロみたいに、船は這って進むだけ。そこには輝かしいものなどない。いいかい、これが大した財産なのかな、教えてほしい。わたしの叔母はありがたくも、飢え死ぬようなことはなかった、なんとか人生をやりくりしてきたわけだ。そういう叔母を、わたしがどうして持てなかったって言える? だけどわたしが20人の漁師と3人の船長の話をするときは、ペイプシ湖には漁の時期があって、そのときが来たら、漁のために男たちが呼び集められて、湖を2、3日走りまわる、そういうことなんだ。そのときには、叔母は20人の漁師を手にするけれど、それ以外のときには誰もいないんだ。船長については、あまり真面目にとってはいけない。『船長』という名は大したものに聞こえるけど、船の釜炊きでさえ、ペイプシ湖の船長よりは地位が高い。どういう人かって? 船長はロープで船を岸に引き上げ、自分で切符を売り、客の荷物を運び、船を操縦し、汽笛を鳴らす。船のバーテンダーで、床屋で、釜炊きでもあり、すべてを一人でやる人だ。こういう船の持ち主が、どれくらい偉い人なのかな。さあ、これでカテリーナ・イェーとその財産について、正確な知識をもったんじゃないか。きみがこれを疑う理由はない、そうだろ、マレット。もうわたしを信じてくれるよね?」

 マレットは頭をふって、窓越しに海を見た。

 「まだわたしを信じられないのかな?」 ニペルナーティが苦しげな声をあげた。「どこで、きみのための証人を見つけてきたらいい?」
 ニペルナーティはマレットに向かって叫ばんばかり。
 「きみは何ひとつ、信じるつもりがないんだ。わたしが自分は誰か、どこから来たか、心を割って話し、身分証明書を見せ、洗礼証明を見せたとしても、わたしを信じたくはないんだね。わたしがきみの前でひざまづいて、『許してほしい、可愛いマレット、わたしは船乗りではない、労働者でも地主でもない。わたしにはカテリーナ・イェーなどいないし、友だちのヤーン・ヴァイグバロもいない。そうではなくわたしはこうで、ああで』 そう言ったとしても、きみは信じないんだな?」
 マレットはまた首を振り、目に涙をためた。小さな拳でその目がおおわれ、結ばれたくちびるが震えているのが露わになった。

 「幸せっていうのは、すぐ近くにあるんだよ」 ニペルナーティは自分に言い聞かせるかのように言った。「あー、マレット、わたしたちの不幸は、太陽が隠れて空から雪が降ってくるという事実、そこにしかないんだ。前に言ったと思うけど、冬が来れば、神様はわたしを骨壷に投げ入れる、わたしはそこで朽ちて、次の春が来るまで落ちぶれている。だけど屋根の雪が溶けて、鳥たちが太陽の下で飛びまわれば、無気力の呪いから解放されて、あらゆる歌がわたしのくちびるに突然湧きあがる、そして緑の草原を、音をたてて流れる川の上を飛んでいきたくなる。そうしたらわたしはツィターを手に、道を歩いていく。鳥たちがみんなわたしに応えて鳴きはじめ、花々はわたし一人のために開花する。誰がわたしの言葉を疑ったり、わたしの話に嘘を見つけたりするだろうか。だけど冬が来たら、わたしの誇りは消え去り、思いも弱くなって、ただの年取った男に成り下がる、40代のただの人、ありきたりの暮らししかできない男になる。こういうやつといたら何をする? 冬の寒くてじめじめした日には、この男はあそこが痛い、ここが痛いと文句を言い、怒りっぽくて気難しい。食欲がなくて力を落とし、タバコのせいで咳をしたり、ゼイゼイいって、テーブルにじっと座っている。何一つせず、朝から晩までめそめそと愚痴を言ってる。3日ごとに二日酔いで、まわりの人たちはそっと音をたてないように歩き、冷湿布とお湯を入れた瓶を探す。家じゅうが不安のかたまり、年老いたトーマス・ニペルナーティは病気だ、医者や友人たちが呼ばれ、グロッグ酒やラム酒入りのお茶が用意されるが、ニペルナーティを喜ばすことはない、味覚を楽しませることはない。からだのあらゆる骨が外れ、筋肉のどこもが痛み、来る日も来る日も終わることないメソメソ泣きやブツブツ不平、ウンウンうなる声があるだけ。ちょっとした喜びがあるとしたら、友だちや遊女たちとバーで座っているときだけだ。そのときは無気力から覚めて、頭には輝かしいことが浮かんだりする。だが家に戻れば、あらゆる問題がぶり返す。いいかい、マレット、これがトーマス・ニペルナーティのもう一つの顔だ。こういう男をきみは好きになるだろうか?」
 マレットはすくっと立ちあがると、ニペルナーティを睨みつけた。
 「あんたは、誰なの、いったい」 マレットが厳しい調子で、一言ずつ区切って言った。
 ニペルナーティはびっくりして、急いで帽子を手にすると、外に走り出ていった。
 「あんたは誰なのいったい」 マレットがその背に向かって繰り返した。
 しかしニペルナーティはその言葉を耳にしていなかった。シカが逃げるように、森の中へと去っていった。
 するとマレットはベッドのそばに腰かけて泣きはじめた。

 二人の人間がシルバステの居酒屋の方から、小走りにやって来た。先を行くのはヤーノス・ローグ、何か叫びながらシーモン・バーの小屋を指さしている。もう一人は品のいい女性で、たっぷりした毛皮のコートに白い帽子姿。コートの下からカラフルなドレスがちらちらと見えていた。シルクの靴をはいていたが、雪と泥で汚れていた。中年の女性で、ぽっちゃりとしていた。小走りでやって来たため、ハァハァいっている。ときどき立ち止まり、息を整え、ヤーノス・ローグに走らないでと頼んでいる。女性の青白い顔が赤く染まり、大きな、やや年を感じさせる目がキラキラと輝きはじめた。
 女性はシーモン・バーの小屋に着くと、立ち止まって服を整え、靴についた雪や泥を手袋をはめた手で払った。そしてハンドバッグから素早くおしろいを取り出し、パタパタと顔にはたいた。どこかそわそわした様子で、ヤーノス・ローグの方をいぶかしげに見た。
 「中に入ったらいい、大丈夫だから」 ヤーノスがせきたてた。「俺たち田舎の者は、ノックしたり声を掛けたりしないんだ」
 ヤーノス・ローグは先に立って中に入り、女性は転ばないよう手探りで、暗い室内に足を踏み入れた。しかし小屋の中に入ると、また戸惑って目をこすり、「ここ、暗くて何も見えないんだけど」と言った。
 ストーブのそばでうとうとしていたシーモン・バーが、びっくりして飛び上がり、目の前にいる上品に着飾った女性を見て、声をあげた。「マレット、マレット、すぐに来ておくれ」
 マレットが奥の部屋から飛び出してきて、ドアのところで驚いて立ち止まった。
 「トーマス・ニペルナーティはいるの?」 女性が訊いた。やっと女性の目が暗闇に慣れてきた。尋ねもせずに、小さなベンチに腰をおろし、毛皮のコートの前をあけた。胸のところで小さなペンダントが輝いていた。

 「あなたがカテリーナ・イェーなの?」 マレットが見知らぬ女性を心配げに見て訊いた。「だれ、だれなの、カテリーナ・イェー?」 見知らぬ女が笑った。「いったいそれはだれのこと?」
 女は乾いたうつろな声をしていて、その笑いは病人の咳みたいだった。「あのカテリーナ・イェーじゃないのね、ペイプシ湖のそばに住んでる」 マレットはさらに言った。「トーマス・ニペルナーティと何か関係があるの?」
 「トーマス・ニペルナーティと関係があるかって?」 女はまた笑って、左手の手袋を外した。「ああ、ここは暑いわね、息がつまりそう。で、トーマス・ニペルナーティは家にいないの? ここにいるはずなんだけど」
 マレットがヤーノスの方をいぶかしげに見たが、ヤーノスは口元に笑いを浮かべるばかり、そして女の小さなスーツケースをテーブルに置いた。
 「いないけど」 マレットは不機嫌そうな口ぶりでそっけなく言った。「ニペルナーティは出かけてる、いつ戻ってくるかはわからない」


最終回

'The Queen of Sheba' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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