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デザイナーではない人間から見たデザインについての私見

デザインはdesign、英語からきています。日本語になっていなくて、そのまま音をとって「デザイン」として使っています。ぴったりハマる言葉がなかったからでしょうか。

では日本語でいうところのデザインと、英語のdesignは同じことを指しているのか。なんとなくのイメージでいうと、日本語の「デザイン」は、図案とか図柄、意匠といった見た目の形や色、模様を主に指しているような感じがします。

わたしは日本語で使われる「デザイン」という言葉の意味の範囲が、狭いのでは?と感じることがよくあります。sexという言葉が日本語の「セックス」になった途端、=性行為となって、性別という元の意味が消えてしまうのと似た感じといったらいいのか。そういえば、高橋源一郎さんがある本の中で面白いことを言っていました。

なにか言葉が流行するためには、それが狭い意味で使われる必要があります。(中略)流行する言葉とはスローガンであって、単純でなければならないからです。

高橋源一郎『ニッポンの小説:百年の孤独』

デザインという言葉は流行語ではありませんが(当初はそうだったかもしれませんが)、外国語を日本語化する中で似たようなことが起きたとも考えられます。

ではdesignが見た目のことだけではないとすると、他にどんなことを指し示しているのでしょう。語源であるラテン語(Designare)では、計画を記号(図面)にして表すという意味があるそうです。英語のdesignも、意味の大元に設計とか考案といった内容があると思います。

日本語と近い関係にある中国語ではどうか。簡体字(中国本土やシンガポールで使われている文字)では「设计」、繁体字(台湾や香港で使われている文字)では「設計」です。元は同じ字ですね。なぜ日本でも「設計」としなかったのか、とちょっと残念に思います。

というのは、もしデザイン=設計としていたら、いろいろなもののデザインが、そしてデザインに関する考え方が今とずいぶん違っていたのではないかと思うから。

デザインを単なる見た目の色形で捉えてしまうと、デザインの中の設計という要素にある思考、思想、構造、様式、ねらい…..といったことが薄れてしまうと感じます。見た目を整えること、ある美意識にそって色形を決めること、としてしまうとデザインは狭義の意味しか持てなくなります。

1. 時間軸

デザインに設計という基本的な意味があるとすれば、そこには時間軸が含まれてきます。設計=計画性のようなことです。いま現在の目に見えている色形を平面的に見て判断するのではなく、明日、あさって、来年、10年後というように未来の時間軸も加えて考えるということです。

最近noteで読んで面白かった記事があります。建築設計をやっている方が書いている記事で、東京国立近代美術館に絵を見に、葛西臨海水族園に水生動物を見に行ったときの記録なのですが、「イカシタ」建物に入ったところで天井やブラインドの埃が気になったと書いています。美術館ではオールステンレスのブラインドが、水族館では天井が(構造上の問題で)、「埃まみれ」であると。

この方は建築家だから展示物以前に建物や備品の設計や使われ方が気になるのでしょう。わたし自身も美術館などに展示を見に行くと、エントランスを入ったところでまず、建物が気になったりします。展示を見に足を運ぶ意味の中に、建物への興味が何%か入っているのだと思います。新しい施設だったり、海外の美術館などでは、建物の見た目や構造、周辺の環境への関心はさらに高くなります。

埃が気になった、というlittleshipさんの指摘を、わたしは建築物のメンテナンスについての一つの見解と受け取りました。一流の建築家による非常に素晴らしいデザインも、メンテナンスの点で難しいことがあると、その後の美観や機能にマイナス要素が出てしまいます。

ここで取り上げられた美術館と水族館はどちらも公共施設です。葛西臨海水族園の方は、運営が東京都から東京動物園協会に引き継がれたそうですが。

それで思い出したのが、わたしの住居近くの市立図書館のこと。出来た当時は外壁に赤煉瓦が使われたちょっと見映えのいい、文化ホールと一つになった建物でした(設立年を調べようとしたのですが、図書館のサイトのどこにも書いてなかった。ちょっとビックリ)。館内も広々として、開架式書棚と閲覧用デスクがズラリと並び、窓は大きく一面がガラス張りといった風でした。素敵な図書館がある、と越してきたとき思いました。各書棚の脇にはソファがあり、そこで寛いで本を読む人がたくさんいました(ぐっすりお休みの方もしばしば)。

が、年月がたち、人々によく利用されたせいか、そのソファはどれも座面部分がへこみ、クッションがへたってボコボコになっていました。そしてそれは放置されました。ソファはあるけれど、座ったとたんお尻がドスンと椅子の底に当たってビックリするといった具合です。こういう椅子の状態はなんか惨めで悲しいもの。メンテナンスする予算がとれなかったのでしょうね。最初にこの図書館ができて、素敵なソファが据えられたとき、10年後、20年後のことまでは計算に入っていなかった、とも考えられます。

メンテナンスのことを考えて、当初から経費をつけることを「デザインに入れておく」か、管理が難しいのであれば、クッションと布張りのソファはやめて、木造りのベンチにするなど違う設計ができたのではと思います。公共の図書館は一時的なものではないし、クッションはどんなものも経年によってへたります。これは明らかに「デザインの失敗」であって、図書館をつくった当初は想像できなかった、と言えることではありません。

わたしが日本語でいう「デザイン」という言葉に違和感をもつのは、このような例を目の当たりにしたときです。デザインの基本が、単に色形模様といった見た目のことではなく、そもそもの設計プランにあるということが忘れられているからです。

設計をする人が、公共施設のメンテナンスというものは、ときにおろそかになることを理解していれば、もっと適したデザインを選択できたと思います。木のベンチより布張りのソファの方が、見た目もくつろぎ感も上かもしれませんが、ある条件の中で最良のデザイン(設計)を取らなければならないとすれば、経年を考えて別の素材を選ぶべきでした。

逆に将来、廃棄する場合のことを考えて、自然に帰る素材を選択することも、時間軸を入れたデザインには入ってくると思われます。

2. 空間認識

デザインの守備範囲はとても広いと思います。たとえば街のデザインはどうでしょう。住宅地のある小さな町にもデザインはもちろんあります。身近な例でわたしの住む町のことを上げてみます。

わたしの住む街は丘陵地帯で起伏に富み、(ここ何年かは住宅建設でグッと減りましたが)緑も多いです。古くからある公園や尾根道沿いの道には、大きな樹木がそびえています。木々の枝の広がり、幹の太さや伸び具合は自然の豊かさを教えてくれます。

わたしの家の前(道路を挟んだ向かい側)に駐車場があります。私有地で数台以上の車がとめられる広さがあり、敷地は金網のフェンスで囲まれています。そのフェンスに常時、複数の政党の大きなポスターが何枚か設置されています。スローガンと政治家の大きな顔入りのものです。選挙とは関係なく、1年中そこにあります。

ちょうどその脇にゴミ捨て場があるので、毎朝のようにそのポスターと顔を突き合わせます。この道を通る人も、毎朝この政治家たちの顔を見て通勤通学することになります。「町の美観」という観点からいったら、無用の長物、もっというなら最低の「装飾物」ではないでしょうか。これを見るのが楽しみ、という人は(関係者以外では)おそらくいないでしょう。

町の、通りの美観から言えば、ない方がいいものです。また機能(必要性)の点からも疑問があります。

駐車場は私有地なので、フェンスもその所有者のものであり、その所有者が政治家のポスターを掲示することを許可(あるいは有料で場所貸し)しているのでしょう。道路に面しているのだから、フェンスの外側(道路側)は公共の場と取れないこともないですが。

ここの住人の一人であるわたしにとっては、このポスターは不快なものとして存在しています。また通りや町を(そこに住むことを愛している)自分の居住地とすれば、宣伝物がたくさん道に掲げられているのは気持ちがいいとは言えません。まあ、日本の人は一般に(身内には)寛容だし、目が慣れてしまえば何ということもないんでしょうけれど。(これがハングルや中国語、アラビア語だったら気になって撤去を依頼する人がいるかも、ですが)

もう一つ、この町のデザインで気になったこと。集合住宅地などが二つの並行する道路に挟まれてある場合、住人以外の人はその「中洲」を通り抜けできません。並行する道をつなぐ縦に走る道が一つもない場合、通行人は大まわりしなければならない、ということが起きます。これは町という公共の空間デザインとして失敗ではないかと思います。

健全な町のデザインはと考えれば、防犯・防災以外にも、人の歩行がスムーズにできるのが望ましいです。

3. 人の歩く道

日本の道路はもともと道幅が狭く、その狭い道に対面通行の車道を通したりすると、歩道のスペースがほとんどなくなってしまうことがあります。接触の危険を排除する目的でガードレールを車道との境につけたりしますが、ガードレールの内側にはスペースがなく、歩道といっても人が一人通るのがやっと、ということが起きます。これも町のデザインとしてどうなのだろう、と感じています。ある意味、車優先の道路計画というか計画でさえなく、仕方なくこうなった、人の歩行についてはゴメナンサイということでしょうね。

道路ということでいうと、歩道橋(横断歩道橋)というのも気になります。計画設計なのかもしれませんが、車優先思考に見えます。「歩行者の交通安全に大きく貢献してきた」という見方もありますが、足の不自由な人や年配の人、ベビーカーの人にとっては、「あ、また階段だ」となってしまいます。バリアフリーの時代には向かないデザインですね。(実際、老朽化もあって、現在、取り壊しが進んでいるそう)

歩道橋は1960年代から70年代にかけて建設されたものが多いそうで、それはマイカーブームの始まりと時代的に一致しています。狭い道に対面通行の車道を無理やり通すのと似た発想です。「自家用車をもつこと」が日本でブームとなった時代、人の歩行より車をスムーズに走らせることが優先されたことが見てとれます。

歩道橋や道路の区分けは町のデザインの一つだと思いますが、高度成長期と言われた時代の(車の)勢いに押されたデザインの例と言えそうです。日本は豊かな時代の入り口に立ってはいたものの、まだ余裕がなく、思想的に貧しく、また、既存のものとの適合がうまく行われなかったことがわかります。

街並みがきれい、と言ってヨーロッパを旅する人は多いですが、ヨーロッパの国々では、一般的に横断歩道橋は「市街地の街並みに調和しない」と考えられているそうで、設置例は少ないとか。街並みに調和しない、そういう基準のようなものが日本にもあれば、政党のポスターが張りっぱなしということもなくなると思います。

4. ナビゲーションというデザイン

空間、時間以外に、新しくデザインに加わった要素として、ナビゲーションがあると思います。インターネットをはじめとするインタラクティブなアクティビティには、ナビゲーションが付きものです。ウェブサイトのナビゲーション、スポーツや映画の配信アプリ、音楽のストリーミング・サービス。あらゆるものにナビゲーションは付いてまわります。

ナビゲーションに意識が向くのは、そこに不満が起きた場合かもしれません。うまくいっているナビゲーションは、そのことを意識させないものですから。

デジタルコンテンツに対して苦手意識がある、あるいは一般化して20年以上たってもインターネットにどこか馴染めていない日本の企業は、ナビゲーションがとても下手だと思います。多くの企業、特に古くからの既得権をもっている、昔型のシステムの会社がそうです。デジタルやインターネットで業務を進めることにある種の恐怖感があり、またリスク管理の名のもとに、ものごとの処理をデジタルやネットではしたくなさそうなルールを敷いています。

新しい企業であっても、スポーツの配信用アプリなど見るかぎり、なんと使いにくいことか!と腹をたてることは1度や2度で済みません。これは大型のモニター画面で見る場合のことですが、スマホなら最適化されているのでしょうか?

たとえばサッカーの試合は、スマホで見る方が圧倒的多数なのか。まあ、そうだったとしても、残りの何%かはパソコンやモニター画面で見ているでしょう。パソコンで見る場合はまだしも、たとえば複数人でいっしょに見たい場合、大型モニターで見ることになり、そうするといろいろ面倒なことが出てきます。パソコンからミラー機能で投影できれば問題ないけれど、それが提供されていない場合、Apple TVとかFire TVでブラウザーを使って見ることになり、そのブラウザーに不備があったり、配信会社のナビゲーションと適合しなかったりして、多くの不具合が出ることがあります。

WOWOWは元々テレビ局ということから、考え方が番組を放送する、という思考から抜け出ることができていないようで、配信で見ることに慣れている者にとっては、とても使いづらいナビゲーション(デザイン)になっています。どこに行ったら目的のコンテンツが表示されているのか、探しまわることがよくあります。フシギな(非合理的な)ナビゲーションと言ってもいいです。

ヨーロッパのサッカーの試合は、生で見るには時差が大きいので、多くの人はアーカイブ配信を利用していると思います。そのコンテンツの表示の仕方、リストの作り方が???なのです。

理由はよくわかりませんが、Live放映があってから、すぐにはアーカイブができない(配信されない)というのも???なところです。デジタルなんですから、何時間もかからないと思うのですが。

これはWOWOWだけのことではなく、今シーズンからイングランドのプレミアリーグを配信することになったSPOTV NOWも同様です。開幕の試合は、多分24時間後くらいにやっと配信になりました。デジタルが苦手っていったって…….これどうよ、と。

SPOTVのアーカイブを、大画面モニターで見る場合、Fire TVの「インターネット(Silk)」アプリで見るしかない(ChromeやSafariが提供されていないため)のですが、このアプリがSPOTVと適合していないのか、ほぼ2回に1回はログインし直さねばならないとか、途中で見るのをやめると、次に見るとき頭に戻ってしまっているとか、あれこれ不備だらけ。(ちなみにApple TVにも専用アプリや適合するブラウザがありません)

この場合、SPOTVが悪いのか、Fire TVが悪いのか、「インターネット」というアプリのせいなのか、この全部が関係しているのかわかりませんが、おそらくこれはシーズン中に改善されることはないでしょう。有料ユーザーが負荷をかぶる、ということです。(これについて問い合わせをしても返事がない)

優秀優良な配信会社であれば、様々なデバイスで見ることを想定して、どこからアクセスしてもユーザーが快適に見れるよう、改良を加えるんじゃないかと思うのですが。

一般ウェブサイトのナビゲーションも、似たようなところがあります。おそらく不正アクセスを防ぐため、という理由だと思いますが、日本のサイトでは、アクセスしていたページをひとたび離れると、元に戻ったとき、情報が全部クリアされてしまっていて、最初からログインし直し、入力した名前や住所も入れ直し、ということがよくあります。あるいはショッピングサイトで、決済しようとしてレジに行くと、その段階で「在庫なし」の表示が出てくるとか。

基本的な IT 技術の低さのせいなのか、過剰なリスク回避なのかわかりませんが、ユーザーの側に負担をかけるデザインになっています。

5.検索エンジン

ナビゲーションのつづきで、デジタル&ネットのデザイン関連。検索エンジンというものが、デザインの範ちゅうなのかどうかわかりませんけれど、設計の質が低いのでは?ということがよくあるので、少し書いてみます。

日本語の検索エンジンは、わたしにとってとても使いにくいです。ふつうに検索しているつもりなのに、結果がヘンという。

いくつか問題があるんですが、よくあるのが、図書館の蔵書検索とか日本のショップで食料品などを買おうと思ったとき。検索窓にたとえば「オランダ名所巡り」という本のタイトルを入れたとします。そういう場合、「オランダ名所めぐり」と入れると「ありません」になってしまうことがあります。あるいは「ごま風味○○」という商品に対して「胡麻風味」とか「ゴマ風味」で入力すると「該当商品なし」という結果が出るとか。

「ごま」でも「ゴマ」でも「胡麻」でも、該当しそうなものが出てくるようにするのが検索の基本かな、と思うのです。完全一致を基本としているのかもしれませんけど、検索する側というのは、えーっとあれ何だっけなと思って調べるわけで、一字一句間違うなというのは無理です。

検索エンジンのデザインの最初のルールづくりがちょっとズレている気がします。

あとApple MusicとかSpotifyなんかで、海外の特定のアルバムを探す場合、日本語で検索すると見つからないことが多いです。関連のアーティストの最新リストなどがズラズラ出てきますが、探しているものズバリが見つけられません。直近の経験でいうと、「冬の旅 リヒテル」で検索をかけました。Apple Musicです。冬の旅はシューベルトの有名な歌曲集でたんくさんのアーティストによるたくさんの版が出ています。が、リヒテルというピアニストが伴奏しているものはおそらく一つに絞られると思います。歌手の名前を入れずにピアノ伴奏者の名を入れたのはそのためです。探しているアルバムを特定がしやすいから。

しかし結果は「なし」で、リヒテルのピアノ独奏アルバムがゾロゾロと出てきました。しかたがないので、欧文で入れてみました。「Winterreise Richter」と。一発で目的のアルバムが出ました。

欧文で引くと簡単に検索できるものが、日本語だと「なし」になってしまうことはよくあります。「冬の旅」は超ポピュラーといっていい楽曲です。他に森進一の同名曲もあるようですが。「リヒテル」(こちらも超有名)と入れているのだから、そしておそらく該当する商品は一つしかないのだから出してくれてもいいでしょう、という気持ちです。

ちなみに探し当てたアルバムには、欧文と併記してカタカナで「ペーター・シュライアー、スヴィアトスラフ・リヒテル」も表示されていました。日本語でも、データに入っているということじゃないでしょうか。

検索エンジンのシステムのデザインが、まだまだなのだと思います。早く高度なものになって、使いやすくなってほしいです。

検索エンジンではないですが、最近ちょっと面白い自動応答メッセージを経験したので紹介します。コミュニケーション・デザインの一種かなと。OSなどのインストールをしているときに出てくるメッセージと同じようなものです。アメリカのamazonのPODの入稿システムで、データの品質チェックをかけているときに、「ただいま検証中…….」という進捗状況のメッセージが数秒ごとに出ます。「いまフォントのチェック中」とか「ページネーションを検証しています」とか細かく出てきます。これって実際のデータ検証と連動したオートメッセージだと思います。

で、面白かったのは、何かの理由でさらに時間がかかりそう、というときに「Maybe time to grab some coffee…..」(コーヒーでもいかが?)と出て、「….. Or Make a Sandwich…..」(それともサンドイッチでも作りますか)、これには笑いました。待ち時間というのはイライラしたりするものですが、こういうのを出されると、まあ、待つよ、となります。
*KDP Japanの方は翻訳が「ちょっと手を休めて….」「コーヒーでも飲んで….」のような感じでやや真面目。

デジタル技術の応用であると同時に、入稿システムにおける、ユーザーとのコミュニケーション・デザインかな、と。技術的には別に難しいものではないと想像します。

6.ユニフォーム

先ほどサッカーの配信の話を書きましたけど、クラブチームのユニフォームのデザインというのも、デザインという観点から見て、疑問に思うことは多いです。ユニフォームには胸スポンサーと呼ばれる広告があります。これってそもそもどういう位置付けのものなのだろうか、と。

わたしの見るところ、Jリーグの胸スポンサーというのは、「看板」なのだなと。あるいは場所貸しか(不動産ではなく、動くから動産か?)。ここではデザインと言ったとき、見た目の美しさやユニフォームとしての適性というものは、かなり無視されているように見えます。ユニフォームを着る選手は、胸も鎖骨も腿もお尻も看板だらけ、てんでバラバラの色形のロゴマークをいくつも付けた走る看板です。

もちろんJFAのデザインの規定内だとは思います。胸前面の広告は20c㎡以下といった。パッと見た目でいうと、広告面積は異常に大きく見え、またユニフォーム全体のバランスから見ても、これが手本(基準)なのか?と疑問が湧きます。

この胸スポンサーはクラブチームにとって、貴重な収入源なのでなんであれ広告が取れればよい、ということかもしれません。ただユニフォームのデザインの意味、ユニフォームはどうあるべきか、クラブチームにとって、サポーターにとって、そしてスポンサーにとってもどういうものなのかを考えると、看板以外の意味はありません、とでもいうようなあり方は、デザインに対してあまりに消極的すぎる気がします。

Jリーグの場合、広告可能な場所として、胸中央、鎖骨、背中上、背中下、袖、パンツが使用できるようです。これに加えて胸の左右に、チームロゴとユニフォームの制作会社(ナイキなどのブランド)ロゴがつきます。ちょっと考えてもロゴだらけです。

Jリーグのスポンサーロゴの入れ方は、スポンサー主導のように見えてしまうところがあります。たとえばブルーの生地のユニフォームに、白抜き文字で複数のロゴが入っているのなら、数が多くても、まだデザイン的になんとか収まりがつきそうです。しかし「うちのロゴはこれ」といって好き好きな色で入れ、ときにユニフォームの生地色とは違う色ベタを敷いた上で、そこに色付きロゴを乗せるなどすると、もう収まりようがありません。

この色ベタ(多くは白ベタ)を敷いてロゴを乗せる方法は、Jの多くのチームが背中のスポンサーでやっています。「やまや」「SMBC日興証券」「産業能率大学」「DMMほけん」などなどの大きな文字が色ベタの上に乗っています。

色ベタを使わず、ユニフォームの地色に白抜きロゴで揃えて入れているのは、コンサドーレ札幌、浦和レッズ(ただしパンツは色ベタロゴ)、FC東京、ヴィッセル神戸などで、これだけでもかなり全体の統一感が出て、見映えがよくなります。プレミアリーグなど欧州のユニフォームは、だいたいこの方式です。クラブごとのユニフォームのデザインに関する評価というものがあって、点数づけされているのを見たこともあります(英国)。生地の色やパターン、使用色のカラーリング、生地の模様(ストライプなど)などの他に、スポンサーロゴの収まり具合についても検定されていました。

一般に欧州のサッカーのユニフォームは、胸スポンサーが目立つという例は少ないです。看板が走ってるように見えることはありません。おそらくチームにとってユニフォームとは何か、という思想と関係があるのでしょう。ユニフォームはチームや選手、そのクラブの歴史でもあり、またサポーターが好んで着たくなるものとしてあるようです。チームカラーという言い方がありますが、そのチームのあり方や特徴以外に、ユニフォームも入ってくるのではないかと思います。RedsとかBluesとチームを呼ぶことがあり、それはホームユニフォームの色からきているようです。

今から100年くらいたって、Jリーグのクラブチームのユニフォームの歴史、というビジュアル本が出たとして、現在の「歩く看板」ユニフォームは、どんな見え方になるのか、見る人にどう受けとめられるのか。サッカー文化というのは、ユニフォームにも端的に現れてくるものだと感じます。

デザインについて、日常的に考えてきたことをまとめてみました。私見な考察なので素材はごく狭い範囲の、自分の見聞きしたことに限られています。偏見に近いこと、間違った見方が含まれているかもしれませんが、その際は教えていただければありがたいです。

Title photo by Felipe Tofani(CC BY-SA 2.0): ギリシアのデザイン雑誌

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