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[エストニアの小説] 第4話 #6 クープ(全15回・火金更新)

前回 #5 ダイナマイト
 「ほんとに眠っちゃったのかい?」 ニペルナーティは戸惑う。
 ドアをノックし、ツィターを弾き、またドアをノックした。
 「冬眠中のクマみたいだな」と声をあげる。
 するとそのとき、居酒屋の裏戸がギーッと音をたて、クープが現れた。いかにも眠そうで、手で太陽の光をよけていた。着ているシャツとズボンが、白く反射していた。

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 「いったいどこのどいつが一晩中騒いでいるんだ」 クープは手をかざし、指の隙間からお日様をすかし見て、声をあげた。「どこぞの見本市か結婚式の客か? そうであれば居酒屋のドアをノックするだろうよ、看板があるからな」
 クープは左手にパイプを挟んで、長いこと咳き込んでいた。咳き込みながらからだを屈めた。
 「アン・マリはこの納屋にいないのかい?」とニペルナーティ。
 「アン・マリがこの納屋に、いないのか?」 クープがその言葉をなぞった。「いや、いない。空のビール瓶があるだけだ」
 ニペルナーティは憤慨してツィターを脇にやった。
 「じゃあ、あの子はどこにいる?」 いらついて訊く。
 「あの子はどこにいる?」 クープはまたことばじりを取った。「あの子は向こうで寝てる、居酒屋の中だ、馬のそばで」 つまり納屋にアン・マリはいないのか。カプールタラーのマハラジャの美しい物語は、エネレレの、マーラ湿地の水切りの話は、すべて誰もいない空気に向かって放たれていたのか? 空っぽの納屋に向かって話されのか、腐りかけた扉に向かって、すべての言葉は放たれたのか?
 
 またしても、またしても、美しいものが人の耳もとを抜けていった、そして時間は無為に過ぎた。
 アン・マリは聞いてなかった、愛の言葉だけでなく、白い桶みたいなおっぱいをぶらさげた乳牛の話も? 沼の水をバシャバシャと泡だてて、滝のところまで運んでいく約束をしたことも聞いてなかった? アン・マリは、これが一番大切だけど、わたしの素晴らしい演奏を、一生に一度しか起きないような演奏を聞かなかった? 確かにわたしは毎日演奏はするけれど、こんな風に魂を捉えるような演奏は人生で一度しか起きないんだ。アン・マリは屍のように眠りこけていて、何も聞いてなかったというわけか。早瀬のようにシューシューと鼻を鳴らし、息を吸ったり吐いたりして、馬のそばで眠ってたってわけか!

 「ビールとパンを一切れくれ」 ニペルナーティがクープに言った。
 「パンを一切れ?」 クープはいつもの習慣で終わりの言葉を繰り返した。「ビール1本とパン二切れかい、それともビール2本にパン一切れかい? どっちなんだい?」
 「ビールを少し、パンを少しだ!」 ニペルナーティがイライラして答えた。
 「ビールかい? わかった、ビール二つにパン二切れだな」
 クープはよろよろと重い足音を響かせて、ひと気のない居酒屋の中に入っていった。そこでクープは咳をして、アン・マリを呼んだ。何か見つけられないようだった。しばらくしてビールとパンをもって戻り、納屋の入り口に置くと、グラスにビールを注いだ。
 「あんたは遠くから来たんかい?」 そう尋ねた。「それ、あんたは楽器をもってるんだな。さっきみたいに、それを弾くわけだ。それとも他の理由があって、それを持ってるんかい? 大きな角笛をもって現れたやつがいた。だけどその中には蒸留酒が入ってた。そいつは俺にそれをくれた。安い値段でな、うまい酒だったよ。そのツィターの中に蒸留酒を入れるわけにはいかんだろ?」
 クープはツィターを叩いたり揺すったりした。
 「それとも日用品かなにかを売りにきたのか?」 狡猾そうな顔でさらに訊いてきた。
 「わたしは沼さらいなんだ」 ニペルナーティは自慢げに言った。「動物の去勢をする人みたいに、国中をまわってる。湿地を見つければ、手を掛ける」
 「手を掛けるってか?」 クープが疑わしそうに訊いた。「で、あんたがそれをやる男だと。ツィターを手に、そんなことをやろうってか。だがあのマーラ湿地ではできない。水は深いし、たくさんの泉が草むらの下でゴロゴロいってる。悪魔だってこいつを何とかすることはできん」
 「悪魔でさえできない?」 ニペルナーティが言った。「自分がしてることはわかってる。ここには泉などない。堆肥と泥が森から流れてくるだけだ。滝のそばの石灰石の壁が、水の流れをせき止めているんだ」
 「水の流れをせき止めてる?」 クープがまた言葉尻をとった。
 クープはツィターを鼻のところへもってきて臭いをかいだ。いや、これは蒸留酒を隠すためのものじゃない。ただの役に立たない楽器だ。子ども騙しの楽器だ。ひどいことだ、ほんとに、あんな安ものの蒸留酒を角笛の中に入れて、みんながそれを飲んで、うまいうまいと言って、たいした金を払った。ここにいるロクデナシも、それをやろうってんだろ、そうじゃなきゃ、なんであんなものを持ってまわってる?

 沼さらいだって? ああ、たしかに。クープはたいした夢想家の連中を見たことがあった。車に乗ってやってきて、沼地を計量したり探索したりして、草むらに鼻を突っ込み、苔だの葦だのをノートに貼り付けていった。だが頭を振って、また車で出ていった。背後にたなびく臭い煙を残していっただけだ。あのアホどもはマーラから何も得やしない、ここの沼地と沼地のあれやこれやは、永遠に残る。ヤイロスがここに戻ってきたら、みんな仕事を手にして、金も戻ってくる。

 なのに、このケチなツィター弾きごときが、マーラの水を抜き取るだと! みすぼらしい輩が貧しい農夫みたいにほっつき歩いてる。履いてる靴さえ破れてみすぼらしく、ブカブカだ。こいつに金が払えるか、誰にわかる。やつの間抜けな頭に免じて、食べ物をたっぷり持ってきてやろうか。ビール1杯、パン一切れで充分だろう。それともパン一切れに、ビールの前金か。もしパン一切れさえ支払えないなら、クープはこいつを「乞食ノート」に書きつけることもできた。クープはそういう乞食ノートを持っている。そこにクープは返すあてのない貸借人と乞食への寄付を書きつけている。そして年に1回、良きキリスト教信者として、聖霊降臨祭のとき教会へ行って、乞食ノートを手にして、祭壇の前でそれを足もとに置き、告解と聖餐式のあと、司祭に見せるのだ。すると司祭はこの年次の報告に線を引いて、線の下に最初から終わりまですべて読んだと記す。そして寛大な寄附者であり慈善家、カーバのパブのクープ氏をほめたたえる。

 そうはいっても、クープはそれほど多くを書き込んでいるわけではない。リストの先頭にいるのは、返してくれる当てのない借り主だ。プレッツェルを食べて勘定をしない、ビールを飲んで金を払わずこっそり逃げた、壁にグラスを投げつけた挙げ句ふてくされた、そういう者たち。こういったコジキ野郎はすべて、名前とともにノートに記された。住んでいる場所など身辺情報まで細かく書き込まれた。なんてヤツらだ! クープは文句を言う。吸血鬼だ。この唯一の使い道といえば、牧師からのほめ言葉をもらうことくらい、そして犯した罪の許しを請うとき、聖なる神がこのこと考慮してくれることだ。

 しかしこの年次の報告書に、牧師の検印はない。署名はあるが、牧師は検印を押さなかった。クープは牧師に検印を押すよう頼んだ。その方がずっとよく見えるし、それを見ることで満足できる。この乞食ノートに教会の立派な検印が押されていれば。しかしあの牧師は、年老いたしみったれで、そうしようとしない。署名で充分だろう、と言って。変なやつだ。聖書にそう書いてあるのに、自らの仲間を喜ばせようとしない。ツィター弾きは飲み、楽しみ、パンをむしゃくしゃと食ってる。いや、こういう悪ガキは払う金などもってない。またしても聖なる神は、天罰としてゴロツキを送り込んできた。グーグーいう腹を仲間の汗と労働で満たして楽しんでるやつだ。何が最悪かといえば、どいつが金を持っていてどいつが金がないか、あらかじめわからないことだ。有能な店主は金を持っている客は、顔を見ればわかる、という者もいる。そいつらは賢くて、たいした悪魔だ。ひとめ見て、本を読むように金のあるなしを読めると言われる。クープにはできない、そんなことは。やってはみたが、成功しなかった。そんなたいした才能はめったにない、神様の贈り物だ。

 「で、あんたは沼地をさらうって?」 クープがまた訊いた。「政府からの要請なのかい?」
 「金だ」とニペルナーティ。「釣り銭をくれ」
 クープは金を手にした、ってことだ。どういうことかとクープは考える。ああ、なんてこと、クープの疑いは根拠のないものだった。そうだ、店主に才能がないとこういうことになる。ちゃんとした店主なら、すぐに気づいていたはず、相手にしているのがどんなやつか、バスケット一杯のものを納屋の入り口に持っていった、もっと酒を飲ませ、自分にもおごらせた。いくら金が入ってきたことか。しかし、ビール2本で迷い、酔っぱらわせることもなかった。惨めなことだ。哀れな人間の涙は苦い。

 おそらくこの男は、政府が送りつけてきた本物の沼さらいなのだ。どこかの農協の管理者か、指導者か、そういった者かもしれない。最近はそういう者がいるのかもしれない。顔つきや着てる服は問題じゃないんだろう。身なりの良さげなやつがやって来て、あれこれ自慢して飲んだり食ったりするが、すぐにお巡りが追ってやって来る。ただの盗っ人だ。あるときはつましいやつが来る、痩せていておとなしそうなヤツだ。それがたいしたお偉方だとわかることがある。ここをうろつくものが、誰かなんてわからない。
 アン・マリをここに呼ぼうか、この男とおしゃべりをするだろう、もっと酒を飲ませられる。ビールにワイン、蒸留酒の小瓶もだ。アン・マリは沼地のことも話すだろう。さらう場所なんかないと。底なしの湿地、草むらの下で泉が二つ三つ、ブクブクいっているだけだ。こいつが馬鹿なことをしたら、滝の下にある干し草畑はみんな水浸しになってしまう。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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