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クロエ・ジャオ監督、先住民ラコタのカウボーイを描いた『The Rider』を見てみた

もちろん、今年のアカデミー賞受賞作品『ノマドランド』の映画監督、脚本家としてより知られている人ですが、ここではこの作品をつくるきっかけとなった前作『ザ・ライダー』について書きます。
Title photo by Gage Skidmore(CC BY-SA 3.0)

そもそも『ザ・ライダー』を見てみたい、と思ったきっかけは『ノマドランド』にありました。写真家の藤原新也さんのポッドキャストを聞いていて、『ノマドランド』が面白いつくりの映画で、とてもうまく制作されていると知りました。原作はジェシカ・ブルーダーという人のノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』で、それをドラマ化した映画とのこと。

藤原氏は長期にわたってアメリカ各地をまわり、過去に『アメリカ』という本を出しています。そのときモーターホーム(トレーラーハウス)で旅をしたそうで、いわばアメリカン・ノマドの経験者というか、その現場を体験してきた人。そういう人が、映画が非常によく現実を映していて秀逸というのですから、きっとその通りなのでしょう。

この映画、元はノンフィクションの本で、それがドラマ化されたわけですが、出演者のほとんどが俳優ではなく、本物のノマド(経済的な理由からトレーラーハウスに住み、働き口を探してアメリカ各地を転々とする高齢者)の人々、つまり演者としては素人です。ただ映画で描かれている人々、対象者本人たちということではあります。その中で主演を演じている「当事者ではない人」(俳優)が、フランシス・マクドーマンドで、彼女がそもそも映画化の発案者であり、映画権を購入したプロデューサーなのです。

藤原氏によると、俳優であるマクドーマンドは映画の中で、ほとんど本物のノマドになっていて、他の(本物の)ノマドの人々と区別がつかないほどだった、というのです。『ファーゴ』などで見せた、彼女の強烈な個性を考えれば、さもありなんという感じです。

そしてそのマクドーマンドに監督として起用されたのが、北京出身、1982年生まれのクロエ・ジャオでした。マクドーマンドは『ザ・ライダー』を見て、ぜひともクロエ・ジャオに監督を頼みたいと思ったそうです。

なぜマクドーマンドが、ジャオ監督を選んだのか、とても興味をひかれました。『ノマドランド』はいわば、現代アメリカのど真ん中のテーマ性をもった作品、それをなぜ中国生まれの監督に頼んだのか、その理由が知りたいと思いました。

映画を見る前に、少しジャオ監督のことを調べてみました。北京で生まれ、15歳までそこで育ち、その後父親の希望でロンドンの寄宿舎付き高校へ送られ、そのあと自分でアメリカに渡っています。アメリカでは政治学の勉強を大学でし、さらにニューヨーク大学では映画を専攻しました。ロンドンに行くまでは、特に英語ができたわけでもなさそうで、後天的に、学習によって言語を習得したようです。それでも2015年、33歳のときには、中国人ながら監督作品第1作目をアメリカでリリースしているのですから、たいしたものだと思います。

ここでちょっと思ったのは(少し脇道にそれますが)、15歳というのは外国語や外国の文化に(それほど無理なく、永続的に)適応するギリギリの年齢かな、ということ。友人のアメリカの詩人は、英語ネイティブだとばかり思っていたら、14歳のときにポーランドから両親とアメリカに来た、と言っていました。わたしが英語の「ネイティブ・チェック」を頼んだりすると、「いや、ぼくはネイティブじゃないよ」とからかわれたりしました。しかし、コンピューター・サイエンスが専門で、詩を書き、友人たちと詩の出版にも携わっていたこの人は、英文書法の細かいルールをしっかりわたしに教えてくれた人で、その精密さは、もしかしたら非ネイティブだからこそだったのかもしれません。

チャンネ・リー(韓国系アメリカ人作家)など、子どもの頃にアメリカにわたった人は、たいてい本人の第一言語は英語になります。作品も英語で書きます。リーの場合、両親の影響で韓国語もそれなりに話せるとは思いますが。しかしその両親は、韓国で大学を出て、英語の勉強をしてきていても、アメリカでの生活にはとても苦労したようです。英語で苦労するのです。それは30代以降に外国語の世界に入ってきたから。サッカー選手などでも、15、6歳で海外にわたった人は、言語面でも文化面でもその土地のものと、かなり一体化できているように見えます。

話がだいぶそれてしまいましたが、ジャオ監督が15歳でイギリスにわたったことは、その後の監督人生やキャリアにとって非常に大きかったのかな、と思いました。もちろん20歳では遅い、ということではありません。中国出身の作家ハ・ジンは、33歳でアメリカにわたり、翌年には英語の詩集を出版、数年後には短編小説でヘミングウェイ文学賞をとっています。

さて『ザ・ライダー』の話に移りましょう。『ノマドランド』のプロデューサーであるマクドーマンドが、なぜクロエ・ジャオを監督に指名したのか。『ザ・ライダー』を見てみると、この映画も俳優をほとんど使わず、物語の登場人物をそのモデルとなった本人が演じています。主人公はサウスラコタのリザベーションに住む、20歳のロディオカウボーイのブレイディ。ロディオの他、生活のため、馬の調教師としても働いています。これはブレイディを演じているブレイディ・ジャンドローのプロフィールでもあります。ブレイディの父親役、妹役も、本人が演じています。しかしこれはドキュメンタリーではなくドラマ、ジャオによる脚本があります。

『ザ・ライダー』はドラマとして制作されながら、演じているのはモデルとなっている(俳優ではない)本人、それが非常にうまく作用して、映画に強烈なリアリティを与えています。たとえば映画の中でブレイディが、荒馬を調教する場面があります。いやがって暴れる馬に、ゆっくりゆっくり近づいて、声をかけながら馬と話をしながら信頼関係を築いていきます。そしてついにその背にブレイディは乗ります。見知らぬ2種類の生きものが、押したり引いたりの中で、なんとか心をかよわせるところまで行き着くシーンは、感動的です。このシーンは演技ではなく(相手は馬ですし)、本当の調教シーンを捉えたものだと聞きました。

クロエ・ジャオ監督は、ロデオや馬の調教で動物をコントロールする高い能力をもつブレイディ・ジャンドローなら、俳優として聴衆をコントロールすることは難しくない、と考えていたようです。

マクドーマンドは『ザ・ライダー』を見て、自分が映画権を買ってこれから作ろうとしている映画に、ジャオ監督の方法論を使いたいと思ったのでしょう。ノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を映画として、最も効果的に表現する方法として、『ザ・ライダー』の方法がよいと。ドキュメンタリーとして撮るのではなく、ドラマとして表現する、しかし登場するのは本物のノマドの人々で、その人々が自分自身を演じる。これを的確に最高のレベルで表現できるのは、クロエ・ジャオしかいない、そう思ったのでしょう。

マクドーマンドは俳優である自分が主演を演じることで、この映画にドキュメンタリーではない、という境界線を引きました。

ドキュメンタリーとドラマ、ノンフィクションとフィクション。以前はこの二つの領域の間には、はっきりとした区別があったはずです。似たような例として、河瀨直美の『萌の朱雀』は、ドラマではあるけれど、出演者の多くが舞台となっている奈良の人々で、俳優ではなかった。しかし俳優ではないけれど、本人を演じているというわけではなく、ドラマの中の役を演じていました。そこがジャオ監督のやり方と大きく違います。

『ザ・ライダー』は、脚本ありきのドラマ制作ではなく、主人公を演じていたブレイディ・ジャンドローとクロエ・ジャオが出会ったことから生まれた作品だそうです。この映画を見て最初に思ったのは、アメリカ・インディアン(ラコタ)、リザベーション、ロディオ、カウボーイ、アメリカ西部といった映画の主要な要素が、なぜ中国出身の女性監督と結びついたのか、あるいはなぜこの「アメリカン」で「男の世界」に見えるものが、ジャオのテーマとなったのか、ということ、そこのところに興味をもちました。中国出身の監督が最初にアメリカで撮る映画は、中国系アメリカ人の移民だったりすることが多いし、小説の世界でも同様のことが起きます。古くはエイミ・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』からハ・ジンの『自由生活』までたくさんの前例があります。

台湾出身のアン・リー監督が、『ブロークバック・マウンテン』でアメリカ西部を舞台に、カウボーイの男二人の恋愛を描いた映画を撮りましたが、そのときも意外性を感じました。それ以前のリー監督の作品でわたしが知っていたのは『ウェディング・バンケット』など、台湾や台湾人が主要な要素になっていからです。ただリー監督はアメコミ原作の『ハルク』や南北戦争を描いた『楽園をください』、ジェーン・オースティン原作の『いつか晴れた日に』など、台湾とは無関係の作品も『ブロークバック・マウンテン』以前にすでに撮っていました。なのでジャオ監督との共通点ということで言うと、特に比べるものはないかもしれません。あるとすれば、二人ともカウボーイの映画でアカデミー監督賞をとっていることくらいでしょうか。

クロエ・ジャオという人に関心があったので、今年のアカデミー賞の授賞式をWOWWOWで見てみました。そこで感じたのは、このアメリカの中のアメリカのようなイベントも、少しずつ変わってきたのかな、ということ。今年の授賞式はコロナ禍のため、例年の会場ではなく、小さな会場で(舞台と客席ではなく)作品ごとにテーブルを配置したパーティ形式で行なわれました。また参加者(候補者、受賞者、プレゼンテーター)たちの顔ぶれとして、アフリカ系やアジア系の人が目立ちました。アカデミー賞は、ヨーロッパ系白人だけの世界ではない、というアピールでしょうか。こういったことと、ジャオ監督の『ノマドランド』の受賞は無関係ではないかもしれない、と思います。そしてその内容やテーマが、「アメリカ」であれば尚のこと。

しかしジャオ監督が『ザ・ライダー』から『ノマドランド』へ向かった、あるいは導かれた理由は、そういった事情とは無関係のように見えます。マクドーマンドという俳優とクロエ・ジャオという監督が、ノマドの人々という題材と映画制作の方法論において、強く結びついた結果だと想像します。

ジャオ監督の最初の作品『Songs My Brothers Taught Me』は、サウスラコタのリザベーションに住む兄と妹の話です。この映画も俳優ではなく本人が本人を演じている、という点でジャオ方式がすでに実行されていました。ジャオ監督はこのリザベーションを長らく取材しており、そのときに『ザ・ライダー』の主演を務めるブレイディやその家族と出会っていたのです。そしてまだ十代半ばだったブレイディに大きな魅力と可能性を感じ、またロディオの世界にも惹かれ、その時点で彼を主人公にした映画を撮ることを考えていたようです。

ジャオによると、自分がよそ者(部外者)だと感じることもなく、先住民ラコタのカウボーイの牧場に出入りし、そこで4年間くらい地域の暮らし、自然や人々と深い関係をもてたことにより、映画制作への道が開けたとのこと。なるほど、『ザ・ライダー』を見れば、ジャオ監督とラコタとの関係の深さが納得できます。ラコタの人と自然と地域の暮らしを、極限までリアルに真実味をもって映像化できた理由がよくわかります。

ジャオ監督によると、現代のアメリカのカウボーイの世界から学んだこと、そのいちばん大きな点は、彼らの世界と、その外にある自分たちが暮らす世界との間には何も違いはない、ということだったそうです。近代化と昔ながらの生活の間に挟まれて、たくさんの、どうにも説明し難いもがきや苦しみや摩擦があるという意味で同じだと。中でもラコタの若い世代の人たちが、自分たちが世界のどこに属しているのかに戸惑いを感じ悩んでいる、そのことに気づいたそうです。

あ、と思ったのは、このような気づきは、たとえばボストンに生まれ、祖父母の代から生活が近代化されていた家に育ち、まわりのコミュニティも同様の層や階級だった人間には、生まれにくいことなのかもしれないということ。中国に生まれて育ち、その後イギリスやアメリカにやって来た人間だから、その境界や狭間、そこで起きるきしみや摩擦に敏感に反応できたのかもしれないと。

ジャオ監督は『ザ・ライダー』で、古き良きアメリカの西部の暮らしを描こうとしたのではなく、その世界と現代社会との間にあるひずみを、一人の若いカウボーイの生活を追うことであぶり出そうとしたのだと思います。おそらくこのテーマは、トレンドを追う最新のニュースや情報やSNSからは見えなくとも、個々の人間の背後、背景を深く追っていけば、避けようのない大きなひずみとして、どこにでも存在しているものなのかもしれない、と感じます。

ブレイディ本人がブレイディを演じる。それはブレイディという人間が、映画が描こうとしている現実の中を生き、摩擦やひずみを抱えている存在だからなのでしょう。俳優ではない人間を作品で使うことについて、ジャオ監督は次のように語っています。「わたしにとって職業的俳優と、演技をしたことのない人間の間にある境界は、ごくわずかなもの。境界線があったにしても、自分にとって、それは決定的なものではない」 脚本以前に、主役となる人間が決まっていた、その人間の存在からストーリーを編む、という作り方と合わせて考えると、納得のいく説明として受け取れます。

ここまでで『ザ・ライダー』という映画とジャオ監督の取り組みが、(自分としては)だいぶ理解できてきたように思います。最後に疑問として残るのは、そもそもどのような経緯で、ニューヨーク大学で映画の勉強をしていたクロエ・ジャオが、サウスラコタのリザベーションとつながりをもったのか。この答えは、2015年にジャオ監督が第1作目の作品を作ったときのインタビュー(ScreenDaily誌)にありました。

「パインリッジの若い人たちは、わたしが子どもだった頃の中国(西洋社会に中国が顔を向けはじめた1990年代)を思い起こさせました。彼らはリザベーションのど真ん中で暮らしていると同時に、フェイスブックなど世界中の若者たちが触れている世界ともつながっていました。そのためにアイデンティティの問題に直面して悩んでいました。それは国や家族の言うことが信じられなかったティーンエイジャーのわたしが直面していたことと似ていたんです」

パインリッジというのは、舞台となっているラコタの住むリザベーションです。最初の映画『Songs My Brothers Taught Me』では、そこに住むティーンエイジャーの少年が、父が死んだあと外の世界に出ていこうとして、妹の面倒を見なければならないというジレンマに陥ります。ジャオ監督は、この映画を撮るために、通算17ヶ月を現地で過ごしたとか。1軒ずつ家を訪ねて話を聞き、脚本を書いていったそうです。中国人のジャオは、容姿がインディアンの人々と似ていることもあって、(なぜ中国人がインディアンの映画を?と不思議がられながらも)歓迎され、取材はうまくいったようです。なぜ中国人がアメリカ・インディアンの映画を撮るのか、と聞かれつづけたけれど、それが制作上の問題になることはなかった、こうジャオ監督は言っています。

一見結びつきが見えないアメリカ西部のロデオの世界と中国人映画製作者が、どのように交差しどのように互いの中に自分の姿を映しあったのかを知ることは、もっともっと広くて普遍的な人間の世界への理解となりました。古くて大きなテーマだと思います。

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