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XIV. ラヴェル参戦

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著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・バスク海岸にて
・『ピアノ三重奏曲』
・ラヴェル、大戦へ
・前線からの手紙
・母の死
・『クープランの墓』

 1914年の夏のはじめ、ラヴェルはバスク海岸を訪れ、ビアリッツのすぐ南にあるサン=ジャン=ド=リュズに滞在した。海に面した広大な空間、すぐ目の前のピレネー山脈のパノラマを見ることで、ラヴェルは生気を取り戻し、インスピレーションをおおいに沸かせた。サン=ジャン=ド=リュズはラヴェルの生地という以上の意味があった。揺るぎなくそびえる山々、海、そして岩がちなごつごつした海岸線は、ラヴェル自身の誠実さを象徴しているようだった。それは家族や友人たちへの心からの献身性であり、幼年時代の記憶につながる忠誠心である。
 夏の間は、一人二人とこの近くに、アパッシュの誰かれが姿を見せた。そしてシブールやサン=ジャン=ド=リュズの街角で、ボロディンの交響曲の主題(アパッシュのテーマ曲)の口笛が鳴ることも珍しくはなかった。それを耳にした海水着姿の(洒落たローブに緋色の水泳帽をかぶった)小さな男が、間もなく姿を現すことだろう。ラヴェルはなかなかの泳ぎ手だった。水泳と散歩がこの男の唯一のスポーツだった。ラヴェルと友人たちは、海岸線に沿って遠出をし、国境を超えてスペインまで行ったり、山に登ったりした。

 夏にはいくつものコンサートが開かれるのが常だった。シブール、サン=ジャン=ド=リュズ、ビアリッツの自治体は、優れた合唱団をもち、それを誇りにしていた。おそらくバスク海岸に滞在してい た1916年にラヴェルが書いた混声合唱曲は、この合唱団のためのものと思われる。この合唱曲は三つの歌から成る。「ニコレット」「3羽の美しい極楽鳥」「ロンド」で、伴奏なしのアカペラ作品だった。ラヴェル自身が詩を書いている。
 何年か後(1930年)に、シブールの小さな町は、この輝かしい町の出身者を称えて、「海岸通り」の名を「モーリス・ラヴェル海岸通り」に改め、「モーリス・ラヴェル」の名を記した額をラヴェルの生家正面に設置した。その際、盛大な祭りが町で計画され、バスク・ペロタのオープン戦が昼に行われ、夜にはラヴェルの作品のコンサートがビアリッツで開かれた。この催しに、フランスの著名な音楽家がやって来て、コンサートに参加した。ロベール・カサドシュが『水の戯れ』を、ラヴェルのピアノ伴奏でジャック・ティボーがバイオリン・ソナタを演奏した。それ以外にソプラノ歌手のマドレーヌ・グレイなどがコンサートに花を添えた。

 マドレーヌ・グレイがコンセール・パドルー(フランス最古のコンサート・オーケストラ)との共演でデビューした1914年のはじめに、ラヴェルは彼女と出会っている。ラヴェルは楽屋を訪ね、この若い歌い手に祝辞を送り(ラヴェルの性格から、控えめながら暖かな祝辞を)、自分の曲を歌ってみないかと誘った。数日後に、ラヴェルはマドレーヌ・グレイに、完成したばかりの『二つのヘブライの歌』から「カッディーシュ」「永遠の謎」を送った。それに続く年月、ラヴェルは作品の歌い手として彼女をしばしば選んだ。

 ラヴェルはいつも自分の生地であるバスクのテーマをつかった楽曲をつくりたいと願ってきた。『サスピアク=バット*』という作品に着手していたが、1914年に新しい室内楽曲『ピアノ三重奏曲』に取りかかり、この曲を放棄した。
*訳注:サスピアク=バットは、「7つは1つ」を意味し、フランスとスペインにまたがる7つの州と地域をバスク文化の領域として表した、バスク・ナショナリズム運動のスローガン。 その未完成の作品はピアノ協奏曲として書かれていた。

 『ピアノ三重奏曲』について、ラヴェルはサン=サーンスの初期のピアノトリオから着想を得た(少なくも様式において)と認めている。しかしラヴェルの三重奏曲は、メロディーラインがずっとシンプルで、明快な様式には卓越したものがあり、また徹底した簡素さ、飾り気のなさによって特別な深みがもたらされている。この曲でラヴェルは本質ではないもののすべてを取り除いている。様式的にいうと、この三重奏曲は最初、『高雅で感傷的なワルツ』でとられた方向性で進む。ロラン=マニュエルは、この曲は「堂々とした力強さ」をもっており、弦楽四重奏のもつ哀愁からは大きく外れている、と言う。さらに、ラヴェルは若いときの『弦楽四重奏曲』の活力を三重奏曲の知の部分に置き換えたい、と語っていたことを付け加えている。

 1914年8月、ラヴェルがサン=ジャン=ド=リュズで『ピアノ三重奏曲』に取りかかっていたとき、ヨーロッパを襲っていた戦争の嵐が、突然爆発、拡大した。フランスは戦争に突入、口にすることはあまりないものの、熱狂的な愛国精神のあるラヴェルは、友人や家族の強い反対にもかかわらず、すぐさま入隊の道を探した。まわりの者たちは、ラヴェルの作曲家としての国への貢献は、戦争に身を捧げることよりずっと価値があると説得した。また人々は、前線での過酷さに耐えられるほど、ラヴェルは肉体的に強くはないとも思っていた。これまで大きな病気をしたことがないとはいえ、ラヴェルは強健でもなく、厳しい生活に慣れてもいなかった。
 軍隊はこれを認識し、ラヴェルの受け入れを拒否した。それにラヴェルは失望し、ビアリッツの病院に送り込まれてくる、大量の負傷兵の世話する業務に志願した。その年の10月、ロラン=マニュエルにこのように手紙を書いている。

 音楽をつくることで、国に貢献していることはわかっている。この2ヶ月間、わたしを納得させようと、何度もこのことは言われ続けてきたからね。まずわたしが志願することを止めるために、そしてわたしの失望を慰めるために。わたしの志願は止められなかったし、慰められることもない……
 わたしは毎週、負傷兵の世話をしている。十分にこれに心を傾けている。前代未聞の数の負傷した人々がいて、一晩に40人は下らない者たちが搬送されてくるんだ。
 わたしは作曲もしているよ。ピアノ協奏曲『サスピアク=バット』を続けることは不可能、草稿をパリに置いてきたから。オペラ『沈む鐘』をやることはちょっと難しい(戦争中だからね)……で、いま2つのピアノ曲を作っている。最初はフランス組曲、でもきみが思うようなものではない。ラ・マルセイエーズにはならない、イタリアの舞曲フォルラーヌがあり、ジーグがある。でもタンゴはない。2番目は『ロマンチックな夜』で、「不機嫌」「やっかいな追跡」「呪われた修道女」などを含む。
(このフランス組曲は、のちに『クープランの墓』になったが、『ロマンチックな夜』の方は具現化しなかった)

戦争当時のモーリス・ラヴェル

 ラヴェルは兵役を拒否されたので、反抗的な気持ちのままパリに戻ってきた。「わたしは後方部隊のキャンプの危険の真っただ中にはいるけれど、クロワ・ド・ゲール*を受けるような危険は犯していない」 ラヴェルは自分の細く、軽量なからだは、航空隊で受け入れられるのではと考えた。しかしこれも拒否されたので、車での輸送部門に志願し、やっとトラックの運転手として認められた。1916年3月、ラヴェルは前線に向けて出発した。
*訳注:クロワ・ド・ゲール:戦争の十字架を意味する、フランスとベルギーの軍事勲章。敵軍との戦闘を伴う英雄的行為を行った部隊または個人に授与される。

 戦争は、肉体的にも、倫理観においても、荒廃をラヴェルにもたらした。当初、誰もがそうであるように、ラヴェルは悲惨なことに衝撃を受ける以上に、目の前の戦闘状況に魅了された。そしてその自分の反応に驚いた。

 そうであっても、わたしは平和を愛している。わたしが勇敢だったことはない。しかしそれをもってはいる。冒険というものに心惹かれる。これが必要になるというのは、なんて魅力的なことなのか。わたしは、そして人々は、戦争が終わったあとどう生きるのだろうか。

 とはいえ徐々に、ラヴェルの繊細さを覆うよろいは、日々の恐怖に犯されていった。そして戦争のバカらしさや無用さに憤りを感じるようになった。

 あー、この愚かな悲観主義……近視眼的で、自己本位な考え方……小さな悲鳴がわたしを動揺させる。罠にはまった惨めなネズミだ。

 ある日のこと、耳をつんざく砲弾と銃撃の嵐の中、ラヴェルがヴェルダン近くを軍用トラック(「ロザリー」と名づけていた)で走っていると、突然、あたりが静まり返った。恐ろしい大音響のすぐあとに、究極の静寂が生まれた。ちょうど夜が明けるところで、世界はむごたらしい悪夢から目を覚まそうとしていた。すると一斉に鳥が鳴きはじめた……

 それは戦争に疲れ果てた音楽家にとって奇跡のように思えた。ラヴェルは鳥の歌声が大好きだった。耳にした鳥の声をすべて真似ることもできた。戦争の烈火の最中に、小さなムシクイがあげた声、その歌は、天からのメッセージのように聞こえた。生きることは素晴らしいと主張しているような、崇高なる力が今も世界を支配している、というように。そのとき受けた印象は、ラヴェルにメロディを与えた。(『無関心なムシクイ』) しかし戦争が終結するときまでに、ラヴェルの幻滅は大きくなり、「信念は無秩序を凌駕する」というシンプルなテーマを展開させることができなかった。

 ラヴェルが戦争の前線にいる間に、偏狭で熱狂的な愛国者グループによって、「フランス音楽防衛のための国家連盟」が創設された。彼らはドイツの作曲家の作品は、フランスで開催されるコンサートで演奏されるべきではないと感じていた。そしてラヴェルに、この計画を承認してほしいと願った。
 ラヴェルは前線から明快で公明正大な考えをつづった長い手紙を送り、国内の人間だけでなく、アメリカ在住の者に対しても、戦時のヒステリー状態にある国家というものと芸術を混同していると非難した。

 あなた方の考えに賛同できないことを残念に思います。「音楽の役割は、経済と社会の両方にある」という原理を主張するあなた方の考えに従うことはできません。「我々の国の芸術的な遺産を守るために」「フランスでのドイツやオーストリアの現代音楽の公開演奏を禁止する」必要性など、わたしは考えたことがありません。
 フランスの作曲家たちにとって、国外の仲間の芸術家の作品を体系的に無視することは、そして国家的サークルのようなものを作ることは、危険でさえあります。わたしたちの音楽芸術は、現在、非常に豊かであり、偏見的行動によって閉じこもることがあれば、すぐにでもその質は低下します。たとえば、シェーンベルク氏が、オーストリア人であることは、わたしには何の問題もありません。彼は優れた音楽家であり、彼の興味深い実験が彼と同系の作曲家たちに、そして我々にも喜ばしい影響をもたらしました。さらに大音楽家であるバルトーク、コダーイ、そして彼らの弟子たちはハンガリー人であり、その作品の中で、熱意をもってそのことを明らかにしていることを喜んでいます。

 ラヴェルの手紙は、「フランス音楽防衛のための国家連盟」で、激しい怒りを買った。代表からの返事は嫌味たっぷりで、次のような脅しが含まれていた。

……あなたが、音楽家シェーンベルクの「優秀さ」や、'大音楽家'のバルトークやコダーイ、その弟子たちの「熱意」を、どれくらい評価されているかを知って、大変嬉しいです。国家連盟は、あなたの彼らへの賞賛を世間に知らせ、忠告するつもりです。最悪の場合、あなたの作品に悪い影響が及ぶこともあり得ますが……

 ラヴェルは、音楽は国家の枠組に縛られるものではない、と心から信じていた。音楽はあらゆる人の心に響く、世界言語であるということを知っていた。ラヴェルの戦時における敵国の音楽擁護は、より広い音楽理解へとつながっていった。中でも若いときに非難していたワーグナーの作品に。戦争に続く年月、一度は「偉大なるハーモニーの悪夢」と呼んだ、その偉大なるドイツ人の真価を認め、賞賛さえした。

 1916年5月、ラヴェルは再度、空軍に入ろうとした。しかし審査を受けると、肉体的に空軍に適さないだけでなく、2ヶ月間、前線にいたことで、深刻な健康障害があることが発見された。ラヴェルはトラック運転に関して、こう書いていた。

状態が良くないのはキャブレターだけではない。モーター自身が頼りなく……ギアシフトでさえ満足できるものではない。ステアリングギアも同様でないことを望むばかり……

 ラヴェルは自分の健康状態以上に、母親がこれを知ったときのことを恐れていた。ラヴェルの母は、息子が前線に出て以来、激しく落ち込んでいた。世界中で最も愛する人間について、ラヴェルは最大限の気づかいを見せている。

 わたしはたった一つのことに耐えている。それは可哀想な母を抱きしめてあげることができないこと。……そう、それ以外にもある。音楽だ。それを忘れかけていたと思う。ここ2、3日のうちに、それが戻ってきた、専制君主のように。それ以外のことを考えられない。わたしはフルに活動しているべきだった……

 ラヴェルは戦争の恐怖の中で、ほとんど音楽のことを忘れかけていた。そして自分の音楽をつくる能力も破壊されたのではないかと恐れていた。しかし今、愛する母親の声が強く訴えかけ、作曲しなければという思いに捉えられていた。

 こんなにも音楽に満たされたことはなかった。インスピレーションがあふれ出て、あらゆる種類の企画が、室内楽、交響曲、バレエ作品……

 ラヴェルは悲惨な戦争の間に命を落とした友人たちを思い出し、敬意を払いたいと願った。一人一人に捧げるための、いくつかの曲を集めた組曲をつくることに決めた。作品全体は、オマージュとして偉大な作曲家、クープランに捧げられる。初期のフランス音楽すべての中で、クープランは最もラヴェルに訴えるものがあった。ドビュッシーがラモーに対してそうであったように。ドビュッシーがすでに『ラモーを讃えて』を書いたことは知られていた。ラヴェルは『クープランの墓』を書こうとしていた。2年前にサン=ジャン=ド=リュズで企画していた『フランス組曲』の発展形である。

 しかしながら前線で曲をつくることは不可能だった。作曲できないことに苛(さいな)まれ、仕事をすることに制約があることで、体調を崩した。ラヴェルは前線の近くにある病院で、数週間を過ごした。その後、回復期を過ごすためパリに戻った。ところがそこでは新たな衝撃が待ち受けていた。愛する母親が、1917年1月初旬に死んだのだ。

 この悲劇に、ラヴェルは打ちのめされた。いつの日か、母親を失うということをあまり認識していなかった。母親はラヴェルの人生の大きな部分を占め、母親のいない生活など想像できなかった。友人たちもラヴェルを慰めることができなかった。魂をなくした人のように、パリの街をさまよい歩いた。そしてなんとか健康状態が回復したと思えたので、そして悲しみを忘れたいと願い、前線近くのシャロン=アン=シャンパーニュに戻った。
 そこで極度の憂鬱におそわれ、肉体的にも精神的にも疲弊し、国のために役立つ仕事をするのは無理だということがはっきりした。ラヴェルは兵役から解放され、ノルマンジー滞在中の1917年の夏、『クープランの墓』を完成させることを決意した。
 「ついに仕事ができる。これで多くのことに耐えられる」

 ラヴェルは友人に、『マゼッパ』『エチュード』を含む、リストの作品をいくつか送るよう頼んだ。リストのスコアを分析し、学ぶことにあきることがなかった。たとえこれらの曲が『クープランの墓』の手本となったとしても、完成した楽曲にその影響を見つけることはできなかった。ラヴェルの死んだ仲間たちへの賛辞は古典的な純粋さに満ちており、リストの鮮やかできらびやかなスタイルとは大きく異なっていた。『クープランの墓』は可能な限り簡素に書くという、究極の表現を見せている。豊かな音色と感受性あふれる透明な世界、その静けさに満たされて……「笑顔でさよならを言おう」

 この楽曲は、戦争で死んだ友人たちの記憶として、偉大なるクープランへの祈りのもと捧げられたもので、穏やかさと優美さをもち、悲しい感情を越えて魅力に溢れるものとなっている。ラヴェルは、花そのものに悲しみがあるのではなく、悲しみは供える状況の中で生まれるものだ、と思っているのかもしれない。

『クープランの墓』ピアノ版の表紙(デザイン:モーリス・ラヴェル)

 「トンボー(タイトルの墓に当たるフランス語)」とは、17世紀(バロック時代)の「故人を追悼する器楽曲」のことで、死んだ人への敬意をあらわす。このような悲劇的な連想にもかかわらず、ラヴェルの『クープランの墓』は陰鬱でも悲劇的でもない。このピアノ組曲は「プレリュード」「フーガ」「フォルラーヌ」「リゴドン」「メヌエット」「トッカータ」の6つの舞曲形式で書かれている(最後の曲は、音楽学者で、ピアニストのマルグリット・ロンの夫であるマルリアーヴ大尉の思い出として捧げられている。マルグリット・ロンはのちに、ラヴェルの『ピアノ協奏曲 ト長調』の初演者となった)

 「プレリュード」は、活気のある舞曲で、バグパイプを思わせる不気味な音色のはいる楽曲。上昇したり下降したりを繰り返し、不協和な響きのトリルで終わるが、優美にバランスをとることで聴き手を魅了し、嫌な感じを与えることはない。
 「フーガ」は主題を最初は高い音域で、それから低い音域であらわし、音楽によるざわめく対話。「フォルラーヌ」は、18世紀初頭のイタリアの舞曲が元で(4分の6拍子、または8分の6拍子)、ジーグ(17世紀のフランスの舞曲)と似たところがある。
 「リゴドン」は、プロバンスに由来する古い舞曲の一つで、跳ねるような生き生きとした様式。ラヴェルの「リゴドン」は、非常にダイナミックなリズム感に溢れている。大きく、小さくと強烈な和音が交互にあらわれ、その後、弦楽器のピチカートに伴われた、木管楽器による悲しげなメロディーとなる。最後のところで、突然また、最初の交互にあらわれる強烈な和音に戻る。
 「メヌエット」は、おそらく一番、魅力あふれる楽曲である。簡素で物憂い古典的な主題が心に残る。中間部の歌(純粋で心動かされる繰り返し)は、バイオリンによって演奏される。そして最後に、元のメロディーが新たな驚くべきハーモニーによって登場して締め括(くく)られる。
 組曲の最後の「トッカータ」(オーケストラ版には含まれない)は、輝かしく迫力ある楽曲で、『夜のガスパール』の「スカルボ」を思わせるところがある。

↑『クープランの墓』より「フォルラーヌ」

↑『クープランの墓』より「メヌエット」

 『クープランの墓』は1918年の春に発表されることになっていた。しかしパリへの爆撃があり、人々はパニックに陥り、あらゆるコンサートや展示は中止された。1919年春、ラ・ボエシ通りのサル・ガヴォーでこの曲のピアノ版が初演された。これは大きな成功をおさめ、聴衆は「フォルラーヌを!」「アンコール、アンコール!」「トッカータ!」「メヌエットを!」とアンコールを求めて叫びつづけた。
 しかしある批評家は、この作品を留保した。それはラヴェルの作品を痛烈に批判してきたピエール・ラロで、『クープランの墓』を記事の中で辛辣に批判している。この記事について、ロラン=マニュエルはこうコメントしている。

ピエール・ラロ氏はめったに冗談を言わない人だ。この発言によって彼が、墓穴を掘ったことは確かだ。ラロ氏は、オーケストレーションの的確さと魅力を称賛したのちに、「『クープランの墓』にはシャブリエの模倣が各所に見られ、しかもそれは、小さく取るに足りないシャブリエである。さらにフォーレの模倣も見られるが、詩心抜きのフォーレである」と続ける。またこの作品には、クープランの繊細さや感受性がないと非難したあとで、ロッシーニの物言いを借りて、「モーリス・ラヴェルの『クープランの墓』はいい作品だ。しかしクープランによる『ラヴェルの墓』だったらどれほどよかったことか」と言った。

 2年後、ラヴェルはこの作品から、「プレリュード」「フォルラーヌ」「リゴドン」「メヌエット」の4つをオーケストラ化した。これらの曲はバレエ作品としても使われた(スウェーデンのバレエ団によりパリのシャンゼリゼ劇場で初演)。ラヴェルは『クープランの墓』に特別な愛着をもっていた。理由は亡くなった友人たちの思い出だからかもしれない。ラヴェルの死後、「メヌエット」のスコアが、ラヴェルのピアノの上で発見された。ただ一つ、部屋に置かれた楽譜だった。

 『クープランの墓』の飾り気のなさ、率直さには、人間に対する深く痛切な思いが感じられる。これはラヴェルの他の作品にはあまり見られないものだ。この作品は当時のラヴェルの苦しみを宿しており、母親や前線にいた友人たちを失ったこと、そして戦争によってフランスが被った悲劇からくるものだった。『クープランの墓』は、ラヴェル独特の方法論で、この悲しみのすべてを象徴的に表している。表面には影はあまり見られない。そこには色彩や光、そして陽気さもある。しかし水面下には悲劇に対する抑えた口調があり、耐え難いことを世界が目の当たりにするのではないか、という恐れと苦悩が隠れている。


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