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XVI. モンフォール=ラモーリーの家

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・「ベルヴェデール」紹介
・ラヴェルのいたずら好き
・主人(ホスト)として、先生として、話し上手な人として
・ラヴェルのシャム猫たち
・エレーヌ・ジュルダン=モランジュ
・バイオリンとピアノのためのソナタ

 パリ盆地(イル・ド・フランス)とランブイエの森を見おろすなだらかな丘の上に、絵のように美しいモンフォール=ラモーリーの小さな村はある。道幅の狭い石畳のきつい勾配を、街の中心地に向かってくねくねと登っていくと、そこは中世の教会が過ぎ去った日々を夢見る場所。いくつかの店と一軒のカフェが古い教会の前にあり(フランス風に小さなテーブルがいくつも店の外に置かれている)、それがこの中世の村で唯一感じられる現代である。こういった店とレンガやしっくいによるお手軽な造りの別荘が、時代を経た石造りの家々とくっきりとしたコントラストを見せている。
(Church of Saint-Pierre de Montfort-l’Amaury)↓

 こうした別荘の一つが、バロック様式の白木の縁取りに装飾されて、モンフォール=ラモーリーの端っこに立っている。少なくとも外観は、そのへんの商人や中産階級の人々が所有するフランスの地方の別荘と、特に変わったところはない。しかしその内部は、一人の人間の完璧な表現としてのユニークさを保っている。ここがモーリス・ラヴェルの家である。

 母親の死のあと、ラヴェルは5年近く、ボネ夫妻*と弟のエドゥアールとパリ郊外のサン=クルーに住んでいた。しかしいつか自分の家を持ちたいと思っていた。そういう家があれば、都市の生活から距離を置いて、仲のいい友だちのたびたびの訪問に妨げられることもなく、田舎でもっと仕事に励める。それで何よりも田舎の人里はなれた場所を、とはいえパリへの交通も不便でない場所を探すことに決めた。しばらく探したあとで、1922年、パリから45キロのところにある、モンフォール=ラモーリーの村に、思っていたような家を見つけた。

*ボネ夫妻:ボネ氏は長くラヴェルの父ジョセフの右腕として働いてきた。ジョセフの死後は工場のマネージャーとなり、弟のエドゥアールと同じ家に住んだ。そこにラヴェルはしばらく同居していた。(訳注)

 ラヴェルの家の選択は、ラヴェルの性格をよく表していた。仰々しい家を探していたわけではない。フランスの田舎には、何エーカーもの敷地や庭に囲まれた美しい城がたくさんあった。しかし大きな住処はラヴェルの気性には合っていなかった。ラヴェルが最終的に選んだのは、丘の中腹にある小さなヴィラで、ごく小さな庭が備わっていた。こここそがラヴェルが望んでいた場所だった。狭い限られた空間に身を据え、そこを完璧なものにする。窓の下にひろがる丘陵地帯や谷の素晴らしい眺望によって、心の新鮮さが保たれ、ドアの外にはランブイエの森があり、音楽のインスピレーションをもたらす。いつでも一人森を歩いて創作に刺激を与えることができた。

丘の上のラヴェルの家 (from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 この場所のすべてがラヴェルの喜びとなった。どの部屋もごく小さなものだった。ラヴェルの正に望むとおり。キッチンや配管設備は中世のもの? それで結構。ラヴェルはそれを自分に合わせて近代化することができた。ハンカチーフのような庭? そのような小さなサイズの場所に何が可能かを見せるチャンス。新しいおもちゃを与えられた子どものようだった。これはラヴェルの最初の自分の家であり、自分の好みや個性を表現できる最初の機会だった。細かいところまで自分で計画し、自分で手を下しもした。キッチンはタイルの壁と最新のレンジに改築し、塗りを施したバスタブにシャワーでちゃんとした浴室を設置し(常に新しい装置を導入した)、そして最後には芸術的なパワー全開で、黒と白のステンシルのデザインを自分で部屋に施して飾った。この労働の結果は人目をひくものではない(とはいえとてもユニークではあるが)。ローマ帝国やら王政復古、ルイ・フィリップ王を混ぜたところに、日本とギリシアのけったいなコンビネーション。ラヴェルが大好きな矛盾だらけのやり方で、ありきたりでちょっと大げさなを名前をこの家に付けた。その名も「ベルヴェデール:展望台」。

(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 ベルヴェデールは、ラヴェルが1937年に家を離れ、パリの病院に入ったときのまま、すべて残されている。弟のエドゥアールはこの家を売るのを許さなかった。兄の思い出として、細部まできちんと維持することを望んだ。ラヴェルがモンフォール=ラモーリーに移ってきたとき以来の信頼する家政婦レヴェルーさんが、ここでこの世を去った主人の愛する持ち物の面倒を見ている。レヴェルーさんは庭から花を摘んできて、家の中を花で満たしている。晩年の不幸な数年間、子どものように見えた小さな物静かな人物について話すとき、彼女の目には涙があふれた。「お世話をするのに何も難しいことはなかった」 軽い足音がドアのところから今にも聞こえてきそうな、狭い廊下の奥にある書斎から懐かしい音楽がいつ流れてきてもおかしくないといった、奇妙な期待感に包まれた家だった。

 ベルヴェデールの玄関を開けると、小さな家の内部につづく小さな玄関ホールがある。(この村の自慢の)白いタイルに輝くキッチンが片側にあり、反対側にはダイニングルームと庭を見おろすバルコニーがある。そこには特別仕立てのテーブルトップの、ゲストを迎えるときに使われる小さなテーブルが置かれ、年代物の壁泉、鈍い金色の壁掛けがある。部屋の壁と暖炉の脇には、ラヴェル自身の手による幾何学模様のステンシル画が描かれている。この装飾は、少しずつ形を変えて家じゅうの壁で繰り返されている。

ラヴェルの手によるステンシル(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 ダイニングルームの隣りにある小さなサロンは、ローマ帝国と日本の混ぜ合わせだ。ソファーの両脇にある二つの食器棚は、陶磁器と小さな装飾品で埋め尽くされている。この食器棚は実は秘密のドアで、ラヴェルが設計した隠し部屋に通じていた。ラヴェルは友人たちを驚かすのが大好きだった。「食器棚? ちがうんだ、これは秘密のドアなんだ」 そこを開けて中にある音楽用個室(収納部屋)を見せながら、こう説明した。

(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 サロンの隣りには希少な本が詰まった本棚のある小さな図書室があり、その次の部屋は2段ほど階段を降りて狭い廊下をいくと、ラヴェルの仕事部屋になっている。たくさんの名作が書かれたこの部屋は非常に小さくて、エラールのグランドピアノだけでいっぱいになるほど。小さなデスクに椅子、装身具を入れた飾り棚が残りのスペースを埋めている。

 こんな小さな空間に、なんとたくさんのものが収められていることか! ピアノや棚は、少しの隙間もないくらいミニチュアの品々(磁器製のソファ、人形の家具、描かれた波の上の吹きガラスの船 - この波を操作して船を揺らすことができ、ラヴェルを楽しませた - 、中に花の入ったガラス玉のペーパーウェイト、いろいろな小さな箱の数々、花瓶やランプ、ガラスのドームの中に閉じ込められた人気バレリーナ、アデレードを真似た人形)で覆われている。

 ラヴェルの宝物の中でも一番は、金の鳥かごに入った小さなナイチンゲールで、この鳥は歌い、羽をパタパタさせることができた。この鳥をジジと名づけ、ネジを巻いてメカニカルな歌声を聴くことに、ラヴェルは飽きることがなかった。彫刻家のレオン・レイリッツがある晩、リハーサルのときにこの鳥をプレゼントした。ラヴェルがこの新しいおもちゃで遊んでいたため、リハーサルが2時間遅れた、というエピソードが残っているほど。

 ラヴェルの家を訪れた主をよく知らない人は、ここが偉大な作曲家の家であると想像できなかっただろう。家の中に楽譜がほとんどない、目につかない。仕事部屋のピアノの上に、『クープランの墓』の中のメヌエットがあるきり。ラヴェルは魔法の力で曲を生み出していたみたいだ。誰もラヴェルがデスクやピアノで作曲しているのを見たことがなく、その跡さえ見つけられない。ロラン・マニュエルはこれを「まるでピアノの鍵盤が直接、五線譜に書き込んでいるようだ」と表した。人を驚かせたいというラヴェルの望みは、こっそり作曲することにつながっていたように見える。

 仕事部屋はくすんだ色味で装飾されている。壁紙は濃いグレー、カーテンは黒に見えるくらい暗い色味だった。ラヴェルは暗い色味が張りつめた神経をなだめると考えたに違いない。明かりや色味が欲しければいつでも、窓の外の広がる牧草地や果樹園、森の風景に目をやればよかった。

(from the video by Ville de Montfort l'Amaury) 

 ラヴェルの寝室は下の階にあって、庭のテラスに直接つづいていた。ベッドはフランス様式でゴールドのシルクの天蓋がつき、暖炉はラヴェルによるデザインで装飾されていた。すべてがこの家の主人がいたときのように、細部まで完璧に整えられていた。

 寝室のすぐ外は、砂利を敷いた小さなテラスで、春になれば黄色いスミレの花に縁どられた。このテラスの下にはごく小さな庭があり、この家の主人によって日本庭園風に細やかにデザインされていた。小さな池、斜面を降りていく敷石を施した歩道、小さな花々の茂みに盆栽の数々。すべてが幻覚のような空間。ラヴェルは日本の盆栽に特別な愛着があり、その抑えられた成長を「エネルギーの濃縮」と呼んでいた。制限(それがあるからこそ)の中での達成は、成就のための最高の秩序であり、日本の木のミニチュアの完璧性が、ラヴェルにとってその到達の象徴だった。

(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 ラヴェルはオリジナルに対して精巧であれば、実物の再生産(複製)に偏愛をもつという傾向があった。もし複製品が本物と勘違いさせるほど精巧に作られていれば、ラヴェルにとってそれは本物以上に芸術性があるように思えた。アーティストは、意識的な創造者(現実を理解して解釈する者)であるべきで、単なる「誠実さ」(芸術的な観点から見た誠実さ)は、衝動や自己コントールの欠如を暗示している、とラヴェルは主張した。それは無分別に過ぎない、と。それに対して自意識(ときにラヴェルはこれを「人為性」と呼ぶ)は、自己コントールと感情のアートへの変換を意味する。動物を上回るものが人間にあるとするなら、ラヴェルの考えでは、知性の力によって自然を模倣するところにあった。

 ラヴェルは訪ねてくる友人たちに、自分の「大邸宅」を見せることに喜びを感じていた。友人たちはラヴェルの家は魅力的だと思ったが、同時に子どもじみていてバカバカしいとも感じた。そしてたいした悪趣味だ、とラヴェルをからかいもした。「ロココ趣味」「バロック趣味」というのが彼らのマイルドな悪口だった。友人たちの中には、この家を「田舎の老婦人のインテリア」と呼ぶ者もいた。またある者は「恐怖の部屋(館)」と言った。ラヴェルはまったく気にしなかった。ただ笑っていた。「だけどこれが好きなんだ。わたしに合ってる」 そう主張した。

人気バレリーナ、アデレードを真似た人形(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 ラヴェルは自分のサロンが生み出す「嘘の世界」の成功に、子どもじみた誇りをもっていた。ラヴェルの所蔵する希少な版画や上等な磁器をほめた訪問者に、「だけどぜんぶ偽物なんだ。デパートで買ってきたものだよ!」と言うことが、何よりも面白かったのだ。サロンの台座の上に置かれたくもりガラスの玉を大事そうに扱い、自慢気に見せるので、お客たちは真面目であれ振りであれ、いつも感心してみせた。するとラヴェルは大笑いしてこう言った。「たいしたもんじゃない、切れた電球だよ、、、」

 ベルヴェデールについてのラヴェルの誇りと喜びには、子どものような屈託のなさや天真爛漫さがあった。戦争への失意と母の死から立ち直ったあとの、そして晩年の悲劇的な日々の間の幸せな数年間は、心配ごとのない生活を享受した。ベルヴェデールは母であり、妻であり、子どもであった。その間、ラヴェルは人生において唯一、真に個人的な生活や生き方の発露を見つけた。

 それ以外では、音楽がただ一つの放出口(表現手段)だった。全体として見れば、ラヴェルの人生は無色透明で、ほぼ「人間的興味」と呼ばれるものを欠いていた。爆発するような感情の発露や圧倒されるような熱情が、芸術性を映すクリアーな鏡を曇らせることはなかった。ラヴェルは経路(あるいは水路)であり、音楽はそこを流れ、コントロールされ、最高の技能によって導かれるものだった。しかし厳しく個人の生き方を守る者がときに持つ、自己限定的なものの見方からは自由だった。

 ラヴェルは奇妙な客観性の持ち主だった。自分のつくった音楽に対して、それが他人の作品であるかのように個人的な感情を見せなかった。めったに自作の演奏を聞こうとしなかった。コンサートでは、「タバコの時間」と称してホールの通路に逃れていた。成功に対して無関心で、「実績(キャリア)」という考えも持たなかった。世間の評判が高まるほど、無邪気でいることにこだわった。「リンゴの木がリンゴの実を実らせるように」、ラヴェルはそうする必要があるから音楽をつくっていた。音楽家としての地位を高めるとか、お金をもうけるといった考えは持ったことがなかった。まったく商売っけがなく、生徒にレッスン料を払わせることもなかった。作品とコンサートによって、かろうじて質素ではあるが気持ちのいい生活ができた。

 ラヴェルが教えたことのある生徒と言えるのは、ロラン・マニュエル、モーリス・ドラージュ、マニュエル・ロザンタル(指揮者、作曲家)、レイフ・ボーン・ウィリアムズくらいだ。それ以外の者、いろいろな時期にラヴェルに会いにやって来たアメリカの若い作曲家たちには、ちょっとした批評や提案を与えたくらいのことだ。

 ラヴェルはいつも若い音楽家に興味をもっていた。もしその人間に才能があれば、そしてその才能に対してその人間が努力を惜しまなかったなら、「すべての人に才能はある」と伝え、ラヴェル独特の公平感から「わたしは誰と比べても才能がない。少し努力すれば、わたしがやったことと同じことが誰にもできる」と付け加えた。誰かがラヴェルの作品について説明を求めると、肩をすくめてニッコリ笑い、「わたしは対数をつくる。理解するのは君たちだ」と言った。若い世代の人々が、自分の作品に敬意を払い過ぎることを望まなかった。「むしろ君らに嫌ってほしいくらいなんだ。影響を受け過ぎるくらいならね」 そう述べた。ラヴェルの考えでは、いろいろなことの中で、オリジナリティは一番重要なことであり、次なる世代の新たな発見をとおして、音楽は初めて生き延び、発展すると信じていた。

 ベルヴェデールの主として、ラヴェルはお客を丁重に扱い楽しませた。友だちが来ると静かに迎え入れたが、言葉であれこれ言うのが苦手なラヴェルは、率直な喜びの表情や黒い瞳の輝きで、歓迎の意をめいっぱい表した。日曜日にはベルヴェデールに友だちがたくさん集まり、天気がよければ、庭に面したテラスでランチを食べるのが常だった。ジャック・ド・ゾゲブ、ジャック・ド・ラクレテルなど、モンフォール=ラモーリーの隣人たちがいつもそこにいた。そう遠くない場所に別荘をもつ作家のコレット*も、ここに参加することがあった。いつもアパッシュのメンバーが何人か参加し、またラヴェルの音楽の演奏家たちもその場にやって来た。マドレーヌ・グレイ(声楽家)、ジャーヌ・バトリ(声楽家)、マルグリット・ロン(ピアニスト)などがいた。ラヴェルが才能ある若いバイオリン奏者、エレーヌ・ジュルダン=モランジュと出会ったのもこの時期である。才能を高く評価し、彼女との友情は(中でも晩年の)ラヴェルにとって大きな意味をもたらした。

*コレット:フランスの作家( 1873〜 1954年)。ラヴェルとともにオペラ『子供と魔法』を制作。

テラスでの昼食風景(from the video by Ville de Montfort l'Amaury)

 当時の主要な音楽家たちは、一度ならず、モンフォール=ラモーリーの丘の上にある「人形のお家」を訪ねていた。音楽の楽しみと尽きない議論に満たされた、陽気で楽しい集まりだった。一日の終わりに、ラヴェルが森を抜けてランブイエ村まで散歩しようと提案するのが常だった。「ちょっと飲みにいこう」と言って。

 ストーリーテラーとしてのモーリス・ラヴェルは(友だちからはときに「ララ」と呼ばれていた)、巧みで愉快な話し手だった。品の良さと物語に引き込む高い能力をもち、ラヴェル独特の表現をもっていた。ラヴェルのやることは、お話を語るときでさえ、完璧さを追求する性質が現れていた。モノマネの才能があり、鳥や動物の鳴き声を本物のように再現した。誰かがそれをほめたりすると、鳥や動物のこっけいな鳴き声を発して受け流し、嬉しさや恥ずかしさを隠そうとした。

 ドビュッシーとラヴェルは、猫が大好きという共通点があった。ラヴェル生来の内気さと恥ずかしがり屋のところは、子どもや動物といるときだけ忘れさられた。シャム猫の家族が数年間、ベルヴェデールの一角に居をかまえ、ラヴェルの一番の喜びと楽しみになっていた。猫たちの並外れた知性や主への愛情といった神秘的ともいえる特徴は、ラヴェルが言うには、バスク人の気性に近いとのこと。ラヴェルは猫のことを理解できるだけでなく、猫の言葉が話せた。シャム猫との会話が、おそらく『子供と魔法』の中の「猫たちのデュオ」のアイディアの元ではないか。ラヴェルが仕事をしているとき、猫たちはデスクの上に乗って遊ぶのだった。ある日、ラヴェルとエレーヌ・ジュルダン=モランジュが「猫たちのデュオ」(『子供と魔法』)を歌って楽しんでいたら、突然、シャム猫の家族全員が驚いたように集まってきた。明らかに、その歌がリアルだったからだろう。子猫のムニーはジュルダン=モランジュが名づけ親だった。ラヴェルは母鶏がひなに気をつかうように猫たちに心を砕いていた。ラヴェルはエレーヌに次のようなコメントを送っている。

わたしの愛するムニーの名づけ親へ、カードを2枚受け取った。あなたの名づけた子は元気だけど、兄の方はガツガツ食べるので、胃炎になってる。芝の上でジャングルごっこをする妨げにはならないけどね。というわけです。あなたの鼻をペロペロペロ。

 ラヴェルはエレーヌ・ジュルダン=モランジュに、後に名作となるバイオリンソナタを捧げている。当時、エレーヌはもっとも才能ある若手バイオリン奏者の一人で(後に手の損傷から輝かしいキャリアは終わりを迎えたが)、彼女の楽器の知識を通して、ラヴェルはバイオリンに関するあらゆる資源、情報を探索する機会に恵まれた。ラヴェルはしばしば運指法や運弓法をエレーヌに助言し、ときに自分の知りたいことがあると、傲慢とも言える頼み事をエレーヌに送りつけた。ある日のこと、「バイオリンとパガニーニの『24の奇想曲』をもってすぐ来たれ」と電報を打ったのだ。

 バイオリンとピアノは、ラヴェルの考えでは「基本的に合わない」楽器であり*、このソナタでは二つの楽器を調和させるのではなく、コントラストを強調することを企んだ。

*チャイコフスキーも同じ考えをもっていたと言われている。そしてたった一つの作品(イ短調の三重奏:Opus 50)しか弦とピアノのために作曲しなかった。(音楽のパトロン、マダム・フォン・ミークの影響にすぎないと言う者もいる)

 モンフォール=ラモーリーで暮らした日々、ラヴェルはエレーヌ・ジュルダン=モランジュと頻繁に会っていた。二人には多くの共通点があった。音楽、ネコへの愛情、そして互いの気性を理解し尊重し合っていた。この共感は、多くの人が言うことには、さらなる深いものへと熟していった。少なくともラヴェルの側ではそうだった。しかし相手の返答に自信がないかぎり、自分の気持ちを表すことにラヴェルは臆病だった。ジュルダン=モランジュ夫人の方も、戦争で死んだ夫の思い出を大切にしていたが、ラヴェルとの近しい関係は常に保っていた。

日本語訳:だいこくかずえ 原著"Bolero: The Life of Maurice Ravel” by Madeleine Goss 

ビデオ:Maurice Ravel's museum house by Ville de Montfort l'Amaury

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