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日本の小説が英語小説になるとき 『穴』『工場』

前回、英文テキストの段落はなぜあんなに長いのか、について書いたとき、最後のところで日本の小説にも段落の長いものがあった、と書きました。小山田浩子さんの小説『穴』だったり『工場』だったりで、その流れで各小説の詳しい解説が英語版ウィキペディアの項目にあることを発見しました。

これが、ちょっと読んでみると、えっそういう小説だったの?というような解説で、改めてすでに読んでいた『穴』をパラパラと読み返し、『工場』の方はKindle版をサンプルで試し読みしたのちに購入。


穴:The Hole

・英語版Wikipediaの記述
・海外Amazonのレビュアー

まず『穴』ですが(タイトルは『The Hole』2020年10月)、英語版ウィキペディアの最初のところに次のような説明があります。

一人称の語り手である(Asahi=あさひ)は、欲求不満(frustrated)の主婦であり、日本社会の厳格な性別役割分担に関するいくつかの包括的なテーマに沿って物語を語る。

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Hole (novel)」
最初の項目立ち上げが2021年3月で、その後数人の人によって多くの追加修正が行われている。

「欲求不満」はちょっと言い過ぎで、「やり場のない、ちょっとした苛立ちを含む感情をもつ」くらいが近いのでは。AIは一文の中の言葉じりを捉え、背景までは見ないので仕方ないですが。「厳格な性別役割分担」の原文は、'strict gender roles of Japanese society'です。

う〜ん、そういう小説だったかな、というのがこれを読んだときの最初の印象です。厳格な性別役割分担。何のことを言っているのか。このような表現は読者レビュー、文芸批評など、日本語ではほぼ見当たりませんでした。

日本語でよく取り上げられているのは、「平凡な日常のすぐ隣にある異界」のような表現です。ごく普通の生活の中に現れたヘンな生きもの、現実のものとは思えない不思議な穴、突然現れた夫の兄だという人物、謎の多い義祖父、傍若無人な子どもたちといった要素による、根拠の見えない出来事や人がかもしだす奇妙な雰囲気、違和感。

でも「厳格な性別役割分担」に沿って読もうと思えば、そう読めないこともありません。
1. 主人公で語り手の妻は夫の転勤のために簡単に仕事(非正規)をやめた。
2. 引っ越し後、主人公は仕事探しをしないわけではないものの、消極的。
3. 夫の実家の隣りに住むことになり、仕事をしている義母から、家にいて暇かもしれない主人公は雑用(コンビニでの支払い)を頼まれる。
4. 気安くそれを請け負い、用意されていたお金が足りなかったにも関わらず、主人公はそれを義母に言わない(立て替えたままにする)。
5. 近所の人などから、主人公は名前ではなく「お嫁さん」と呼ばれている。

と、こんな風に読むと、実際に自分が読んだときの風景とは違うものが目の前に現れてくるのは確か。英語版ウィキペディア(因みに日本語版はない)では、登場人物の説明のところで、夫は常に携帯電話をいじっていて、小説の中にほとんど登場しないことから、妻をないがしろにしていることを暗示している、とありました。参照元はLocusという英語サイトで、実際には次のような記述が見られました。

しかし、彼女が出会う人々は彼女を「花嫁(お嫁さん)」と呼び、あたかもアサ(あさひ)には独立性も主体性もなく、彼女のアイデンティティは夫の家庭と表裏一体であるかのように言う。

DeepL翻訳による、Ian Mond, Locus(2020年)

う〜ん、そう言われてしまうと。。。そう描かれていない、といも言えないけれど。

携帯電話にまつわる記述に関しては、夫婦でも恋人でも親子でも(小さな子ども連れのお母さんが、道端で画面に熱中していたり)、日本では普通に見られる風景で、ないがしろとかマナー違反とか育児放棄とか、目くじら立てるようなものでもない、と言えるかもしれません。が、それが違う文化圏の人からは、普通ではないと見られることもあり得ます。

わたしの読んだときの印象も、すべてが現代の日本の普通の風景に見えましたし、義母にしても、仕事をもつ活発で気のいい人、とも読め、さほど違和感はなかったです。少なくとも、そこにテーマがあるようには見えませんでした。

が、考えてみれば、たとえば英語圏の人が違和感をもつような暮らし方や人間関係というのは、日本人にとって当たり前(日常の風景)だから素通りするけれど、作者の中では何か意図があって書いているということも考えられます。あからさまに、たとえば昔風の嫁姑のいさかいとか、嫁いじめなどの話としてではなく、するっといってしまうからこそ現実感があり、そこに意味を込めたといった。(英語版ウィキペディアの人物解説には、義母は一見いい人のように見えて、実は無言で嫁を操っていることが小説全体の中で証明されている、とあった)

英語版の『The Hole』は、どのように翻訳されているのか、気になったのでKindle版のサンプルで冒頭を読んでみました。たとえば「実家」とか「嫁姑」といったワードは、どう表現されているのか。

A local branch office out in the country. It was the same area my husband was originally from, …..
営業所のある市が夫の実家のある土地だったので、….

"The Hole" New Directions, 『穴』新潮文庫

日本語の「実家のある土地」と、英語の「夫の出身地」ではやはり違うニュアンスを感じます。日本語の実家は、その背後にある光景、習慣や人間関係も含めて意味深い、というか、単に「両親の家・居住地・家屋」を指しているわけではない、といった。

では「嫁姑」はどうか。

"…. What do you think? Too close?” “To what? Your family?” “Well, your mother-in-law.” When he said the word, I almost laughed out loud.
「… どう? うちの隣とか、嫌じゃない?」「嫌? なんで?」「いや、嫁姑とか」よめしゅうとめ、という言葉を聞いて思わず笑いそうになった。

"The Hole" New Directions, 『穴』新潮文庫

嫁姑も「mother-in-law(義理の母)」も二人の人間の関係性を表していて、指してるものはほぼ同じ、でも言葉に含まれているものが違う。主人公は「よめしゅうとめ」という言葉に吹き出しそうになるほど(まあ普通そうですよね)、関係性を表す言葉としてはほぼ死語化しているかもしれない表現。

ウィキペディアの解説は、出典が主として英語のジャーナル誌だったので、海外Amazonの一般の人のレビューを見てみることにしました。

それはまさに私が読みたかったものでした。非常に規則的な(日常的な)設定に奇妙で神秘的で奇妙な(気味の悪い)ものが混ざり合っていました。好奇心旺盛で(興味をそそる)、ある種の詩的な描写で、いつも少し不気味で、その奇妙さ(が)かなり面白くて魅惑的でした。これは読むのが少し楽しかったです。エンディングは悲しくなりましたが、多分私だけかもしれません。考えさせられるひねりがあり興味深いです。乗り(読み)心地が大好きでした。

Amazonの翻訳機能による、アメリカの読者のレビュー(2023年):一部筆者が修正

この本は素敵なサプライズで、偶然出会った小さな夏の読書だった。多くのことが語られず、読者の想像に委ねられている...。この作品は、物語そのものを包む夏の暑さと同じように浸透している(浸透力がある)。読み終わるまで手放せなかった。

Amazonの翻訳機能による、スペインの読者のレビュー(2021年)

平凡に見える家族の物語が、著者によって非凡なものに仕上がっている。他の2冊がそうであるように、物語のテンポと艶やかさは平凡なものに光を与え、それを特異なものにしている。昆虫、鳥、不思議な野生動物、そして老いが、水面に映る太陽のようにきらめく。

Amazonの翻訳機能による、英国の読者のレビュー(2023年)

どうでしょう。このレビューを見ると、日本で受けとめられている印象とほぼ同じに見えます。「まさに読みたかったもの」「多くのことが語られず、読者の想像に….」「平凡に見える家族の物語が…… 非凡なものに」 このあたりは最高のほめ言葉ではないでしょうか。

このレビューを読む限り、物語あるいは文学は、言語や文化を超えていく普遍的なメディアになり得ることを、そして世界の同時性を感じます。
ウィキペディアも文芸ジャーナルも、Amazonレビューも2020年以降のものですが、作品の受けとめ方にはかなり差があるように感じました。

工場:The Factory

・英語版ウィキペディアの記述
・海外Amazonのレビュアー

次にもう一つの英訳作品『The Factory』を見てみます。
原著は『穴』の1年前(2013年)に書かれたもので、英語版も一足早く2019年に『The Hole』(2020年)と同じDavid Boyd 氏の翻訳により、ニューヨーク市のNew Directionsから出版されています。
こちらもまず英語版ウィキペディアの記述から。

『工場』は小山田浩子によるプロレタリア小説である。

ジャンル:日本のプロレタリア文学

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Factory (novel)」
最初の項目立ち上げがこちらも2021年3月で、その後、多くの追加修正が行われている。

プロレタリア文学。なるものがまだ日本にあったのか、という。いやないでしょう。ただ近年の非正規雇用問題の影響で『蟹工船』(1929年)が若い層に読まれている、と聞いたことはありますが。

『The Hole』が「厳格な性別役割分担」を物語る、という英語版ウィキペディアの解説に相通ずるものがここにはあります。
小説の舞台は「工場」と呼ばれる会社あるいは企業施設。

『工場』の舞台は日本の未知の都市である。工場は主に労働の場であるが、従業員も工場周辺の敷地で生活している。敷地は自給自足で、それ自体が都市になりうるほど広い。墓地以外は何でもあると言われている。

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Factory (novel)」

この設定は奇妙にして効果的で、黒い鳥をはじめ変種なのか何なのかよくわからない動物たちが敷地内に生息し、さらに森に住む(さほど害のない)不審な人間も登場します。この全体としての設定の奇妙さとそこで働く普通に見える正常な人々(ただし任されている仕事は単なる「単純労働」とも違うように見える妙な、あるいは無意味さが漂う)の総体が、「工場」という世界観を生み出しています。

主人公3人の担当任務の奇妙さ、無意味さ(と本人が感じている)という点は、ある意味、現代のプロレタリア文学なのかもしれません。また一つの街のような「工場」という(会社を超える)場の設定も、巨大組織、システムの中で生きる人間という意味で、労働者問題とつながっているのかも。

小山田浩子の小説は、3人の主人公の一人称視点が切り替わる。各セクションで誰が考えているのかを示す指標がないため、この小説は主要登場人物の間で意識が画一化(均質化)されている。

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Factory (novel)」

この指摘は正しく、読んでいて一瞬、誰が語っているのか、わけがわからなくなります(わたしはページを行きつ戻りつしました)。経験の少ないアマチュア作家が書いたもの、ともし言われたら、「ここはちゃんとわかるように書き分けなくちゃね」と言う書評家もいるかもしれません。しかしウィキペディアに書かれているように(参照:ロンドンマガジン誌の書評)、労働者の意識の均質化、統合化を意図したものだとすると、この構成・様式は見事としか言いようがありません。説明によって理解させるのではなく、読者の読む体験の中で直接的にそれを感じさせるという小説の技術として。

視点は読み進めば進むほど織り交ぜられていき、時に途中で視点が切り替わり、順序が分からなくなることもある[4]。時間の概念は完全に消え去り、読者は最後に、知らないうちに15年が経過していたことを知る[3]。

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Factory (novel)」

『工場』は、労働者階級の無力さを示すことで、現代の資本主義的労働環境を批判している。

DeepL翻訳による、英語版ウィキペディア「The Factory (novel)」

う〜ん。批判している、そうなんだろうか。結論としては。
ではここで再度、海外のAmazonのレビューを見てみよう。

ああすごい、なんて素晴らしい小さな本。カフカのファンが日本の職場に会うには、これは必須です。現代日本文学の非常に興味深い作品!

Amazonの翻訳機能による、ドイツの読者のレビュー(2020年)

この短編小説は、労働と資本主義、階級闘争、そして人生の意味の発見についての邪悪な(途方もない、最高の)物語です。工場の複合施設やそこに住む動物たちについての豊富な描写は説得力があり、時には主人公の日常生活よりも説得力がありました。3人の登場人物の間で物語の視点が移り変わ(るのが面白く)、彼らの生活がどのようにつながっているかが徐々に理解され始めたのが気に入りました(できました)。本書は奇妙で魅力的な本で、現代に対する嫌な(意地悪な)歓喜が込められている。

Amazonの翻訳機能による、アメリカの読者のレビュー(2023年)

怖かったけど、この本を読むのをやめたくなかった。簡単に言えば、仕事がいかにあなたを食い尽くし、企業があなたを所有するかについて書かれていますが、人生の自然な部分と不自然な部分の対比を示す美しい方法で書かれています。

Amazonの翻訳機能による、アメリカの読者のレビュー(2023年)

とまあこんな感じです。400件以上のレビューがあり、星五つが最も多く、全体としても星三つ以上が大半を占めていましたが、「読んだものの、よくわからなかった。いったい何が起きてるのか」という感想もありました。それはあるでしょうね、なぜそう感じるかは理解できます。

「工場の複合施設やそこに住む動物たちについての豊富な描写は説得力があり」というのは確かで、奇妙な存在をリアリティ溢れる描写で書くのはこの作家の特徴であり、魅力だと思います。

英語版ウィキペディアの記述(参照元)検証


最後に英語版ウィキペディアの「厳格な性別役割分担」と「日本のプロレタリア小説」という記述の参照資料を確認してみます。
『The Hole』では、Japan Times、Metropolisという日本の英字紙(誌)がこの参照元になっていました。前者の記事は契約者以外は前段しか読めませんが、後者は全文読めます。その説明の中に次のような記述があります。

『穴』は家庭生活とキャリアの文脈における日本の女性観を検証している。
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夏の蒸し暑さ、孤立した田舎の家、姑の監視の目、そして「嫁」という松浦の新しい肩書きは、すべて主人公を厳格なジェンダー規範の中に閉じ込めているように見える。

DeepL翻訳による、METROPOLIS

このような記述から「厳格な性別役割分担」が出てきたと思われ、ウィキペディア寄稿者のまったくの私見ではなさそうです。
(ウィキペディアでは出典のないものは厳しく指摘され、記事前段部分に警告が入るので、寄稿者は参照元を入れる。が、その記述とウィキの記事内容が一致しているかどうかまでは、検証されていない可能性がある)

『The Factory』はロンドンマガジン誌が、参照文献の一つになっています。以下の解説を読むと、自分が読んだときの印象と重なるとは言えないけれど、納得できるところはあり、ある意味「プロレタリア文学」という呼称も全く間違っているわけではない、と思えてきます。
また、日本における「会社」というものが、たとえばアメリカ人の言う「office」とか「company」とは違うものだ、という感覚も生まれます。

この小説は、3人の登場人物の回転レンズを通して、企業文化とその影響の恐怖を描いている
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家族と社会、仕事とプライベートの境界は、職場が周辺地域に溶け込むことによって曖昧になる。
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工場が何を作っているのか、何をしているのか、本当のところは誰も知らない。漠然と「製品」を作っていることはわかるが、どのような種類の製品を作っているのかはわからない。
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『ファクトリー』の核心は、資本主義の下で暗記労働(機械的な労働)をすることの意味についての瞑想である。

DeepL翻訳による、The London Magazine





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