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[エストニアの小説] 第5話 #8 ニペルナーティとヨーナ(全15回・火金更新)

 パーティーテーブルはもう置かれている。大きな部屋二つに、20メートルはある白いテーブルが二つ、繋がれている。コーヒーがすでにカップやグラスに注がれており、女たちがカトリとメオスの「テーブルへどうぞ」の言葉を待ち構えている。お客たちはソワソワし、これはどういうことなのか、馬鹿にされてるのか、それとも何かの間違いかと疑っている。招かれて、遠くからやって来たのに、こうして壁に張りついてアホのように突っ立っている、誰もお食事を、お座りくださいと言わない。カトリは女の子たちにパンを乗せた皿を運ぶよう、男の子たちにはウォッカのボトルをもってくるよう言いつけた。しかしお客たちはこれを時間の無駄とみている。心穏やかではなさそうだ。

 あのしょうもない聖書読みは、今どこにいる?
 カトリは屋敷の玄関に走っていき外を見る。手をかざして遠くを見るが、道をやって来る者はいない。聖具室係は手紙を受け取ってもいないのでは、それで来ないのでは。この不名誉、屈辱、恥さらし。
 
 テニス・ティクタはすでに大声でわめいている。突撃態勢にはいり、芝生の真ん中に立って弁を振るっている。「聖具室係が来ることはない」 そう言ってゲラゲラ笑った。「そもそもなんでこんなとこに、古びた家に、聖具室係が来るだろうか? もし自分の子に洗礼したければ、教会に行くべきだろうが。70歳の誕生日をやりたければ、聖具室係のところに行けばいい。聖具室係ってのはあちこち走りまわる狂犬なのか?」

 テニス・ティクタにとって、いまは決定的瞬間だった。天の神はここにきて、カトリの数限りない罪と悪事に対して報いを受けさせようとしているのだ。もし聖具室係が姿を見せなければ、カトリの栄誉ある大切な日は台無しだ。この女は永遠の不名誉と恥に埋もれる。これはまさに、この悪女に必要な罰なのだ。どこかの高位にある皇帝の妻みたいに、何と豪語しまくっていたことか。やっと神の厳しい罰が降りた。罪と悪事、来る日も来る日も、毎年毎年、天に向かって吐いた言葉が、10倍になって返ってくる。そしてこのテニス・ティクタがここでそれを見守るために呼ばれた。カトリが恥の重荷の下に崩れ落ちるその瞬間に!

 イライラしている客の中には、メオス・マルティンに向かって言葉を投げつけている者がいる。「おい、主宰者よう、おまえの孫息子は洗礼するんだろ。どうするんだ。見ろよ、太陽がもう沈みはじめてるぞ」 メオス・マルティンは家族のところに走っていって話をする。
 「どうする? 聖具室係が来ない!」 メオス・マルティンは怒りで顔を赤くしている。

 カトリも走っている。小さなアンドレを呼んで、人がやって来る気配がないか見に行かせている。しかしアンドレはすぐに戻ってきてカトリの前に立って、「誰もいない」と答える。
 「まあ、このチビ猿ったら」 カトリは頭にくる。「なんでそれを報告しに来るの。あんたは向こうで見張ってるの。斜面のところで注意深くちゃんと見てなさい。聖具室係が来るのが見えたら、走ってもどってわたしに言いなさい」

 仕方がないのでお客を席につかせることになった。カトリが自分でお祈りを読むのだ。それでカトリは聖書と讃美歌集の中を探す、恥のために目を赤くしている。ところが席についた客たちは、主宰者の存在に気づいてさえいない。皿の音がカチャカチャと音をたて、カップがチリンチリンと鳴り、人々はいっせいに気を許して、おしゃべりをはじめる。ウォッカの瓶がすばやくまわされる。カトリが読む場所を探していることなど、誰も気にしていない。聖具室係が来ないなら、お祈りの言葉も必要ない。

 カトリはがっかりして、主賓の席にすわる。讃美歌集も閉じたまま。
 「あの聖具室係が、なんて恥知らず!」 カトリは悲しい気分だ。「できるだけのことをやって、お客も呼び、費用もたくさん使って、さあ楽しいパーティーだというときに、あのバカは来ない。誰がこのカトリの栄誉のために説教をしてくれる、70歳の誕生日のために良き言葉を言ってくれる、祝う歌をうたってくれるのか。これは恥、これは不名誉、祭りのすべてが不運に投げ込まれた!」

 「聖具室係のところに馬を送るしかない、でもどんなに足の速い馬でも夜までに戻ってくることは難しい」
 カトリは栄光の席に悲しい顔ですわり、目を上げることもない。
 突然ドアが開いて、小さなアンドレがボールみたいに跳ねてくる。
 「来たよ、こっちにやって来るよ!」 アンドレは嬉しそうに声を張り上げる。
 「誰が、何が?」 慌てふためいた声がそれに答える。
 「聖具室係だよ、誰かいっしょに連れてる」 小さなアンドレがさらに言う。
 カトリ・パルビは席を立ち、髪を整える。りんとして自信ありげな、テキパキことを進めるカトリが戻ってきた。
 「本当のことを言ってるんだね?」 声を震わせてカトリはアンドレに訊く。
 「本当だって、間違いない!」 アンドレは断言する。
 カトリ・パルビ、メオス・マルティン、トーマス・パルビ、マーイヤ・メルツ、そしてそこにいる男たち女たち全員がテーブルを離れ、聖具室係を見に急ぐ。
 テニス・ティクタだけがびっくりして座ったままで、ぶつぶつ独り言を言っている。「なんてことだ、こうなるなんて! 聖具室係はやって来るのか!?」

 二人の男が道をやって来る。一人は少し年上で、楽しげに口笛を吹いている。もう一人は元気がなく不満そうに前を見て歩き、疲れた様子。どちらも埃まみれで、長い距離を歩いてきたせいで、太陽にさらされ風を受けて、顔が土のように茶色に染まっていた。年上の方は首からツィターをぶら下げ、ときどきちょっと楽器に指を走らせては楽しげな音を鳴らした。この男はあれやこれやノンストップで話しつづけ、景色の美しさを愛で、森や草原にうっとり見とれていた。鳥を見ても虫を見ても心を動かし、出会った人や生きものすべてに注釈をつけた。どんなものもこの男の目から逃れることはできない、出会うものすべてに心奪われ、すべてに幸せを感じ、胸をそらして歩いていた。幅広い裸の胸をさらし、風をむさぼるように受けていた。この男の名前は、トーマス・ニペルナーティといった。

 連れの若い方の男は返事をいっさいしない。ニペルナーティの後ろを歩き、右も左も見ずに疲れた足を引きずって鼻で息をし、行進する兵士みたいに腕を振っていた。若いのに、背をまげ、むっつり不機嫌で、自分の意思や楽しみで歩いているようには見えない。帽子を目の上にぐっとかぶせ、頭を低く垂れていた。前につんのめるように歩き、左右にからだを振っている。この男の名前はターベッ・ヨーナだった。

 「ほら見てごらん」 年上の方がこう言った。「すべてはうまくいく。何か仕事が見つけられる、それとも何か面白いことが起きそうだ。もし20日間悪いことがつづいたら、そこからはいいことが始まる、それは確かだ。毎日ってのは分刻みで変わる、だから文句を言う必要なんかないんだ」
 若い方が返事をしないでいると、年長の方が少ししてこう言った。「2、3日前の出来事を覚えているかい? 藪の下で寝ていたときだ。そのとき運がまわってこなかったかな? それは何か。わたしは目を覚まして、目の前を見た。そこに野うさぎが座ってたんだ。大きくて灰色の毛のふさふさしたやつだ、そいつがわたしを見てる、そいつの上唇がぶるぶる震えてた。もちろんわたしはすぐに手を伸ばした。が、ああ、手元が狂ってつかめなかった、毛皮が少し手に残っただけ。うまい食事にありつけるところだった。それをどうやって焼こうか、煮ようか。だから運というのはほんの1ミリくらいのところにあるんだよ。毛の一房しかつかめないときは、こういうことがわからない。辛抱と忍耐が必要なんだ。すべてのドアが閉められているなんてことはない。あるところでは犬に追いかけられる、他のところではゲンコツを出される、でも次の場所では歓迎されるかもしれない。文句を言ったり、めそめそしたり、頭を垂れているばかりじゃだめなんだ。意気消沈してるやつは木の下に生えてるキノコ以下だ。雨が一粒落ちてきただけでやられてしまう」
 「今日で3日目だ、何も食べてない!」 若い方が頭にきてジロッと連れを見る。
 「本当かい、3日目なのかい?」 ニペルナーティは驚いた風だ。「夕べ腹いっぱい食べた気分なんだけどな。いや、本当にたくさん詰め込んで体が重いくらいだよ。だけどがっかりするな、ヨーナ。いいかい、この道を見てごらん。馬車が通った跡がいっぱいついてる、酒飲み連中を山ほど乗せて走っていったみたいだ。ほら、ここにも、そこにも、すぐ近くだ、何キロもない。つまりここを人が馬車を走らせ、ここで人がまた飛び乗ったんだ。この近くで結婚式があるのは間違いない。だけど普通、結婚のパーティーは土曜日にはしない。これはたいした金持ちの結婚式だ、前の日からお客を呼んでいるんだ」
 「で、いったいこれがオレらにどう役立つんだ?」 ヨーナは疑わしげに訊く。「どうやってだって?」 ニペルナーティは驚いた。「われわれが割り込めない結婚式なんてものはない。わたしがツィターを弾くことはできないか、神は美しい声をきみに与えなかったかな? こういう能力はいつも価値があるんだ、お金になる。あー、神よ、このような才能があれば、何の問題もなく地球を10周だってできる」

 と、突然、ニペルナーティが驚いて足をとめた。
「ヨーナ、見てごらん!」 そう嬉しそうに言った。「向こうに人がたくさんいて、こっちに向かって走ってきてるんじゃないか? 本当だよ、大騒ぎしてこっちに向かってくるよ。放蕩息子がやっと家に帰ってきたみたいにね」
 ヨーナはゆっくり顔をあげると、気のなさそうに手を振った。
 「望みなし、見間違いだ」 そう陰気に答える。「なんであの人たちがオレらに会いたくて、こっちに来るなんて思えるんだ?」
 「わたしたちを目指してるんだよ!」 ニペルナーティは断言する。「見てごらん、あの人たちがどんだけ力いっぱいスカーフを振ってるか、わたしたちに笑いかけて、すごい勢いで走ってくる、まるでわたしたちがアメリカからやって来た金持ちの叔父さんみたいにね。おそらくあそこで結婚式があって、すぐにでも音楽ができる人を求めてるんだ。わたしのツィターを目にして、それで頼みに走ってやって来るんだ」
 「そういう連中が、見知らぬ音楽家に声をかけたりするか?」 ヨーナはまだ信じられない。そう言いつつ、目を人々に据えている。間違いない、人々はこの二人の方へと走ってきている。
 「なんか勘違いが起きてるんだ」とヨーナは喜ばない。「誰か違う人と勘違いしている」
 「わたしたちが新手の救世主かなんかと….」 ニペルナーティはそこで素早く心を決めた。「わたしはあの人たちのところに行く。あー、くそったれ、わたしのお腹はもう期待でクゥクゥいって飛び跳ねてる、鼻はいい匂いでいっぱいだ」

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'A Day in Terikeste' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue DaikokuTitle painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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